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ドッペル!  作者: 吹岡龍
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【番外】フクラン!

愛猫に捧ぐ。

「こんなところで、な~にをしてるんかニャー?」


 秋晴れの朝。

 少女が一人、六階建てマンションの五階の廊下でしゃがんでいる。エレベーターから二番目に近い部屋の、室外機が収められた空間を覗き込んでいる。

 白いブラウスに黄色のベスト。黒いマーメイドスカート。頭にはフェルト生地の小さな帽子をかぶり、首には黄色と緑で彩られたスカーフを巻いている。その姿はまさしくバスガイドのそれだ。


「ほれほれ、怯えんでええからねー。出ーておーいでー♪」


 昨今では少々古めかしい衣装に身を包むこの少女の名は、神野ハナ。白手袋をはめた手に持っている手旗を、エノコログサ――別名ネコジャラシよろしく誘惑するように揺らめかせては、ご機嫌に鼻歌を鳴らしている。

 室外機の裏は暗い。しかしそこでは二つの大きな目がキラリと主張している。

 猫である。うっすらと窺える目鼻立ちから、成猫だろうと判る。

 ハナはこの猫をなんとしてもそこから連れ出さなければならなかった。放置することは、彼女の職務にも、何より意にも反することと同義であった。


「んんー、あんまり怖がらせたくないんやけど……。ミッちゃーん、実力行使おなしゃーす!」


 彼女の呼びかけに応じたように、「ぎゃんっ」と猫が大声を上げて室外機の裏から飛び出してきた。勢い余って、あわや廊下の塀にぶつかりそうになったその猫だったが、まるで透明人間ならぬ透明猫のように、するりと通り抜けていってしまった。


「逃がさーんっ!!」


 ハナもまた、しゃがんだ格好から腰を捻り、背後の塀へとカエルのように跳ねた。やはり激突はなく、サッカーのゴールキーパーや、アメリカンフットボールやラグビーの選手のように見事な水平ダイビングで、中空を疾走する猫の胴体を両手でスーパーキャッチしてみせた。

 仰向きの格好で、暴れる猫を天高く掲げる彼女は喜色満面だ。対照的に、室外機の裏――いや、部屋、もといマンションそのものをすり抜けて、宙に浮く彼女のもとへ近付いてきた少年は少々お冠だ。


「なぁ、オレの役、地味すぎだろ!」

「にゃん?」


 ハナは下手くそなアヒル口を作って、小首をかしげた。猫の顔も少年に向けられるが、怒り狂っていてそれどころではない。


「にゃんじゃねぇよ、可愛くねぇんだよ! 毎度毎度、お前のサポートばっかりじゃねぇか! しかも必要ねぇのばっか!」

「えー、そんなことあらしまへんがなー」

「その大阪人特有のボケ用コテコテ大阪弁やめろ! あのな、今のもお前が手を伸ばせば簡単に捕まえられただろうが、つってんだよ」


 オレ達は、死物なんだから。

 少年――古城ミチヒデのセリフに、ハナは一つ瞬きを返してから、猫と向き直った。フーッと威嚇されるも、両脇の下をしっかりと掴んでいるので逃げられることはない。態度と裏腹のマヌケな姿に笑みがこぼれた。

 彼女達は透明人間ではない。死物――つまるところ、死んでいる。絶命し、肉体から解き放たれた二柱の魂である。

 そして彼女に捕らえられたこの猫もまた、透明猫ではない。同じく、一柱の魂である。

 しかし、幽霊ではない。霊とは、魂が生への未練によって変質した姿である。霊になった魂はこの世――顕界(けんかい)に多大な害を及ぼす。そして霊になった魂は、天国――天界へ逝くことができない。地獄――獄界(ごっかい)へ落とされる運命にある。

 二人は天界の最大手企業〈天界送迎センター〉の社員である。彼らがいるここ、天界と顕界の狭間――天顕疆界(てんけんきょうかい)に昇ってきたばかりの魂を、霊になるよりも早く天界へ導くことが仕事である。彼らのような送迎請負柱を、ガイドという。


「こうして見えてる世界は全部顕界のもので、天顕疆界(ここ)は何もない空間なんだ。つまらない作戦なんか講じずに、さっさと捕まえたらいいじゃないか」


 マンションも、壁も、塀も、草木も、それが生える地べたも、生きとし生けるもの全てでさえも、この天顕疆界には存在していない。ただ見えているだけ、遮蔽物は存在しない。言わば、ホログラムのようなものだ。

