第65話『抜錨』
☆
クーペさんへの挨拶が終わり、次はラフィーネさんのところだ。
そう思い、目星をつけたアイロン室へと向かう途中。
ふと、階段から誰かの足音が聞こえた。誰か下りてくるみたいだ。
私は足音の主を確認するべく顔を上げる。
すると、踊り場に姿を見せたのは。
「――あ、ライナさん」
探し物が、思わぬところから見つかったときと、同じ声が出た。
「あ――って何さ、人の顔見て」
私の反応に対してライナさんは、露骨に嫌そうな声で、けれど話し掛けられてちょっと嬉しそうな顔で、こちらを向いた。
「今、皆さんに挨拶をして回っているんですけど、ライナさんってわりと神出鬼没なので。運よく会えたなと思って」
そう。この八日間のライナさんは、遭遇率こそ低くはなかったものの、特に決まったスケジュールで動いている感じではなかった。
おそらく、ラルエットの調査をしていたためだろう。
普段の庭師としての業務内容がかなり不明瞭で、動きが読めず――なんとなく庭園の手入れとか、温室で育てた野菜などをクーペさんに卸しているという想像はできるが――それゆえに、必ず姿を見せる朝食時に捕まえて、挨拶するという算段を立てていたのだ。
それがこうして偶然にも会えたのだから、渡りに船というか、扉が一つ閉まると必ず別の扉が開くというか、そんな感じの幸運だ。
「さあて――本当に運だと思う?」
「え?」
「なんちゃって。冗談」
「………」
冗談になってるのかも分からないことを口にして、ライナさんは笑った。
その様はまさしく軽薄そのもので、私は呆れるように眉をひそめる。
こういうところ、ちょっと判断が難しいのよね……意味深そうに思わせたらそうでもなくて、けどたまに、気付いたらさくっと刺されているときもあって。
とりあえず今回は、警戒心を少しだけ緩めて、降りてくるライナさんを薄目で眺めていると。
窓から射し込む陽光。その逆光の中で、ライナさんの右手にある物を見つけた。
「――その時計、グットレットさんのですか?」
チェーンの部分を巻きつけるようにして右手に納められた、懐中時計。
それを指して尋ねてみる。
「そうだよ。調子悪いって聞いたから、ちょっと診せてもらったんだ」
「丁度さっきその話を耳にしたんです。時計の整備って素人に扱える部分がない、すごく専門的な技術が必要だと聞いたことがあるんですが、ライナさんってかなり多才ですよね」
「ふはは、君もようやくオレの凄さが理解できたかな?」
「いえ、逆に驚かないことにしました」
「…………」
今度はライナさんのほうが、ジト目で私を見つめた。
「冗談ですよ、あはは。時計は昔から詳しいんですか?」
「いや、覚えたのはわりと最近かな。少し前、暇な時間が沢山あったときに教えてもらったんだ。ズレた歯車、乱れた時間を正す行為は気持ちがいいよ。気まぐれで手を出したとはいえ、結構良いライフワークになりそうだ」
手元の懐中時計に視線を落とすのと同時に、ぱかりと蓋が開かれる。
かち。かち。かち。
淀みなく周回する秒針と、忙しなく動いている歯車の音。
「ねえ――」
ライナさんが時計を見ながら呟く。
「ズレた歯車を直した時計が刻み出す時間は、以前と同じモノだと思う?」
「……? 何かの哲学か、心理テストですか?」
「まあそんな感じ。で、どう?」
「うーん……」
いきなりの質問に戸惑う気持ちはあるが、腕を組んで思考を巡らせてみる。
得意かどうかはさておき、こういった万人にとっての正解がないこと、あるいは自分なりの正解を出すしかないことを考えるのは、それほど嫌いではない。
「そう、ですね……秒針が時計の外側に出ることはない。ずっと同じところをグルグル回るという意味では、直す前も後も同じ時間と言えなくもない……ですけど」
「それが君の答え?」
「……いえ。たとえば時計を見る人――つまり観測者がいるなら、同じ一秒でも、過去と現在と未来でそれぞれ違うわけですから、主観では違う時間ということになります。なので『ズレた歯車を直した時計が刻み出す時間は、以前と同じ秒針の周回でも、異なる時間である』――が、私の答え……ですね」
「なるほど、ね。うんうん、悪くない答えだとオレは思うよ」
