37.灰谷さんは白状する
隣太郎の見舞いの帰りに伊摩と話した、その翌日。
写真部の部室の前に立った亜緒は、緊張の面持ちで扉を見つめていた。
部員ではない亜緒がこの部屋を訪ねた目的は、十和と話をするためである。
昨日、亜緒が抱えていたコンプレックスを吐露された伊摩は、気持ちを整理するために他の女性陣とも話をするよう、亜緒に勧めた。
その言葉に従い、亜緒は隣太郎への想いを十和と話すべくやって来たのだ。
目の前にある扉を見つめながら、亜緒はゴクリと息を飲んだ。
思えば、十和と二人きりになるのは、ほとんど初めてである。
他の先輩たちと一緒に付き合っているうちに、最初のような恐ろしい印象はなくなっていたが、それでも亜緒にとって一番読めない相手は十和に違いない。
上手く話せるだろうかと心配しつつ、亜緒はようやく扉をノックした。
「はい、どうぞ。亜緒ちゃん」
予想していた通りの返答ではあったが、それでも亜緒はビクリと身構えた。
相変わらず十和は自分のことを見透かしていると、戦慄を覚える。
実際は種も仕掛けもあるのだが、亜緒はそんなことは知らないのである。
「し、失礼します」
どうにか気を持ち直して、亜緒は部室の扉を開けて入室した。
中にいるのは、部長専用の席に座る十和だけだ。
病み上がりの隣太郎が放課後すぐに帰るというのは聞いていたし、最近入部したばかりの翠も今日は不在であると教室で確認済みである。
分かっていた事とはいえ、無事に十和と二人きりになれて亜緒はホッとした。
そんな亜緒の心境は知らないだろうが、十和はいつも通りの柔和な笑顔で語りかける。
「そんなに畏まらなくてもいいのよ? 部員じゃなくても、亜緒ちゃんは可愛い後輩で、大事なお友達なんだから」
「あ、ありがとうございます……」
相変わらず明け透けな十和の好意に、亜緒は赤面しながら言葉を返す。
笑顔で亜緒の様子を窺っていた十和は、その表情を悪戯っぽいものに変えながら声をかけた。
「種明かしをしちゃうと、伊摩ちゃんから聞いてたのよ。そのうち亜緒ちゃんが話をしに来るって。今日は隣太郎くんも翠ちゃんも来ないのは分かってたから、あとは亜緒ちゃんしかいないと思って」
亜緒の訪問を予見していた理由を、十和はそう説明した。
実際はそれに加えて、昼に第二書庫で隣太郎の放課後の予定を確認していたことも判断材料になっていたのだが、流石にそこまでは語らない。
「それで亜緒ちゃんは、私とお話ししたいことがあるのよね?」
十和から問いかけられて、亜緒は改めて居住まいを正した。
なんとなく十和は亜緒が何を話そうとしているのか分かっている気がしたが、そうだとしても亜緒から話さなければ、ここに来た意味がないだろう。
「今日はトナリ先輩のことをお話ししたくて、ここに来ました。それで、あの、念のために確認させていただきたいんですけど……」
「ああ、そういえば亜緒ちゃんの前で、ちゃんと言葉にしたことなかったかしら? もちろん私も隣太郎くんのことは好きよ。亜緒ちゃんや他の子たちにも負けないくらいに」
聞きづらそうな様子の亜緒に、十和は隠すことなく本心を明かした。
盗聴や声フェチは別の問題として、十和が隣太郎に対して恋愛感情を持っているのは事実である。
堂々と隣太郎への想いを口する十和に亜緒は一瞬だけ気後れするが、小さく頭を振って彼女に向き直す。
「私も……私だって、十和先輩たちに負けないくらい、トナリ先輩のことが好きです!」
「うふふ。そうね、お揃いね。私たち」
嬉しそうに言う十和に、亜緒は今度は戸惑いを覚える。
伊摩もそうだが、彼女たちは自分以外に隣太郎のことを好きな女子がいるという状況でも、なんら迷ったり気後れしたりする様子が見受けられない。
亜緒としては自身が甘く見られるのは理解できるのだが、伊摩たちは決して軽んじるわけにはいかないだろう。
それでもなお余裕の態度を見せる十和が、亜緒には理解できなかった。
「十和先輩は……伊摩先輩たちが怖くないんですか? 他の人にトナリ先輩を取られるかもしれないって、不安になったりしないんですか?」
「ああ、そういうこと。伊摩ちゃんから、亜緒ちゃんが何か悩んでるっていうのは聞いてたんだけど、そういう内容だったのね」
得心したように、十和は頷く。
彼女は昨日、伊摩から「亜緒がちょっと悩んでるから、話し相手になってあげて」と連絡を受けていた。
