幕間『暗夜行路』
♰
風に揺れる白い髪。罪業と祈りを背負いし小さな体躯。
反逆の航路を往く少女――マリモジュナ。
その抜錨を見送り終えた『プティ・シムティエール』の主人――ベルナデット・マドレーヌ・ロードナイトは、夢のようだった日々の余韻が間延びしてしまわないうちに、背後の使用人たちに向けて、日常へと戻るよう告げた。
それを皮切りとして、お屋敷の中へと戻る者が五人。
さりげなくお屋敷の外へと足を動かす者が一人。
そして最後に残った一人を、ベルナデットは呼び止める。
「――それで?」
「……は」
脈絡のない、しかし明確に、何かの文脈の続きを問うような呼びかけに。
主人の影とも言うべき家令――ラフィーネ・セルヴィールは、逡巡する。
昨夜まで記憶を遡ってみては、その間に交わした主人との会話を手繰ってみたものの、不意に再開されるような……中断されていた話題は存在しない。
一応、凍結していた計画を再始動させる目算が立ったために、今後の事業計画について早急に詳細を詰めなければならないというタスクを抱えてはいる。
だがそのような話、いくら二人だけとはいえお屋敷の外で、ましてや朝食前にすることではないだろう。
つまるところ、主人が何を問うているのか。またこれから何を言うのか。
皆目見当が付かなかったラフィーネは。
「それで、とは一体何のことでしょうか」
潔くそう訊き返すことにした。
「見送りを終えた今なら、教えてくれてもいいんじゃないか?」
「…………」
ラフィーネは再び思案する。けれどやはり、心当たりがない。
家令として、やるべき業務はきちんとこなしていると断言できるが……。
しかし主人がそう言う以上、何かを見落としているのは自分のほうなのだろう。
そう考えた家令は、もう少しヒントを貰うことはできないかと、己の察しの悪さを正直に吐露しようとした……矢先だった。
とぼけているわけではなく、本当に何のことか分からない様子の家令を見て。
ベルナデットは意図して省いていた情報を補完するように言った。
「友人として、リエッタから相談を受けたのだ。姉が、かつて共に働いていた頃の妹の姿を、過去への未練を、マリモに投影している疑惑がある――とな」
「…………」
淡々と語るベルナデット。
その声音に非難めいた色や寄りそう温もりはなく。
ただ、人がどうしようもなく抱えてしまう感情を、許容する姿勢――ある種の公平さのようなものが存在していた。
しかし許容をするためにはまず、その存在を知らなければならない。
大切な、誰にも渡したくない想いを、宝物のように胸に秘めるのもいいだろう。
けれどそうするときは同時に。
秘めているだけでは、声を上げなければ、想いとはどこにもいけないモノであると理解しなければならない。
なればこそ、ラフィーネ・セルヴィールがマリモジュナへと抱いた感情。
その行く末を、それに対するスタンスを見定めるべく、ベルナデットは言及することを決めたのだ。
雇用主として。
そしてそれ以上に。
生まれたときからずっと傍に居続けてくれた、大切な友人として。
在りし日への未練や執着――その在り処を。
「お嬢様」
「なんだ?」
そんな主人の思考を、果たして家令は。
影のように切っても切り離せない運命共同体は、どこまで理解したのか。
「――何卒ご容赦を」
答えは、たった一言だった。
けれどその一言には、きっとすべてが込められていた。
同じ道を往くはずだった姉妹。けれど別々の道を歩み出した姉妹。
過去の面影を持つ少女との偶然の出会い。そして再び訪れた離別。
過去への郷愁も、ifへの憧憬も……一歩間違えればそれは、互いを傷つけ合うだけの徒労か、己を堕落させる醜い依存へと至っていただろう。
だが、それらを抱いてなお、使用人は遠く離れていく背中を見送った。
自らの想いを最後まで秘め通すことを。留まる者になることを。
もう一度――選び直したのだ。
ゆえにこそ、家令が穏やかに懇願したのは。
抱いた感情への容赦ではなく、感情を抱いたかどうかへの容赦だった。
その先のことについてはもう、済んだことなのだ。
――それが答えか、と。
ベルナデットは満足したように、そして少しだけ呆れたように、半分だけ口角を上げた。
「まったく難儀な性格をしているよな、お前たち姉妹は」
疼く心。とめどない叫び。いつか消えるのかも定かではない激情。
それらを胸に秘め、抱え続けると決めたその在り方は――ひどく、寂しくて。
「いや……」
それはベルナデットとて同じだ。
傷つくことで命の証明を行うと、ロードナイトの永遠に誓った。
罪を、裏切りを、赦せるかは分からないけれど……それでもと。
手放す痛みを、失う苦しみを――それこそが自分なのだと肯定した。
「……私もあまり、人のことは言えないか」
小さく呟かれた自覚。
浮かび上がるのは、疑念に対する疑念。
自分と同じ在り方を、ひどく寂しいことに思うなんて。
怖いのだろうか。心の奥底では、不安に思っているのだろうか。
……そうなのかもしれない。
見失った願いを取り戻したとて、己が運命に対する恐怖は消え去らないものだ。
ただ、嵐の中を突き進む覚悟ができただけで。
手が震えて、足がすくんで、心が砕けそうになって、当然だ。
だけどきっと。
未練も、執着も、いつかはやがて――愛しく抱き締められる哀愁になるはずだ。
幸せだった頃の思い出の反芻などではなく。
前に進むために、己が糧として、それを胸に抱くことができるのだと。
そう……信じたい。
――彼女が星を見上げ、反逆の航路を進むように。
この命題を手荷物として、永遠の旅路を往くとしよう。
彼方の空と同じ色の瞳で射抜いて、ベルナデットは朝食の席に向かった。




