36.雨葦さんは見舞いたい
「……え?」
朝の教室にて、亜緒は誰に言うでもなく声を上げた。
スマホを見ながら驚いた表情をしている亜緒が気になったのだろう。隣の席に座っている女子生徒が、不思議そうに声をかけてくる。
「雨葦さん、どうかしたの?」
「え? あ、何でもないよ。ちょっと……えっと、友達から連絡が来て」
一瞬、友達という表現でいいのか迷った亜緒だったが、かといって相手が先輩だと明言すると、あらぬ誤解を招いてしまう可能性がある。
ここはあまり相手の事情を話すべきではないだろうと、あくまで友達という説明だけで済ませることにした。
しかし女子生徒は、興味深げな顔になって話を続ける。
「友達、友達かあ……あのさ、実は雨葦さんって、二年の先輩と付き合ってるって噂があるんだけど」
「ええっ? そんな噂になってたの!?」
女子生徒から告げられた事実に驚く亜緒。
彼女としては隣太郎と頻繁に会っているのは隠しているつもりだったのだが、実際はクラスでも噂になっていたのだ。
隣太郎が直接亜緒を訪ねてくることはあまりないとはいえ、昼になると時々姿を消す彼女を気にしているクラスメイトも少なくないし、第二書庫の周辺もそれなりに人目はある。
実のところ、亜緒が思うほどに隣太郎との逢瀬は隠しきれていなかった。
「実際どうなの? よくお昼は一緒にいるみたいだけど」
「そ、そこまで知られてるんだ……」
自分の行動が周囲に筒抜けであったことに、亜緒は動揺する。
これでは十和に情報を握られていたのも無理はないと納得してしまうが、十和の場合は盗聴という異常な手段なのでまた別の話である。
「その……先輩とは仲良くしてもらってるけど、付き合ってるわけじゃないよ」
「あれ、そうなんだ。片想いとか? でも一緒にお昼食べるくらいだし、その先輩だって雨葦さんのこと嫌ってるわけじゃないよね?」
「あー、それは、その……」
女子生徒の疑問に答えることができず、亜緒は目を逸らした。
まさか片想いどころか両想いで、しかも一度は告白されたのに亜緒が自分から振っているとは、目の前の女子生徒も思わないだろう。
振った当時は、隣太郎のことを特に好きでもなんでもなかったのだが。
「あ、でもあの先輩って、他の女子の先輩とも仲良くしてるよね。あの読モの先輩とか」
亜緒が自分と隣太郎の関係を説明できずにいると、女子生徒が思い出したようにそう言った。
隣太郎の校内での知名度はお世辞にも高くはないが、流石に現役読者モデルである伊摩はそれなりに有名だ。
その伊摩に劣らぬ容姿を持つ十和も、本人はあまり目立ちたがらない割には「美人の三年生」として一部の生徒たちに知られている。
そんな彼女たちと頻繁に行動を共にしている隣太郎が、色恋に敏感な高校生たちの目に留まらないはずもない。
「なんか、たくさんの女子と一緒に遊んでたって噂もあるし」
さらに続けられる女子生徒の話に、亜緒はビクッと肩を跳ね上げた。
どうも隣太郎が亜緒以外にの女子にも手を出していることを忠告したいようだが、まさか亜緒もそのたくさんの女子に混ざっているとは思わないだろう。
女子生徒は、割と真剣な顔付きで亜緒を見ていた。
「あんまりこんなこと言いたくないけど……雨葦さん、大丈夫? 遊ばれてたりしない?」
「え? あ、だ、大丈夫! そういうのじゃないから!」
自分を心配してくれている女子生徒に、亜緒は安心するよう言い聞かせた。
確かに傍から見れば、隣太郎が多くの女子を侍らせているように見えるかもしれないが、あれは基本的に女子の方から隣太郎に寄ってきているのだ。
例外は一応ストーキングされていることになっている亜緒だろうが、初めの頃はともかく今となっては他の女子と大した差はないだろう。
「ホントに? それならいいんだけど……」
まだ心配そうな顔をしている隣人を宥めつつ、亜緒は空笑いをしていた。
そもそも隣太郎の周囲があんな状況になっているのも、自分がはっきりしないせいだと自覚しているからだ。
隣太郎は亜緒に告白してくれたのだから、亜緒の方も彼を好きになったのなら正直にそれを告げてしまえばいい。
だけど亜緒にはそれが出来なかった。今では自分も隣太郎のことが好きだと、はっきりと分かっているにもかかわらず。
