王妃は最初の演奏で泣き、二度目で恋をし、三度目で秘密を漏らす ⑤
ルシアンの演奏には、問題があった。
イントロが長い。
異常に長い。
普通の楽曲なら、
「そろそろ主題かな?」
となる辺りで、まだ感情を撹拌している。
丁寧に。
執拗に。
なお、これはあくまで演奏会である。
──ミィィィン……
低音が響く。
王妃の肩が震えた。
(あっ……)
だめ。
来た。
尾てい骨。
また。
音が下半身の神経に住み着いている。
人体構造がおかしい。
ルシアンは静かに弓を引く。
まだイントロ。
全然始まらない。
だが王妃だけは、もう始まっていた。
(んっ……この低音……)
(背骨をなぞるみたいに……)
(だ、だめ……今日すごい……)
隣席の伯爵夫人は普通に聴いている。
なぜ平気なのか。
王妃には理解できない。
そして高音。
細く。
鋭く。
美しい旋律が夜気を裂く。
王妃、限界。
(あぁっ……)
もう脳内が完全に危険だった。
高音を“声”として認識し始めている。
いや、ただのヴァイオリンである。
だが恋をした人間の脳は、かなり雑にバグる。
ルシアンは表情を変えない。
そこがまたダメだった。
無自覚っぽい色気が一番危険なのである。
王妃は思う。
(こんな顔で……こんな音を……?)
(絶対わかってない……)
(いや、わかってる……?)
その思考だけでさらに情緒が乱れた。
忙しい。
ルシアンは、まるで急ぐ気がなかった。
まだイントロである。
王妃は信じられなかった。
この男、まだ本題に入っていない。
なのにこちらの理性だけ先に終わりかけている。
低音がじわじわ来る。
高音が耳元を撫でる。
肌を直接いじられているみたいだった。
王妃は扇で口元を隠す。
理由?
普通に顔がやばいからである。
「……王妃様?」
侍女が小声で囁いた。
王妃はハッとする。
「な、なにかしら」
「その……先程から肘掛けを強く握られておりますが……」
見ると、白魚のような指が完全に力んでいた。
終わっている。
だが演奏はまだ終わらない。
イントロである。
まだ。
長い。
長すぎる。
(は、早く……)
王妃は祈った。
(もう、限界……)
※なお、主題を待っているだけである。
そして。
ようやく。
旋律が主題へ入る直前。
ルシアンが、ほんの少しだけ目を閉じた。
それだけ。
本当に、それだけだった。
だが王妃は、
(あッ……)
と思った。
終わった。
理性が。
その夜の日記には、ただ一行だけ残されている。
『今日の高音、ほぼ接吻だった』
文学として提出するには、だいぶ危険だった。