 近いようで遠く、遠いようで近すぎることもない。アニメーションのセル画のように、異なった次元でありながら重なって見えているのである。

 だが、彼らの姿は、生きとし生けるものには視えない。いわゆる霊能力者と呼び呼ばれる者達の中でも、死物を視ることは不可能である。顕界にいながら、天顕疆界にいるものを視ることはできない。

 一方で、霊を視ることができる者もいるのは確かだ。何故なら、霊落――死物が霊へと変貌すること――した魂は天顕疆界から顕界へと再び戻ることができるからだ。未練という名の重力に引かれ顕界へ戻った霊魂の姿は、本物の霊能力者になら視ることができるのである。

 ミチヒデはそのように、ハナから聞いている。そして実際、彼はそうした体験をしてきた。

 彼は先程、室外機の裏に隠れた格好のこの猫の背後に回り、彼女の合図で猫の尻に触れたのだった。それに驚いた猫は飛び出し、まんまと捕らえられたというわけだ。


「アンタもまだまだやなぁ」

「どういう意味だよ?」


 よいしょと身体を起こして胡坐をかいた彼女は、猫を両手に持ったまま続けた。


「この子、死んだばっかりやねんで。亡くなったのは……うん、昨日の一六時くらいか。今は朝の九時前やろ? まだ一日も経ってへん。しかもこんなに怯えててな、そんな子をまた怖がらせてまで連れていくなんて可哀想やと思わへん?」

「確かに、そうだけど……」

「なるべく、顕界にいた頃の記憶をそのままにして、ゆっくりと現実を見せていかんと。人間と(ちご)うて、動物には天国やら地獄やらの概念がないんやから。人間かて、一朝一夕で受け入れらへんやろ?」


 ミチヒデは反駁のために開いていた口を結んだ。

 彼もまた、死んだばかりの頃は、天界やら顕界やらと言われても、理解も納得もできなかった。至極一般レベルの文化的な生活を営み、それなりの教育を受けてきた彼でさえそうなのだ、ただの猫が素直に受け入れられるわけがない。

 なるべく顕界で生きていた頃の触れ合い方が必要なのだろう。

 生きていれば、室外機の裏にいる猫まで手を伸ばせないのは“普通”なのだ。ハナはそうした“普通”の人間がするであろう行動を演出することで、猫に余計な混乱を招かないようにしたかったのだ。


「それにしてもこの猫、どうしてあんな場所に隠れていたんだ?」

「私の長年の勘では、さっきの室外機があった部屋と関係があると思うわ」


 アンタんときと一緒や。

 そう言って彼女は、まだまだ警戒モードを解いてくれない猫を抱えたまま、マンションの一室へと侵入した。ミチヒデも彼女の後に続いて、部屋の壁をすり抜けた。

 左の壁際に並んだ二つの勉強机。右手には二段ベッド。今は九月の終わりだから、それらの間に佇む扇風機もそろそろお役御免といったところか。

 隣の部屋はシングルベッドと、勉強机が一つ。有名ロボットアニメのプラモデルがこれでもかというくらい飾られている。

 短い廊下へ出るや、住人らしい三〇歳前後の男が角を曲がった。そこは玄関で、靴を履こうとしている。

 男の姿を見るや、猫はすぐに反応した。耳を立て、すっかり開いている瞳孔をそのままに、ニャーと鳴いた。一度ではなく、ひっきりなしに忙しなく鳴いた。

 彼を見送るために、年配の女性が現れた。おそらく、彼の母親だろう。そこでもまた、猫は鳴いた。


「じゃあ、後はよろしく……」

「うん……」


 二人とも、浮かない顔で言葉を交わす。男は鞄を左肩から提げると、家を後にした。

 玄関横の扉の向こうからは水の音がしている。好奇心で顔だけ扉の向こうへすり抜けさせた出歯亀ガイド女は、洗面所を見つけた。そのさらに奥の風呂場から、シャワーの音が響いていた。誰か、もう一人いるらしい。猫はまた鳴いた。

 ミチヒデに頭を小突かれ、首根っこを後ろから掴まれた彼女は、廊下の先にあるリビングに連れていかれた。


「アレか」


 独り言ちるようにこぼす彼を透過して、母親がリビングの隅にある段ボール箱へと足を運んだ。ミチヒデの目にも留まったその箱の中には、丁寧にタオルに包まれた一匹の猫の亡骸が納められていた。