亜緒は以前、伊摩から隣太郎のことを好きだと宣言され、そして亜緒自身も隣太郎が好きだと彼女に告げた。
どこまでも真っ直ぐぶつかってきてくれる伊摩に、決して負けたくないと思い宣戦布告を受け取ったのだ。
しかし今もなお、亜緒は隣太郎に想いを告げることが出来ていない。
自分以外の女子に囲まれる隣太郎を、自分も一緒になって囲っているだけだ。
伊摩だけではない。瀬里も十和も、そして最近友人になった翠も、一緒にいればいるほど亜緒は、自分が彼女たちに勝っている部分があると思えなくなっていた。
その日の放課後、亜緒は隣太郎の自宅を訪ねていた。
訪問の理由は遊ぶためではなく、隣太郎が風邪をひいて学校を休んでいたからだ。
朝、隣太郎から届いたメッセージは、「今日は風邪で休むから、昼は一緒に食べれられない」という内容だった。
最近は隣太郎と亜緒が一緒に昼を過ごす日が、なんとなく曜日で固定されていたので、念のために連絡を入れたのだろう。
亜緒が隣太郎の自宅を調べるのは、とても簡単だった。
クラスメイトである翠に聞けば、それで済むのだから。
翠にも隣太郎の風邪を知らせて、案内してもらいつつ一緒に見舞いに行こうとも思ったが、亜緒は悩んだ末に一人で行くことに決めた。
今朝、隣の席の女子生徒と話したことで、自分に焦りのような感情が生まれていたのかもしれないと、亜緒は自己分析している。
「翠には悪いけど……」
そう呟きながら、亜緒は笈掛家の玄関前に立ち、扉横のスイッチを押す。
どこか調子の外れた電子音の後、隣太郎にしては妙に高い声が聞こえ、そのまま亜緒の目の前の扉が開かれた。
「はーい……って、あれ? どちら様でしょうか?」
「え、あ……」
扉を開けて自分に声をかけてきた女性――隣太郎の母親である珠季の姿を見て、亜緒は激しく動揺した。
隣太郎に会いたい一心で自宅まで押しかけてきたが、よくよく考えれば隣太郎の家族に会う可能性も十分にあったのだ。
平日で不在の可能性もあるとはいえ、その可能性を全く考慮していなかった亜緒は、不意を突かれた形になり一瞬硬直してしまった。
とはいえ、いつまでも固まっていれば、隣太郎の家族から失礼な人間だと思われてしまう。
「あの、初めまして。私、トナ……笈掛先輩の後輩で、雨葦 亜緒といいます」
「あ……あら、初めまして。隣太郎の母の珠季です」
どうにか平静を取り戻して、亜緒は珠季に挨拶をする。
それでも緊張は消し去れず、珠季が小さな声で「瀬里ちゃんじゃない……?」と呟いたのは聞こえていなかった。
「えっと、今日は先輩が風邪でお休みしていたので、お見舞いに来ました」
そう言って亜緒が見舞いの品として用意したコンビニの袋を掲げると、珠季は少し驚いた顔から一転して嬉しそうに笑った。
「わざわざ来てくれて、ありがとう。あの子にお見舞いに来てくれるような、可愛い後輩がいるなんて思わなかったから、びっくりしちゃった」
「そ、そんな……先輩には、普段からお世話になっていますので」
「あらあら……あ、そうだ。あの子の呼び方は『トナリ』で大丈夫よ? そういう呼ばれ方してるのは知ってるから」
流石に「この間もそう呼ぶ女の子が来たから」とは言わない珠季だった。
隣太郎と瀬里は恋人関係ではないと珠季は聞いていたが、瀬里の様子から少なくとも彼女の方は何とも思っていないようには見えなかった。
隣太郎にしても、それまで女子の友人など小学生時代の翠しか把握してない。
翠は厳密に言えば珠季の友人の娘で、母親に連れられて笈掛家に来ていたので、隣太郎が自分で連れてきた女子は瀬里が初めてということになる。
だから息子と瀬里は、友達以上恋人未満の初々しい関係だろうと、珠季は予想していたのだが……。
「あ、はい。それで、トナリ先輩の具合はどうでしょうか?」
現在、自分の目の前で心配そうな顔をしている少女も、瀬里と同じく息子に特別な感情を抱いているのだろうと、珠季は予想していた。
女子高生が異性の先輩の見舞いに一人で来るというのは、少し仲がいい程度ではそうそうないだろう。
この亜緒という少女は特に気弱そうだし、なおさら気軽にそういう事をするようには見えない。
「そんなに酷くないから大丈夫よ。今は起きてるから、よかったら少し会ってく?」
「はい、是非」
