第2話 兄に起きた異変
人生二周目と言っても、そう楽なものではなかった。
なにせ、前世は身分も何もない世界だったのだ。食事のマナー、ダンスのレッスン、語学、歴史、裁縫に乗馬と、覚えなければならないことは山ほどある。
たとえ大人の精神を持っていたとしても、経験のないことを、すぐにできるようになるわけではない。私は慣れない勉強に苦戦しながら、毎日を過ごしていた。
それでも、家族や使用人たちに囲まれた生活は穏やかで、私はこの世界での暮らしを少しずつ楽しむようになっていた。
けれど、私が八歳、兄が十歳になった頃、その穏やかな日々に変化が訪れた。
「耳が痛い」
最近、兄がよく耳が痛いと泣くようになったのだ。
もちろん両親は医師に診せたが、原因はまったく分からず、薬もほとんど効いていないようだった。
「あなた、もう一度医師を呼びましょう?」
「ああ。今度は南部にいる医師に来てもらおう。……神殿にも相談した方がいいかもしれないな」
「そうね」
部屋を出た両親は、不安そうな顔で話し合っていた。
「お兄様……」
私はベッドの傍に座り、ただ苦しむ兄を見ていることしかできなかった。
その日の夜、目が覚めた私は水が飲みたくなって食堂へ向かった。
貴族はメイドを呼んで持ってきてもらうのが一般的だが、流石に真夜中に起こすような図太さは持ち合わせていない。
自分の部屋へ戻る前に兄の部屋を覗くと、兄はベッドに座り、両耳を塞いで苦しそうにしていた。
「お兄様!」
私は慌てて駆け寄った。
自分にできることは何もない。それでも、ただ苦しむ兄の傍にいたかった。背中をさすりながら、白くなるまで力の入った兄の手に触れた。
その瞬間、ぱぁっと私の身体が光を放った。
自分自身も驚いたが、兄も驚いた顔を浮かべている。
「あれ? 痛くない」
「お兄様?」
兄は医師の指示で両耳に詰めていた綿を抜いた。
「ジュリエット! 耳の痛みが治った!」
「本当!?」
私たちは顔を見合わせて喜び合う。
けれど、そこで新たな疑問にぶつかった。
「ジュリエット、何をしたの?」
「わ、私にも分からない」
兄に聞かれても、答えることができなかった。
それでも、私の身体が光ったことと、兄の耳の痛みが治ったことを考えれば、私の何かが作用したことは間違いなさそうだ。
夜中だったが、私たちは両親を起こすことにした。
「本当に良かった。良かったわ」
母は涙を流して喜び、兄の身体を強く抱きしめた。
「本当にジュリエットの身体が光ったのかい?」
「うん。間違いないよ」
同じ現象が起きるか確かめるため、私は兄の手にもう一度触れた。すると、やはり私の身体は光り、兄の耳の痛みも和らいだ。
「これは一体どういうことなんだ?」
「まさか、ジュリエットはイレーヌ様に選ばれた存在なんじゃ……」
母の口から漏れた『イレーヌ』という言葉に、私はぎょっとした。
神に選ばれた存在だなんて、私がそんな大それた存在であるはずがない。それに、神に選ばれた者だと公表すれば、どんな大変なことが待ち受けていることか……。
私は慌てて両親に頼んだ。
「お父様、お母様。このことは、私たちだけの秘密にしませんか?」
「うーん。そうだな。どんな力かよく分からない以上、変な因縁をつけられても困るしな……」
「そうね。私はエリクの異常が治ったのなら、それ以上何も言うことはないわ」
こうして、今回の件は家族だけの秘密となった。
自分の部屋に戻った私は、今日起きたことを考えていた。これまで、この世界は私が前世で読んだことのある小説の世界ではないと思っていた。こんな歴史を描いた小説は知らないから。
でも、今日みたいな不思議なことが起きるのなら、もしかしたら私が知らない小説の世界なのかもしれない。そう考えながら、私は必死に前世で読んだ作品を思い返した。
「ん~」
目を瞑って唸っていたとき、私はふと、一つのジャンルを思い出した。
「センチネルバース?」
次の日、私は兄にだけ前世の記憶があることをこっそり話した。
流石に両親には、「あなたたちよりも精神年齢が上なんです」と正直に明かす勇気はなかった。
兄に説明した『センチネルバース』は、あるドラマを元に派生したジャンルの一つだった。
このドラマに登場する『エスパー』は、普通の人間よりも五感がはるかに鋭い。遠くの音が聞こえたり、わずかな匂いを感じ取ったりする一方で、刺激が強すぎると苦痛になってしまう。
そんなエスパーを支えるのが、『ガイド』と呼ばれる者だ。ガイドがエスパーに触れることで、過敏になった感覚を落ち着かせ、精神を安定させることができる。