 毛並みは黄色がかった茶色と黒がベースで、全身に適度な縞模様がある。口元だけが白い。いわゆる錆び猫や虎猫といった体毛の模様の特徴を持っている。死んでもなおピンと立った耳を見れば、今にも寝がえりを打って伸びでもするのではないかと思えてしまう。

 上手く閉じさせてやれなかったのだろう、薄い緑が美しい開いたままの目は、布で包んだ保冷材で覆われている。


「んなーお」


 猫がまた一つ鳴いた。不安を抱えたように深く始まり、高く大きく伸びたその声は、もはや家族の耳には届かない。


「この子の名前は、ランちゃん。雌猫ちゃんで……うわスゴ、二四歳やって! 人間で言うたら一一二歳!!」

「すげーな。大往生ってやつか」


 驚愕する彼らに自慢するわけでもないだろう、ランはまた鳴いた。そしてハナの手からするりと飛び出して、リビングの廊下に着地した。

 しかしそれはランの習慣や感覚でしかない。天顕疆界には目に見える足場はないのだから、本当は廊下に着地したつもりになっているだけだ。

 ランは長い尻尾を揺らめかせて、モデル然と上品に歩くと、母親の足に耳や首を擦りつけようとした。だがやはり、こちらとあちらは違う世界。思惑は叶わず、母親の足をすり抜けるようにしてしまうだけだった。


「なーおっ、にゃーおっ!」


 それでも母親の足もとをくるくると歩き回り、何度も呼びかけた。

 ――おーい、どうしたの。

 何してるの。

 何か変だよ。

 ご飯ちょうだいよ。

 お水飲ませてよ。

 ねぇ、かまって、こっちを見てよ。

 ほらほら、頭撫でて。

 ねぇ、ねぇ。

 いつもみたいに、甘やかして――。

 きっと生前と変わらないであろう、まさしく猫なで声で訴え続けた。

 人間の言葉でなくても、ミチヒデ達にはランの気持ちが痛いほど分かってしまった。

 魂は記憶を蓄積する。魂は記憶を放射する。放射されたそれを、彼らは〈魂の波動〉と呼んでいる。肉体も大気らしいものも介さず彼らが会話を成立させているのは、彼ら一柱ずつの魂それぞれが放射させる波動によるものだ。

 生前、魂は体内にある魄と呼ばれる檻に閉じ込められ、その波動が多くは漏れないようになっている。よって、彼らは喉を震わせて声を発し、鼓膜でそれをキャッチしなければ会話ができなかった。

 また波動は、記憶だけではなく感情や思念さえも伝播させる。これにより、ミチヒデ達は動物の気持ちを生前よりも誤解なく理解することができていた。


「死因は、腎臓の機能が著しく低下したからかな。最近は食欲もなくて、体温が急激に低下しちゃったみたい」

「腎臓か。確か、血液中の老廃物を尿として排出したりする臓器――だっけ?」

「それだけやないけどね。血作ったり、血圧調節したり。そこが悪なってまうと、脱水を起こしたり、血尿も出してまう。この子も、そうやったみたいやね」


 腎機能低下が発覚したのは、六年前の六月のこと。一七歳だった。人間の年齢に換算すれば八四歳、大病を患っても何ら不思議ではなかった。

 当時はかかりつけの病院で抗生剤を投与することで治まった。半年後に再び血尿が出たが、その際も同様の治療で乗り切った。

 この頃から、視力や聴力が低下してきていたようだと、ランの記憶がミチヒデ達に伝えている。

 しかし二年後、二〇歳――人間換算九六歳のこと、極度の脱水と食欲不振が重なり、生死を彷徨う事態に陥ってしまった。体重は一・六キログラムと極めて軽くなっていた。


「このお母さんが、ランちゃんを毎回病院に連れて行っていたみたやね」


 はじめは隔週程度で点滴を行なっていた。その甲斐あってランは奇跡的な復活を遂げることとなった。

 以降、およそ二年間、ランは元気に、あるいは呑気に日々を過ごしていた。


「去年、“てんかん”を起こしたのか」

「猫でも起こしてまうんやね……」


 二二歳。一〇〇歳を超えたランを、突如“てんかん”が襲った。

 “てんかん”とは、大脳の脳細胞において神経活動に異常をきたす疾患である。発作的に発症し、意識の喪失や全身の痙攣を引き起こす。目の焦点は合わず、口から泡を吹き、失禁するなど、とても直視できない症状を起こしてしまう。