息子の女性関係に心配を覚える珠季だが、自分が口を出したら余計に拗れる可能性もあるからと、今日のところは静観することに決めた。
「ん……亜緒か」
珠季に案内された亜緒が隣太郎の自室に入ると、隣太郎はベッドに寝たまま本を読んでいるところだった。
亜緒が来たことに気付いた隣太郎は、本に栞を挟んでヘッドボードの上に置く。
「こんにちは、トナリ先輩。風邪の時はしっかり寝ないとダメですよ」
「分かってるんだが、朝から寝てるとどうにも暇でな」
苦笑する隣太郎から亜緒が視線を横にずらすと、さっきまで隣太郎が読んでいた本が目に入った。
亜緒の記憶が正しければ、数日前に隣太郎が図書室で借りて行った本のはずだ。
別に疑っていたわけではないのだが、単に亜緒と接触するためだけでなく、しっかり借りた本は読んでいるらしい。
なんとなく嬉しい気分になる亜緒だった。
「意外と体調は良さそうですね」
「ああ、最初からそんなに酷くなかったしな。まあ大事をとって休んだだけだ」
そう言う隣太郎の様子は、亜緒から見ても特に調子が悪いようには見えなかった。
本人が言うとおり、念のために休んだだけでそこまで酷くはなかったのだろう。
ホッとしていた亜緒だが、ふと隣太郎が自分の顔を見て苦笑いしていることに気付いた。
「どうかしましたか? トナリ先輩」
「いや、ストーカーの家にノコノコと見舞いに来る被害者って、何なのかと思ってな」
「ストーカー……」
何の気なしに言った隣太郎だったが、亜緒はその言葉に胸が締め付けられるような気持ちになった。
隣太郎が自分のことを「ストーカー」と呼ぶのは、亜緒が彼を受け入れなかったからだ。
告白を断られ、それでも傍にいたいと言った彼を亜緒は「ストーカー」と評した。
隣太郎は今では冗談のように自称しているが、彼が自分をそう呼んでいるということは、隣太郎と亜緒が結ばれていないという証拠に他ならない。
「亜緒? どうかしたのか?」
「あ、え? 何がですか?」
「いや、なんかつらそうに見えたから」
亜緒が気落ちしているのに気付いた隣太郎が声をかけるが、亜緒はそれに答えることができなかった。
元はといえば、自分に勇気がなくて踏み出せないのが悪いのだ。
自分も隣太郎が好きになった時点で、「私も好きです」と言っていれば、それで済んだのに。
素直になれず、勇気が持てずにいるうちに隣太郎の周りには女子が増えて、いつしか彼女たちと自分を卑屈に比べるようになってしまった。
「いえ、大丈夫ですよ。トナリ先輩こそ、まだ本調子じゃないんですから、しっかり休んで下さいね」
結局、今日も勇気を出せずに、亜緒は隣太郎を気遣う素振りを見せるだけだった。
本当は「まだ私のことを好きでいてくれますか?」と、隣太郎に尋ねたくて仕方がないのに。
ただ好きな先輩を普通に見舞っただけで、亜緒は隣太郎の部屋を後にした。
隣太郎の見舞いが済んだ後、亜緒は一人で帰り道を歩いていた。
普段なら亜緒も瀬里のように、珠季から夕飯に誘われたかもしれないが、隣太郎が万全でない状況ではそれもなかった。
精々、帰り際に「また遊びに来てね」と言われたくらいだ。
「トナリ先輩、元気そうで良かったな」
安心したように独り言を漏らす亜緒だが、その表情は芳しくない。
今日は改めて、隣太郎と自分の関係が何も進んでいないことを確認してしまったからだ。
いつか勇気を出して、隣太郎に自分の想いを伝えられる日が来るのだろうか。
そう思いながら、亜緒が一人歩いていると、正面から見知った人物が歩いてくるのが見えた。
「あら、亜緒じゃない。もしかしてアンタも、隣太郎のお見舞いに行ってたの?」
「伊摩先輩……そうですね。さっき先輩の家を出てきたところです」
「抜け駆けなんて、なかなかやるわね。や、嫌味じゃないわよ?」
亜緒の前に現れたのは、かつて自分の背中を押してくれた伊摩だった。
他の女性陣に声をかけずに来た亜緒を、伊摩は見直したような表情で見てくるが、亜緒はどうしても褒められている気になれない。
そんな亜緒の様子に違和感を覚えたのか、伊摩は怪訝そうな顔をする。
「亜緒。アンタ、どうかしたの? 落ち込んでるみたいだけど、隣太郎と喧嘩でもした?」
「え? いえ、そんなことないですよ。それより伊摩先輩も、トナリ先輩のお見舞いですよね?」
