幸福の使い道
「それは『革命の指輪』と言ってね」
「『革命の指輪』……?」
崇己は「そうさ」と言って頷くとニッと笑みを浮かべた。端整な顔立ちの割に、少年の様な無邪気な笑みだ。
「キミは自分が不幸であるという自覚が嫌という程あるんじゃないかと思うんだけれど、どうかな?」
渡された指輪をどうしたものかと困り、ビニール袋の端を摘んで持ったまま幸太朗は曖昧に返事をした。
「まあ、幸福な方ではないですね」
幸太朗の回答に、崇己は意外そうに瞬きをした。
「キミ、随分とポジティブ思考だね。大抵この指輪を渡す様な人物っていうのは、自分が不幸のどん底だと考えて、暗くて卑屈な顔をしてるんだけれど」
崇己はそう言って幸太朗の様子を上から下まで観察した。
「ああそうか。火傷の痕はあるけれど、キミは五体満足なのか。内蔵も一通り揃っているし、病気すらしていない。運は悪いけれど、不幸という程なのかは正直微妙に見える。とはいえ不幸かどうかは本人の気の持ちようだからね。
本人が不幸だと思っていれば、他人がどう思おうと不幸なんだから。その観点で言うのなら、キミ以上に不幸な人間なんてもっと居そうなものだし、今まで私が会った人間は少なくともキミよりもずっと暗くて陰気で不幸そうだった」
腑に落ちなそうな顔をしながらも、崇己は「まあ、いいや。私の仕事はキミの様な存在に『革命の指輪』を渡し、平等性を保つ事なんだから」と言って、無理やり自分を納得させようとしている様に見受けられた。
「それってつまり、僕の他にもこの変な指輪を配ってるんですか?」
「変なって、失礼だね、キミ」
「あ、すみません。でも、色んな人に配ってるのか気になったので」
幸太朗の質問に、崇己は肩を竦めて誤魔化した。
「キミ、『大富豪』ってゲームは知っているかい?」
「……トランプのですか?」
崇己は頷くと、胸ポケットから数枚のカードを取り出した。細く長い指で『2』のカードを挟んで幸太朗に見せる。
「通常はこのカードが強いカードとされているよね? ところがだ、『革命』を起こすと……」
崇己は『3』のカードを指に挟み、ニヤリと笑みを浮かべた。
「普段はクズでしかないこのカードが強くなる。つまりは、その『革命の指輪』にはその力が宿されているってことさ」
崇己は器用にカードを指で弾き、スマートな所作で胸ポケットへと収めた。
「キミは人生に於いて随分と不幸ばかりを体験してきたからね、その指輪には平等からはみ出た『幸福』が蓄積されている。その指輪の力を使って『革命』を起こした途端、キミは『不幸』から『幸福』になれるってワケさ」
——やっぱり怪しい宗教勧誘なんじゃないか……。壺じゃなく、指輪を売りつける気か。
幸太朗はうんざりした様に眉を寄せ、訝し気に指輪を見つめた。
「先ほども言いましたけれど、僕にはお金なんてありません。この指輪はお返しします」
幸太朗が透明のビニール袋ごと突き返したが、崇己は受け取らずに一歩後ずさり、舌打ちをして面倒そうに頭を掻いた。
「すんなり信じるだなんて最初から思っちゃいないさ。それにお金なんか取る気は無いよ。それは最初からキミのものなんだからね。私はただ届けに来ただけさ」
「そんな事言って、後から請求する気なんでしょう?」
「しないさ」
崇己は即答し、溜息を吐いた。
「キミは疑問に思ったことが無いのかい? この世の中には不幸な人間もいれば、幸福な人間もいるという不平等な事にさ。それだというのに全ての人間は100%同じ結末を迎えるんだ。『死』という誰もが平等に迎える結末をね」
崇己の言葉を聞き、幸太朗は唇を噛みしめた。
——僕は、『どうして僕ばかり』だなんて考える事を止めた。考えたところで虚しいだけで無意味だからだ。けれど、この人の言う疑問は、心の根底にずっと燻っていることだ。それを無理やりに考えない様にして、ポジティブであろうとずっと誤魔化していただけに過ぎない。
幸太朗は無言のまま崇己の言葉を聞いた。
「『死』という平等に向かう為の道のりは、『不平等』だなんて。そんなのおかしいじゃないか。私の仕事はそれを正す事だよ。つまりはチャンスを与えているのではなく、本来の幸福の持ち主に返しているだけなんだ」
くるりと踵を返すと、幸太朗をベンチに残したまま崇己は歩きながら言葉を発した。
「使う時はそれを左手の親指につけて、キミの幸福を使用する『目的』を念じればいい。勿論、キミが今まで溜め込んだ幸福の残量によっては叶えられる『目的』は狭まれるけれど、『革命の指輪』の所持者として選ばれる程の不幸の持ち主なんだから、それなりの事はできるはずさ。
他にも色々と細かい規約はあるけれど、気になったら名刺に書いてある住所にでも来るといい。私が教えられる範囲でなら質問に答えてあげるからね」
崇己はさらさらとそう言いながら、無言のままでいる幸太朗に構う事無く公園から立ち去ってしまった。
冷たい水を掛けられてびしょ濡れになった顔をハンカチで拭きながら、幸太朗は深いため息を吐いた。
真夏の公園は余りにも灼熱で、遊ぶ子供の姿などおらず、蝉ばかりが元気に鳴いている。
崇己から渡された透明なビニール袋を摘み上げ、中の指輪を見つめる。先ほどの説明はどう考えても信じられる様な内容ではない。だが、ひょっとしてという事もあり得るなと考えて、馬鹿馬鹿しく思いながらも、幸太朗は袋の中から指輪を取り出した。