亜緒のこの様子を見て、誰かに相談してスッキリさせるべきだと判断したのだろうと、十和は亜緒と話しているうちに伊摩の意図を理解していた。
相変わらず敵に塩を送るような真似をすると、十和は小さく笑う。
「たしかに、みんな魅力的ですもの。隣太郎くんが誰を選んでも不思議じゃないわね。もちろん私を選んでくれたら、とっても嬉しいんだけどね?」
「だったら……!」
「でも私は亜緒ちゃんも、他の子たちのことも大好きなのよ。亜緒ちゃんはどうかしら? もし私や他の子が隣太郎くんに気があるなら、彼の傍にいてほしくないって思う?」
「え、いえ、そんなことは……」
十和から優しく真っ直ぐな目で問いかけられて、亜緒はたじろいだ。
たしかに亜緒は十和たちのことを脅威に感じているし、彼女たちに隣太郎が取られるのは嫌だという気持ちもある。
それでも決して亜緒は、彼女たちにいなくなってほしいとは思わなかった。
隣太郎と、彼女たちと一緒に過ごした短い日々は、そう思わせるに足るほど楽しくて、幸せだったのだ。
「……思いません。私も、十和先輩たちのことが大好きですから」
亜緒がはっきりと自分の気持ちを口にすると、十和は一層嬉しそうな顔になる。
「うふふ、ありがとう。人を好きになったんだから悩むのは仕方ないけど、きっとこれは悩んだってしょうがないのよ。だって、みんな大好きなんですもの」
「そう、ですね。悩んだところで、皆さんと離れられるわけないですから。だったら、その中でも負けないように頑張らないといけませんね」
「ええ、そうね。これからもお互いに仲良く頑張りましょう?」
亜緒が他の女子に抱えるコンプレックスが、全て解消できたわけではない。
それでも「彼女たちが好きだから、憎めるはずがない」と自覚を持てたのは、亜緒にとって前に進むための第一歩と言えた。
可愛い後輩がそれなりに立ち直ったと察して、十和は笑顔の質を変える。
さっきまでは慈しむような母性的な笑顔だったが、今度は悪戯好きの子供のような、隣太郎や伊摩が割とよく見かける笑顔である。
「亜緒ちゃんが元気になったみたいだし、ここからは楽しく恋バナでもしましょうか。同じ男の子の好きなところを語り合うのも、素敵だと思わない?」
「恋バナですか……? そうですね。そういうのも素敵かもしれません」
楽しそうに言う十和に、亜緒も頷いて同意を示す。
普通なら修羅場になりそうな話題だが、今の亜緒は十和たちへの仲間意識が非常に高い状態なので、素直に楽しそうだと感じていた。
「えっと、それじゃあ……十和先輩って、トナリ先輩のどんなところが好きになったんですか?」
「うふふ、よくぞ聞いてくれました。ズバリ『声』よ」
「こ、声ですか?」
予想外だった十和の答えに、思わず驚く亜緒。
もっと内面的な答えが返ってくると思っていたのだが、まさかの外面だった。
とはいえ、亜緒が隣太郎と距離を縮めた切っ掛けは甘いものによる餌付けなので、傍から見れば大差なかったりする。
「あら? 亜緒ちゃんは隣太郎くんの声って、あんまり好きじゃないかしら?」
「いえ、そんなことはありませんが。そういうのって、好きな相手の一部だからこそ、特別に感じるものじゃないでしょうか?」
「うーん、そういうのもあると思うんだけどね。実は私の場合、隣太郎くんのことを好きになった切っ掛け自体が、彼の声なの」
「ええ!? そうなんですか!?」
まさかの「声から好きになった」という告白に、亜緒は再び驚いた。
声フェチでもなんでもない亜緒にしてみれば、相手の声が切っ掛けで恋にまで発展するというのは、もはや理解の外である。
もちろん共感ができないだけで、十和のそういう嗜好を非難するつもりは全くないが。
「実はそうなのよ。私も隣太郎くんに会うまでは、全く自覚してなかったんだけどね? 彼をうちの部に勧誘した時から、なんだか気になってて。たまに部室に呼んでお喋りしてるうちに、彼の声が好きなんだって気付いたの」
そうやって十和は隣太郎との出会いや、彼を好きになっていった経緯を語る。
聞いている亜緒としては、「そういう世界もあるんだ」と驚くばかりだった。
「す、凄いですね……そうしたら、あれですね。トナリ先輩の声が出る目覚まし時計なんてあったら、十和先輩には堪らないかもしれませんね……なんて、えへへ」
恋バナが楽しかったのか、珍しく冗談めかしたことを言う亜緒。
しかし言われた十和は、少し驚いた後に考え込むような仕草をする。
「十和先輩? どうかしましたか?」