 日曜日の早朝のことだった。ランは玄関前で昏倒し、痙攣していた。早朝出勤のために起きてきた一家の次男がそれを発見した。

 以降、母親が献身的に毎週の通院をはじめた。


「お母さん、この子のために頑張ってはったんやね」

「他の家族も、それぞれできることをしていたみたいだな。みんながこの子を可愛がっていたってことが、この子の記憶からよく解るよ」


 ランから発される記憶の波が、二人を過去へと誘っていた。当然ながら、全てランの目線で、同じような日常の中に、ぽつぽつと印象的な出来事を織り交ぜているようだった。


「はじまりは、この家族の親戚の女性が、野良猫だったこの子を拾ってきたことやね」


 母親の叔母に当たるその女性は、心優しい人のようだ。野良猫を拾っては育て、別れが訪れると、また新たな猫を迎え入れていた。

 二四年前、叔母は二匹の小さな猫を見つけた。生後ひと月ほどの姉妹か。叔母がどうしようかと逡巡していると、姉妹猫から少し離れたところに親らしき成猫の姿があった。

 その猫は姉妹の行く末を見守っていたようだ。人間に拾われることが吉であるか凶であるか、この女性の人となりは善であるか悪であるか。それを見抜いていたかは定かではなかったが、いずれにせよ我が子への愛の揺らめきがあったのは確かであろう。

 何せ、ジッと見守り続けていたのだから。自分と子供達が生き抜くためにはどうするべきなのか悩みながら。

 叔母は姉妹を拾った。病院で検査を受けて安全を確認された二匹の猫は、それぞれ別の家族へと引き取られた。

 よく走る。元気が有り余ったこの猫は、単純に“ラン”と名付けられた。綺麗な顔立ちに、長く細い手足と尻尾。成長するにつれ、モデルのようなウォーキングを身につけて、座ると凛とした姿勢を崩さなかった。


「ふふっ」


 ほくそ笑むハナにつられ、ミチヒデもそっと相好を崩した。

 彼らは、ここからほど近いアパートでの出来事を垣間見ていた。この家族は二〇年近く前までそこの一階で暮らしていた。ランを迎え入れたのもそのアパートでのことだった。

 飼われはじめてしばらく経った頃、この猫は庭に出てはバッタなどを口にくわえて帰ってきた。自慢げに、褒めてと言わんばかりに、これ見よがしに家族に成果を見せては、ドン引きされていた。

 極めつけは、スズメを捕らえてきたときだ。ランとしては大物の捕縛に、今度こそ褒めてもらえると思ったに違いないが、こっぴどく怒られてしまった。スズメは生きており、すぐに逃がされてしまった。猫心としては、少々ショックだったようだ。


「わ、モテたんやねー、ランちゃん」


 庭のフェンスを乗り越え、駐車場までの細道まで飛び出したランは、近所の野良猫によく追いかけ回されていた。でっぷりとした雄猫で、何度も襲われかけては、家族に助けられていた。去勢手術を終えていたから妊娠はなくても、やはり家族としては我慢できることではなかった。


「普通の飼い猫だったんだな。でも、しっかりと面倒を見られていた」

「うん、アイドルやったんやね」


 家族の父親とは犬猿の仲だった。彼がランの爪を切る際、誤って深爪してしまったからだ。悲鳴を上げて彼をひっかき、彼もまた手拍子で叱りつけてしまった。

 そんな些細なことから、両者はいがみ合っていた。鉢合わせると対立し、ランは全身の毛を逆立てていた。それは家族にとってはとても面白い光景だった。


「家出もようしてたんやね」

「そうか。あの室外機の裏に隠れたのは……」


 一家がこのマンションに越してきてしばらくした頃、ランは突然家出してしまった。七歳頃、やんちゃ盛りだったか、好奇心で外へ飛び出したのはいいが、急に不安になってしまった。

 家に知らない人が来るたびに錯乱して威嚇するくらい臆病者であるランには過ぎた冒険に違いなかった。だから聞き慣れた声がする部屋の室外機の裏に、数日間身を潜めた。

 部屋から声が響くたびに鳴いた。か細い声で、懸命に呼びかけた。

 ――ここだよ。助けて。ここにいるよ。見つけて。お願い。お願い――

 壁越しに届いたSOSに次男が気付いた。

 すっかり薄汚れたランは叱られながらも強く抱き締められた。猫用のシャンプーで全身を綺麗に洗われたのは、ランにとってはお仕置き同然だった。

 以降、ランは次男にベッタリ甘えるようになったが、何を血迷ったか、それから数か月後に同じ過ちを繰り返してしまった。

 今度はマンションの外まで出てしまった。それこそ一週間ほどの大冒険。近所の民家の庭に隠れていると、家族に捕まった。

 別に、家族が嫌いなわけじゃなかった。ただ、外の世界に興味が絶えなかっただけだ。家族がどれだけ心配していたとか、死をも覚悟していたとか、そんなことよりも目の前に広がる世界の広さと美しさに心奪われてしまったのだ。