「それだけですか?」
「そう、それだけ」
悪くない答えとのことだけど、特に質問の解説などは無いらしい。
できれば意図を話してもらいたい、考えるうちに胸がチクりとするような質問だったけれど……向こうが話さない以上、私も藪蛇になるようなことは避けよう。
代わりに、と言ってはなんだが。
「……あの、私も一つ、訊いてもいいですか」
以前から少し気になっていたことを質問してみることにした。
「ん、何かな?」
「ライナさんって、何歳のときに学院に入学したんですか?」
「おや、どうしてそんなことを訊くんだい?」
「特に深い意味はないんですが、使用人になるのに合わせて編入したなら、大学部からってことになります……よね?」
ミリエルホームへの援助が始まったのは、二、三年前のことだと以前聞いた。
そしてあの方が運命の夜を迎えたのは、中等部の、それも卒業式を控えた学年――となると財が成され、『プティ・シムティエール』を拠点とするようになったのは、中等部から高等部に上がるまでの間と考えていい。
そのタイミングで当時十八歳だったライナさんは使用人となり、同じ時期に学院に通い始めたのであれば……うん、やはりそういうことになるはず。
もちろん、ミリエルに居たときから学院生だったという線もある。
けれど寮生活はしていなかったっぽいし。
本当に何となくだけど、私の中ではそうだという前提で、質問が浮かんだのだ。
「私も編入組ですけど、高等部からと大学部からでは、後者のほうが想像できないぐらい大変そうというか……使用人としての仕事もあるでしょうし。何か効率のいい勉強法とか、すごく頼りになる『個人指導員』の方がいらっしゃったなら、知りたいなと思ったんです」
「ふぅん――――」
「…………」
なんだ。
今一瞬、ライナさんがとても鋭い眼差しを浮かべたような。
……まただ。
底知れぬ雰囲気。目の前にいるのに掴みどころのない感覚。
この人は一体誰なのだろう、と。
もう見慣れたライナさんの顔に、思ってしまう。
しかし、それも束の間のこと。
ライナさんはすぐにまた軽薄な笑みへと表情を切り替えて、そして軽快な口調で言葉を続けた。
「あははっ、せっかくだけど――その質問には答えないでおくよ」
「え――えぇ?」
「訊けば誰もが必ず質問に答えてくれると思ったら、それは大間違いだ。
人は誤魔化しもするし嘘だって吐く。自分を守るためとか何かを成すためではなく、ただ気持ちがいいから傷つけたり壊したりする純粋な悪だって居る――いや、有るのだからね。
理性とは過信するモノではなく、疑いを積み重ねることで発揮されるモノだよ」
「そ、れは……」
「なんて、君はとっくに理解しているかな? ま、来たるべき時が来たら答えるよ。君が秘めた、もう一つの質問も含めてね」
私が秘めた――もう一つの質問。
言うまでもなく、昨日ライナさんが匂わせた、過去の縁のことだ。
本来であれば真っ先に問いただされるべきそれを、しかしなぜ、無かったことのように扱うのか。
そうするに至った私の思考や展望を読み切ったかのように、ライナさんは予言めいたことを告げて――そして最後に。
「オレから会いに行くか、君から会いに来るのかは分からないけど――その時を楽しみにしているよ、マリモちゃん」
別れの挨拶ではなく、再会の約束を口にしたのだった。
☆
そうこうしているうちに、朝食の時間になった。
大部屋に戻り、使用人の全員で席に着く。
普段なら階上の朝食を作り始めるため同席しないクーペさんも一緒だ。
鍵束の音を響かせながら颯爽と現れた麗人――ラフィーネさんの挨拶によって朝食が始まる。
賑やかで穏やかな、最後のひと時。
階下の住人が全員揃っていること以外、特別なことは何も無かった。
他愛ない会話をして。食事を終えて。朝礼が始まって。
それを聞きながら――ああ、もう私への指示が出されることはないのだな、と部外者に戻った事実をほんの僅かに寂しく思って。
そうして何事もなく朝食は終わりを迎え、同時に一日の始まりを迎えた。
椅子が引かれて、各自が席を立つ。
使用済みの食器が重ねられる音。制服を着直す衣擦れの音。それぞれが持ち場に向かうための、いくつもの足音。