何の変哲もないシンプルな銀色の指輪だ。崇己の言った通りに左手の親指に嵌めてみると、驚く程にフィットした。まるで自分の為に作られた指輪であるかのようなフィット感だ。
中に小さな電子チップ等が入っていたりするのだろうかと、右手の人差し指で弾いてみたが、よく分からない。
座り直してもっとよく見ようとした時、ベンチの縁を掴んでしまい、灼熱と化した金属に思わず「熱っ!」と悲鳴を上げた。
——全く、異常な程の暑さだ。雨でも降ってくれないかな……。
幸太朗がそう考えた時、指輪が僅かに光を発した。見間違いだろうかと瞬きすると、ポツリポツリと周囲から音が聞こえ始め、ザァっと雨が降り出した。
「……え? 嘘だろう?」
暫く呆然としながら雨に打たれた。大きな雨粒は熱されていた大地に負けることなく降り注ぎ、あっという間に熱を吸収していく。
いくらタイミングが合い過ぎるとはいえ、この雨が指輪のせいだとは俄かには信じがたい。周囲をキョロキョロと見回し、目に入った石ころに向かって『動け!』と念じてみた。
微動だにしない石ころにガッカリとして、やはりこの雨はただの自然現象であり、指輪の力などではないと考えてため息を吐いた。
このまま雨に打たれ続けては、真夏とはいえ風邪を引きかねない。会社をクビになってから就職活動を開始し、ハローワークには毎日の様に通い詰めている。一張羅のスーツが渇かなければ困るなと思い、幸太朗はベンチから立ち上がった。
土砂降りの中、ずぶ濡れになりながら歩道を歩く。幹線道路は突然の豪雨で激しくワイパーを動かした車が走行しており、その横を自転車に乗った少年がふらつきながらも必死に漕いで、こちらへと向かって来る様子が見えた。
幸太朗はその少年に面識があった。
新田晴哉。同じ児童養護施設で生活を共にしていた事がある。尤も、晴哉が施設に在籍していたのは一年にも満たず、今は里親の元で生活をしているらしいが。
さほど仲が良かったわけでもない為、晴哉に声を掛けようか迷っているうちに、前髪から滴り落ちる雨が目に入って染みた。手の甲で拭った時、怪しげな指輪をまだ外していなかった事に気づいて立ち止まった。
GPSか何かが入っているかもしれない。こんなものはどこかに捨てて、家には持ち帰らない方が無難だろうと考えた。晴哉に声を掛けるのを諦めて、幸太朗は指輪を外そうとした。
丁度、自転車に乗った晴哉が幸太朗の横をすれ違った時だった。タイヤが滑り、バランスを崩して車道の方へと転んだ。けたたましく車のブレーキ音が鳴り響き、クラクションが激しく慣らされる。
——晴哉!! 怪我をしないで!!
咄嗟にそう考えた時、指輪が一瞬だけ強い光を放った。幸太朗は顔面蒼白になりながら道路に倒れている晴哉へと視線を向け、状況を確認した。
車が晴哉にぶつかるほんの直前で停止している様子が伺える。
「晴哉!!」
叫んだ幸太朗の言葉に答えるように、晴哉がむくりと起き上がった。
「あれ? 幸太朗さん、久しぶりだね!」
へらへらと笑う晴哉の様子から、酷い怪我はしていない様だと幸太朗は安堵した。
「大丈夫か? 怪我は無かったか?」
運転席から車の運転手が降りて来て、晴哉の無事を確認した。人の良さそうな恰幅の良い中年の男性だった。
「大丈夫です。すみません、一人で滑って転んだだけなので。俺、車にも全然触ってないし!」
晴哉の方は、自分の怪我よりも車に傷をつけていないということを主張したかった様だ。幸太朗は自転車を起こすのを手伝い、一緒になって車の運転手に謝罪した。
「酷い雨だから、気を付けて」
「ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
幸太朗は車の運転手とそんなやりとりをした後、走り去る車に向かって晴哉と共に頭を下げた。
「まさかこんなところで幸太朗さんと会うと思わなかった。偶然だね! でもごめん、俺ちょっと急いでて」
「うん。それはいいけれど、とにかく気を付けて帰って」
激しい雨の中で会話を続ける事を遠慮して晴哉と別れた。
ずぶ濡れになりながら、今更ながらにあわや事故となっていたであろう瞬間を思い出し、恐怖で震えた。一瞬指輪が光った様に思えたが、ひょっとして晴哉が無傷だったのはこの指輪のお陰だったのだろうかとも考えて、指輪をじっと凝視した。
「……へぇ? 他人の為に指輪の力を使った奴なんて、初めて見たよ」
背後から声が聞こえ振り返ると、傘を差した崇己がニッと無邪気な笑みを浮かべて立っていた。
「どういうことですか? 晴哉が無傷だったのは、この指輪の力だとでも言いたいんですか?」
幸太朗の問いかけに、崇己は「そうさ」と言って頷いた。
「言い忘れた事があってね、戻って来たんだ。お陰で面白いものが見れた」
崇己が幸太朗に傘を差しだしたが、「今更ですよ。もうずぶ濡れですから」と言って、断った。
「その指輪はね、キミが今まで溜めた幸福を使う訳だから、『キミの幸福』を叶えるのさ。つまり、あの少年が無傷である事で、キミは『幸福』だって事だね」
「……どういう意味ですか?」
訝し気に眉を寄せた幸太朗に、崇己はニコリと微笑んだ。
「キミが、バカみたいなお人好しだってことさ。私は、長いことこの仕事をしているけれど、キミの様な人間を初めて見た。俄然興味が湧いてきたよ」
雨が上がり、空に虹が浮かんだ。キツネにつままれた様な顔をしている幸太朗に、崇己は笑みを向けたまま傘を閉じた。