急に黙り込んだ十和を訝しむ亜緒だが、十和はそんな亜緒の言葉には答えず、一度納得したように頷いた後に口を開いた。
「やっぱり亜緒ちゃんだけ仲間はずれにするのは、可哀想よね。大事なお友達って言ったのは、私なんだから」
「あの……十和先輩?」
「亜緒ちゃん――実は私、盗聴が趣味なの」
十和の声ははっきり聞こえていたはずなのに、彼女が何を言ったのか、亜緒には理解ができなかった。
「え、ちょ、十和先輩?」
「隣太郎くんの声が好き過ぎて、いつも聴いてたくて、盗聴を始めちゃったのよ。とっても楽しいのよ?」
秘密を打ち明けてタガが外れたのか、スラスラと話し続ける十和。
狼狽える亜緒の制止も聞かず、実に絶好調であった。
「もちろん可能な限り、皆のプライベートには気を遣ってるのよ。隣太郎くんの行動は大体把握できてるから、彼がいない時には盗聴器のスイッチを入れないようにしてるし、入れてみて彼がいないって分かれば、すぐに切ってるの」
「と、十和先輩!?」
いよいよ聞き逃せなくなってきた十和の言動だが、いくら亜緒が呼びかけても彼女は止まらない。
どう考えても今の言動からは、十和が学校内でも盗聴しているとしか思えなかった。
本人いわく「プライベートには気を遣っている」とのことだが、一番肝心な人物のプライベートは一切守られていない。
「でも盗聴器越しでも素敵な声なんだけど、やっぱり生が最高なのよね。初めて名前で呼んでもらえた日なんて、もう家に帰ったら昂っちゃって……」
「わー!? 十和先輩、ヤバいです! なんか分からないですけど、そこから先は絶対ヤバいです!」
さっきからすでにヤバかったが、一層のヤバさを十和の発言から感じ取って、亜緒は全力で彼女を制止した。
うっとりした表情で話していた十和は、亜緒の必死の呼びかけにようやく気付き、正気を取り戻す。最初から正気ではなかった気もするが。
「あら、ごめんなさい。つい盛り上がって、話し過ぎちゃったわね」
「い、いえ……と言いますか、さっき凄いこと言ってませんでしたか? 私だけ仲間外れにって……まさか皆さん、このことを知ってるんですか!?」
ようやく十和が落ち着いてくれて安堵した亜緒だが、それはそれとして気になる問題があった。
そんな亜緒に、十和はいつも通りの楽しそうな笑顔で答える。
「もちろん隣太郎くんは知らないわよ」
「そ、そうですか。よかったです……」
「他の子たちは、みんな知ってるけど」
「何もよくなかったです!」
割と衝撃の事実に、思わず絶叫する亜緒。
こんなに叫んだのは隣太郎に告白された時以来だと、動揺している心の片隅で亜緒は思った。
亜緒の精神的な疲労は、微妙に現実逃避するレベルにまで達していたのである。
「な、なんで皆さん、こんなことを聞いて黙ってるんですか!? 盗聴なんて、絶対ヤバいじゃないですか!」
「さあ、なんでかしらね? うふふふ」
含むところのありそうな十和の笑顔に、亜緒は戦慄を覚えた。
「あの……まさかとは思いますが、他の皆さんも盗聴に加担されてるなんてことは、ないですよね?」
亜緒が想像したのは、自分以外の女性陣が揃って隣太郎の盗聴をしているという、恐ろしい可能性である。
声フェチ女子が身近に何人もいるとは思えないが、現に十和という前例がいるので、あり得ないとも言い難い。
そんな狂気のディストピアを想像した亜緒だったが、十和が首を振ったのを見て安堵した。どうやら自分の考え過ぎだったようだと。
しかしその安心感が続いたのも、次の十和の発言を聞くまでだった。
「大丈夫、盗聴してるのは私だけよ。他の子は盗聴はしてないわ」
「それ絶対に盗聴以外はしてるじゃないですか! 何なんですか、一体!?」
自分の背中を押してくれた伊摩。
姉のように感じている瀬里。
最近、親しくなった翠。
いずれも亜緒にとって大切な友人・先輩のはずだが、ここに来てその印象が大きく変わりそうだった。
「瀬里ちゃんと翠ちゃんとも、お話しするんでしょ? 私から勝手に話すのも気が引けるから、あの子たちが何をやってるかは本人から直接聞いてね」
「な、なんだか別の意味で怖くなってきたんですが……」
罪を自白した割に楽しそうな表情で話す十和に、亜緒はげんなりした様子で答えた。
一体、他の女性陣は何をやらかしているというのか。
そうそう彼女たちを嫌いになることはないだろうが、今から恐ろしくて仕方がない亜緒だった。