その、日々の営みの足跡とも言うべき、残響の中で。
「――マリモ、少し時間を頂けますか」
そろそろ挨拶をと思っていた矢先、ラフィーネさんのほうから声が掛かった。
別れの儀式を一対一で行いたいと思っていたのは、私だけではなかったようだ。
「……はい」
食器を片付けるプランと視線を交わしてから、ラフィーネさんを追いかけた。
誘われたのは、大部屋とキッチンを結ぶ通路の中間にある執務室だった。
そこは、家令であるラフィーネさんに割り振られた私室のようなもので。
ただただ機会に恵まれなかったのか、あるいはラフィーネさんが敢えてそうしていたのか――いずれにしても、様々な役職を掛け持ちしながら駆けずり回ったこの八日間で、一度も入ることの無かった部屋だ。
開け放たれた扉を抜けて、室内に足を踏み入れる。
内装は……使用人のまとめ役に相応しい落ち着いた感じがありながらも質実剛健、あくまで階下の一室といった感じだ。
個人の趣味嗜好はあまり表層に現れていない、と思いきや。
よく見ると小さな観葉植物が棚に飾られていたり、机の上に置かれている小物に統一感があったりと、まったく個性がないわけでもない。
自らを律する抑圧が勝ちつつ、それでいて綺麗に精神的バランスが取れている。
そんな印象を覚えた私は、ここがとてもラフィーネさんらしい部屋だと感じて。
そして漠然と、いつか私が自室を手に入れたときは、これと似た景色を作るかもしれない――なんてことを思った。
慣れ親しんだモノがそのまま成熟したような、気分が安らぐ空間。
その中心に……ラフィーネさんが立つ。
椅子に座るでもなく、針金でも刺しているように真っすぐな背筋で。
けれどその視線は珍しく泳いでいて、言葉に迷っているのが窺える。
「……何から話したものでしょうか。……そうですね……まずは」
やがて、淡いライトブルーの髪が静かに、その肩を流れ落ちた。
「マリモ――あなたに感謝を」
「――――、」
目を、見張った。
ラフィーネさんが私に対して、頭を垂れたのだ。
超越的な礼節。一個人が一個人へと送る最大限の敬意。
グットレットさんが何十年という歳月をかけて積み上げてきたモノに、勝るとも劣らない一途な敬虔さが、その姿からは感じられて。
それはきっと、生まれたときから決められていた――そして自らその道を歩むと、生涯を賭すと選択した者に宿る、ある種の信仰心によって育まれた極地。
なんて美しき作法。なんて尊き忠義。
――――けれど今、この瞬間だけは。
ラフィーネさんのそれには、懺悔めいた痛切さが含まれていた。
「あなたのおかげで、お嬢様は再起を果たすことができました。それは……私では成し得なかったことです」
顔を上げるも、目を伏せるようにそう吐露したラフィーネさん。
その切望と諦念に、私はほぼ反射的に、まさか、と首を振った。
「ラフィーネさんの教えのおかげです。むしろお礼を言うのは私のほうで……」
そうだ。ラフィーネさんが居たから、私は利己と利他を同時に兼ね備えるという、多くのことを受け止められる言葉を手にできたのだ。
「あれは私にとっても必要な行いでした。ラフィーネさんはすべてを知った上で、役割を譲ってくれたのではありませんか? ラフィーネさんだったら、もっとスマートに――」
「……いくらなんでも買い被りすぎですよ、マリモ。長い時を掛けて固定されてしまった関係では、難しいこともあるのです。見守ることこそが美徳だと、勘違いしてしまう」
「それも間違いではないはずです。今回は偶然、私だったというだけで……」
「ええ、その通り。今回役目を果たしたのはあなたです。たとえほかの誰かに出来たことだとしても――それがあなたで良かったと思っています。ゆえに心からの感謝を、マリモジュナ」
「……、……はい……」
決意を思い出して、唇を引き締めた。
偶然は必然であったのだと。
謝意は踏みにじるモノではなく、誇らしく背負うべきモノなのだと。
差し出された感謝を受け取らないわけにはいかないと、思ったから。
「…………」
「…………」