「まあね。アイツが風邪ひいたって聞いて、ちょっと責任感じてるし」
「……責任ですか?」
伊摩が言っている意味が分からず、亜緒は聞き返した。
隣太郎と伊摩が出掛けて、相合い傘で帰ってきたのが昨日の話なので、伊摩としてはそれが原因だと思っているのだ。
「昨日、アイツとデートしたんだけど、帰りに雨降ってきたのよね。それでアイツの傘に入れてもらったから、そのせいで風邪ひいたのかと思って」
「デート……?」
隣太郎が風邪をひいた理由よりも、彼が伊摩とデートをしたという話に、亜緒は衝撃を受けた。
あからさまな反応に伊摩も気付いたらしく、苦笑しながら自分の発言を訂正する。
「そんなに慌てた顔しないでよ。普通に買い物しただけで、デートなんてあたしが勝手に言ってるだけよ?」
そのくらいは言わなくても分かるだろうと、気軽な様子で伊摩は笑うが、やがて亜緒が深刻そう表情をしていることに気付く。
「アンタ、やっぱり何かあったんじゃないの? いつもと様子が違うわよ」
伊摩が自分のことを、本気で心配していると気付いたのだろう。亜緒は真剣な顔で伊摩を見返し、重苦しく口を開いた。
「トナリ先輩は、まだ私のことを好きでいてくれてるんでしょうか?」
「は?」
一方、言われた伊摩は後輩の唐突な後ろ向き発言に、呆れた声を返す。
元から隣太郎は亜緒に告白するくらいに好意を持っているのに、一体何を言っているのかと。
しかし、亜緒がそんなマウントを取るような真似はしないと、伊摩は理解している。
ならば彼女は本気で不安を覚えているのだろうと、どこか泣きそうな顔の後輩を見ながら伊摩は考えた。
「亜緒。アンタ、一体どうしたいの?」
「どうしたい……ですか?」
「そうよ。アンタは隣太郎から告白されたっていう、あたしたちより有利な状況だったのよ? なのにアンタは、未だに隣太郎と付き合ってないじゃない」
伊摩から指摘を受けて、亜緒は苦々しい顔をした。
もちろん伊摩とて、ただ亜緒の不甲斐なさを責めたかったわけではない。
かつて亜緒の背中を押した時から、伊摩は何もしない亜緒に負けることだけは許せないという、それだけの気持ちで行動していた。
だから今回も亜緒が立ち尽くしているなら、その背中を押してやるだけだ。
たとえそれで、どれだけ自分が不利になろうとも。
「亜緒。多分、そろそろ潮時よ。アンタや瀬里たちと一緒にいるのは楽しかったけど、隣太郎は一人しかいないんだから、皆が恋人になれるわけじゃないわ」
「告白して、トナリ先輩と付き合うってことですか……? でも、そうしたら伊摩先輩や皆さんと……」
「別にアンタが隣太郎と付き合えなくてもいいなら、それでも構わないわよ? もしあたしが隣太郎と付き合っても、アンタとも仲良くしてあげるわよ」
「それは……」
伊摩の厳しい言葉に抵抗をしながらも、亜緒は明確に反論することができなかった。
そんな後輩の様子を見て、伊摩は気付かれない程度に小さく溜息を吐く。
「意外と重症ね……亜緒、ちょっと他の三人にも話聞いてきなさいよ。そのくらいの時間なら、あたしも隣太郎に手を出さずに待っててあげるから」
「他の三人? もしかして翠もそうなんですか?」
「あ……アンタ、翠のこと知らなかったか……口が滑ったわね」
翠の隣太郎への気持ちを、うっかり亜緒にバラしてしまったと慌てる伊摩だが、亜緒の性格からして知ったところで悪いようにするとは思えないので、大きな問題はないだろうと判断した。
なんにせよ、いい加減にこの中途半端な関係から先に進まなければいけない。
そうしなければきっと亜緒が、他の女性陣へのコンプレックスで押し潰されてしまうだろう。
伊摩が言った「潮時」とは、そういう意味だ。
「ま、とにかく覚悟を決めるためにも、他の子と話してきなさい。あたしも今日のところは、大人しくお見舞いするだけにするから」
「……分かりました。みなさんと話をしてみます」
「よろしい。じゃ、また学校でね」
そう言うと伊摩は、さっきまで亜緒が訪問していた隣太郎の自宅へと歩いていった。
一人残された亜緒は、小さくなっていく伊摩の背中を見つめながら一人呟く。
「私は、トナリ先輩と……」
――ずっと止まっていた何かが、今ようやく動き出す。