この行為を『ガイディング』と呼ぶ。ガイディングを受けられないエスパーは、次第に心身の負担が大きくなり、最悪の場合は錯乱したり、発狂したりする。
簡単に言えば、『エスパー』には『ガイド』が必要なのだ。
「お兄様、遠くの音とか聞こえない?」
「……」
私が尋ねると、兄は目を瞑り、音に意識を集中させた。
「あ。食堂で皿が割れた音が聞こえた」
「やっぱり」
食堂は一階へ降りて左に曲がった先にある。もちろん、私にはお皿が割れた音なんて聞こえない。
「じゃあ、僕はそのエスパーなの?」
「多分、そうだと思う」
兄は不安そうにしながらも、私の拙い説明に納得するように頷いた。
「じゃあ、ジュリエットはガイド?」
「多分……。エスパーに触れると、ガイドとしての能力が発現するって書いてあったから」
「へぇ。すごいね」
兄の言葉は、どこか他人事だった。
無理もない。私もただ知識として知っていただけで、実感なんて全くなかった。
本当の意味でこの能力を理解するには、まだもう少し時間が必要だった。
「じゃあ、これからも僕は耳が痛くなるんだね」
「大丈夫よ。私がお兄様の傍にいるから」
私は兄の手を握りしめた。
「うん。ありがとう、ジュリエット」
兄はふんわりと微笑んだ。
この時の約束を守るためにも、私は常に兄の傍にいるよう心掛けた。
兄が学校に通うようになった後も、定期的に街で会ったり、私が寮まで会いに行ったりした。だから、自分も学校に行くようになってからは、仲の良い兄妹としてちょっと有名になったぐらいだ。
問題は、学校を卒業してからだった。
兄は大学院のような場所へ進学したため、私と同時期に卒業したのだが、この国では卒業後、男子は一定期間、王室騎士団に所属することが義務づけられていた。魔獣との戦いや戦争に備え、すぐに動ける人材を育成しておくことが目的だった。
騎士団に入ってしまえば、新人騎士は簡単に外出できない。兄はエスパーの能力をうまく使いこなせるようになったが、それでも定期的な『ガイディング』は必要だった。
「うーん」
「どうしよう、お兄様」
「どうしよう。街を巡回する部署に配属されたら会うこともできるけど、運よくそこに配属されるかは分からないし」
「そうよね」
私たちは顔を見合わせ、再びうーんと唸った。
その時、コンコンと部屋のドアがノックされた。扉を開けると、母が心配そうな顔で立っていた。
「あなたたち、ちょっといいかしら」
そう言って部屋を出ると、母は父の執務室に私たちを連れて行った。
「エリクも騎士団に入団する年になったな」
「はい」
「耳の調子はどうだ?」
いつも私たちの様子を静かに見守っていた両親も、やはり今回の件には口を挟まずにはいられないようだった。
「今まで二人の能力のことは秘密にしていたが、流石にもう隠しておくことはできんかもしれん」
「はい……」
父の絞り出すような言葉に、私と兄は頷いた。
それは覚悟していたことだ。
騎士団に入ってからガイディングをしようと思えば、上司に融通を利かせてもらわなければならない。貴族として暮らしていく以上、騎士団への入団を拒む選択も取れない。
とりあえず、兄がどこに配属されて、どんな人が上司になるのか分からないため、配属先が決まってから詳しいことは話し合うことになった。
まず、目先の問題としてあるのが、兄と私のデビュタントだった。
兄は学院にいたため、二年遅れのデビュタントとなる。
「お兄様……。私、もう次のドレスでいいから」
「ほらほら、頑張って。一生に一度のことなんだから、しっかり選ぼうね」
母と兄と共にドレスショップへ行った私は、何度も着替えなければならないことにうんざりしていた。
こういう時は、前世の着替えやすい洋服が恋しい。
ただ、コルセットではなく下着が開発されている点はありがたかった。肋骨が折れると分かっているようなものを、装着する勇気はない。
この世界の貴族社会では、親が婚約者を決めることもあれば、デビュタント以降に出会った相手と婚約することもあった。
しかし、兄はあまり婚約者選びに積極的ではなかった。
理由は言わずもがな、エスパーの能力のせいだった。
「この能力のことを相手が理解してくれるとは思えないしね。でも、成人した以上、結婚しないといけないことは分かっているんだ」
兄は男で、しかも長男だ。これからも貴族として生きていく以上、世間体を考えれば、結婚しないという選択肢はない。
「まだ、どんな令嬢と出会うのか分からないんだから……」
母は心配しながらも、そう兄を諭した。