そうして。言葉になる手前の想いをやり取りするような、あるいは想いを言葉にしようとしてできずにいるような、沈黙が訪れて。
「……参りましたね」
間延びしていた静謐をそっと破るように、ラフィーネさんが苦笑した。
それからふと、手入れを怠っていない綺麗な手が伸ばされて。
ゆっくり広げられた、しなやかな指が、私の頬に触れる。
否――それは正確にはフリだった。
私の頬に手を、唇の端に親指を添えて、強張った箇所を優しくほぐすような……フリ。
「あなたが気楽に、笑顔で旅立てるような、はなむけとなる言葉を送りたいと考えていたのですが。かつて失敗したからでしょうか……どうにも私は、見送るという行いが苦手なようです」
触れるべきではない、けれど触れることができたらと伸ばされた手が、その指の温度も測れないまま遠ざかっていく。
離れることを決めた者に対して、留まることを選んだ者が、これより先には行けないと一線を引くように。
「それに、言うべきことはもう、他の者が伝え尽くしている気がするのです。……であるならば」
こつん、と踵を返したラフィーネさん。
腰元に提げた鍵束が微かな音を響かせて。
その音は、部屋の奥にある机の前で途切れる。
立ち止まったラフィーネさんが、引き出しを開けて何かを手に取った。
「やはり私は、言葉ではなく――使用人という自らの職務を以て、あなたの旅立ちを祝福しましょう」
見たところ取り出されたのは、小さな茶封筒のようだった。
再び私のもとに歩み寄るラフィーネさん。
「マリモ、こちらをどうぞ」
何かが終わったような、何かが始まったような、とても穏やかな表情で――封筒を差し出される。
「中身は学院に着いてから確認を」
「えっと……はい、確かに受け取りました」
なんだかよく分からないが、おそらくは餞別と見るべきそれを受け取る。
厚手の物ではなかったため、ふと薄い板と棒状の何かと思しき手触りを感じたが――何にせよ見当はつかなかったので、ひとまず内ポケットにしまい込んだ。
それをじっと見届けてから、ラフィーネさんは言う。
「あっけないかもしれませんが、私からは以上です」
毅然としたその立ち姿に、先ほどまでの揺らぎはない。
威厳と品格。伝統と作法。それらを体現し、捧げるその姿勢は……そうか。
同じ職場の先輩や知人のような立場ではなく、ましてや投影した妹を想って姉を演じるわけでもなく。
ラフィーネさんは、ひとりの誇りある『家事使用人』として、私を見送ることを選んだのだ。
それは確かに、思っていたよりもずっと、あっけないお別れかもしれない。
もっと何でもない雑談とか、握手のひとつぐらい、できたのかもしれない。
けれど……それでも麗人は、淑やかに告げるのだ。
「それではマリモ――道中、お気をつけて」
迷いのないしなやかな眼差し。
爽やかで落ち着いた声は、何も後悔を残していないことの現れだろう。
少なくとも私にはそう感じられた。
だから、その清々しい空白に胸を張るように、私も。
「ラフィーネさんの下で働けたことは私の誇りです。八日間――ありがとうございました」
正す必要のない背筋。強張ることのない声。揺らぐことのない瞳。
すっかり身体に記憶されたこの作法を以て、最後の挨拶を送った。
深いお辞儀をして、顔を上げて、見せる。
終わるものを終わらせた、悔いのない顔を。
「――――――」
ラフィーネさんに背を向けて、私は部屋の外へと歩き出した。
去り行く者にかけられる声はなく。
ただ、温かい初夏の風になびく私の髪だけが、穏やかにそよいでいる――。
――ところで、これは余談だけれど。
ラフィーネさんから渡された封筒に入っていた物は、私の名前が書かれたネームプレートと一本の鍵だった。
それは、私が使っていた屋根裏部屋の物を、いつでもここに戻ってきていいという意味で贈呈してくれた――わけでは決してなくて。
それは、一連の騒動によってすっかり保留ということになっていた、『ストレリチア寮』における私の自室に使用する物だった。
ならば、なにゆえそれを、寮生どころか学院生ですらないラフィーネさんが所持していたというのか。
答えは実際に寮の部屋を訪れて、その、丁寧に整えられていた室内を見たときに――おのずと導き出された。
だれだろう。そんなの、確認するまでもなく分かりきっている。
いつだろう。おそらくは昨夜、女子寮で歓待を受けていたとき。
ああ――なんて愛おしく、なんて尊い礼節なのだろうか。
ひとりの使用人が旅人へと用意したささやかな祝福。
それは、新たな拠点のベッドメイキングだったのだ。
壁や床、家具の一つ一つに至るまで。
すべてが淡い光を宿しているような、そんな光景を前に立ち尽くして。
眩しさに濡れた瞳が、湛えた光をそっと、頬にこぼすことになるとは。
この時の私はまだ知らなかった。
……本当に余談だけどね。
☆
屋根裏部屋に戻り、机の上に置いておいた学生鞄を手に取る。
扉の前に立ち、振り返って室内を見渡す。
掃除は今朝、挨拶回りを始める前に済ませてある。
もちろん、朝からドタバタ物音を立てないよう、覚えたばかりの魔法で色々と工夫してね。
だからもう……本当に、これでおしまい。
私はもう使用人ではないし、『プティ・シムティエール』の一員ではない。
寂しさに……胸を抑える。
痛みにも似た、切なくも尊いこの疼きを、忘れないようにと心に刻む。
大丈夫。恐れることはない。この感覚があるからこそ、私は次の場所を目指して、羽ばたくことができるのだから。
「お世話になりました」
最後のお辞儀をして、私はスカートを翻した。
……使用人階段を下りる。一階の大広間に出て、玄関ホールに向かう。
そうして正面玄関を抜けたところ、お屋敷の正面で、ふと足を止めた。
「……っ……」
温かい陽射しに、眼球を刺される。
もはや夜の名残りは影も形もない。
近隣の家の屋根に削られていた太陽の断片は、中空で丸い花弁を広げている。
昇る陽。回る日々。目映い黄金の、灯りの下。
休めていた羽を広げるように、ゆっくりと目蓋を開けた。
すると……いつしか、私の隣で。
「―――見送りもなしに行くつもりか?」
気高きミルキーブロンドの髪が、麦穂のように揺れていた。
「ぁ――――――」
声にならない、声が出る。
麗らかに微笑む宝石令嬢……その、予期せぬ登場に。
風に波打つ淡い金色。
煌びやかな毛先は、ひとときの間。
私の指先を悪戯げにくすぐるばかりか、三つ編みでも結うように白に絡まって。
それがほどける方角へと、手を引かれる。
「さあ、皆急げ。大事なお客人の出立だぞ」
肩越しの呼びかけ。
それに応えるような、正面扉を通り抜ける足音の数々。
見れば、ラフィーネさんを始めとした使用人方が、勢揃いしていた。
全員が横一列を作るように足を動かす、その数歩先で。
私と手を繋いだまま、『プティ・シムティエール』の主は言葉を紡ぐ。
「私たちは日常を生きている。それは決別の誓いも、再会の祈りも、魔法も、分け隔てなく飲み込んで流れていくものだ。それこそ運命のようにな。
……だからまあ、なんだ」
未練を手繰り寄せてしまわないよう慎重に。
格好がついてもつかなくても続いていく日常に、祝福を見出すように。
宝石みたいに眩しい笑顔を浮かべて、声が続く。
「機会があったら、遠慮なく顔を合わせよう。たとえ物語的なものでなくとも、それは充分に、かけがえないモノのはずだ」
「……はい」
眼差しを重ねて、小さく頷いた。
刹那――握られたままの手が、突如として引かれた。
抜けるようなスカイブルーが間近に迫る。
そして。
「行ってらっしゃい―――ミロワール」
ささやくように。秘めやかに。
けれど確かな力強さを伴って、背中を押された。
何をどう言えばいいかは、もうずっと前から理解している。
「―――行ってきます。マドレーヌ」
そう告げて……お互いを手離す。
それから、最後にもう一度だけ。
私は『プティ・シムティエール』とその主、使用人方と視線を交わしてから。
高らかに、靴音を響かせた。
踵を返すのと同時にお辞儀が捧げられる。
それはまるで、巡礼の路を往く旅人の安寧を願う、音の無い祈りのようで。
変わらぬよう築かれ、守り抜かれた伝統に見送られながら、抜錨の時を迎える。
二度と方角を見失うことはなく、ゆえに一度として振り返ることはせず。
かくして私は漕ぎ出した。
春の先で到来を待つ――青い夏の海へと。