「カリカリとカツオ節。よかったね、ちゃんと好み知ってくれてるで」


 亡骸が納められた箱には、カリカリとカツオ節の小袋が一つずつ供えられていた。

 グルメだった。カリカリにしろ、缶詰にしろ、同じ種類はすぐに飽きてしまい、新しい物を好んで食べていた。そこにカツオ節をトッピングされると、もうタマらない。本当は焼き魚が大好きだけど、あんまり貰えないのは残念だった。

 一度だけ、お正月にテーブルに並べられた蒲鉾を食べたときは凄く怒られてビックリしちゃった。

 水を飲むなら器に注がれたものではなく、風呂場の蛇口から垂れ流されたものが好き。牛乳はお腹を壊すからって絶対に飲ませてもらえなかった。

 顎だけじゃなく、耳の後ろや額を掻いてもらうと嬉しくて喉を鳴らしてしまう。雌なんだから櫛で毛を梳かれるとすごく気持ちいいんだけど、あんまりしつこくされるのはイヤ。

 寝るときの特等席は色々あった。若い頃は押入れの布団の上まで登ってた。コタツの中の隅っこは一人になりたい時だから、足を入れられたらちょっとイヤ。甘えたいときは寝転がる次男のお腹の上。でも次男の気分に合わせて腕枕だったりするけど、それも良かった。

 一番は次男が寝る二段ベッドの上の階。よく階段をよじ登っていたし、飽きたら飛び降りていたけど、段々それもできなくなって悲しかったな。でも、次男はたまに乗せてくれた。一緒にお布団に入ると、それだけで気持ちよかった。次男も嬉しそうだった。

 お母さんはご飯をくれるから好き。

 お父さんは嫌いだけど、トイレを掃除してくれる。

 長男はたまに言うこと聞いてくれるから好き。

 次男は甘やかしてくれるから何されても怒らないよ。

 三男だけは弟みたいだけど、何かとしてくれるからやっぱり好き。

 好き。

 大好きだよ。

 ねぇ、だから――。


「にゃー」


 だからお母さん、気付いて――。


「これから、行くんだな」

「うん」


 テーブルの上には、最寄りの動物霊園までの道のりが記されたメモが置かれていた。

 おそらく彼女の亡骸は、これから母親達によって霊園まで送り届けられるのだろう。風呂から上がったばかりの三男も、冷え切った愛猫の顔を覗き込んでいる。


「ハナ、どうするんだ?」

「一緒に行こう。その間に、この子が納得するような送り方を考えてあげよ」


 そう言ってハナは、ランを抱え上げようとした。しかし、「みゃーっ!!」暴れ出し、ミチヒデは顔面を引っかかれて悶絶した。

 魂は記憶を蓄積する。記憶を伝播させる。生前に受けたことのない痛みを覚えるには、経験のある者の記憶を受け取る他にない。

 しかしミチヒデにそんな経験はない。


「あ、ゴメン。私の記憶やわ」

「勘弁しろよ、この野郎……っ」


 ハナはその昔、猫に顔を引っかかれたことがあった。その痛みを咄嗟に思い出してしまい、それがミチヒデに伝わってしまったらしい。




 母親と一家の三男坊は、バスに揺られて霊園を目指した。

 黒のボストンバッグにはランの亡骸を納めたあの段ボール箱が入っている。少々ぞんざいだが、この家族はマイカーを手放して久しいようなのでやむを得ないだろう。

 残暑も佳境といったぐらいか。快晴で、雲もまばら。日差しも思いのほか強くはない。

 二柱の死物が、そんな晴れやかな空を軽くジョギングしている。猫のランは未だに不機嫌で、ハナに両脇をホールドされながら唸っている。

 家族が乗るバスを俯瞰しながら、ミチヒデは言った。


「こっちの方角って、俺達の管轄外じゃないのか?」

「そやね。ランちゃん以外の死物を見つけたら担当ガイドに連絡入れるわ」

「みゃーっ」

「んおっ!?」


 突然、ランが暴れ出し、ハナの腕から飛び出した。ランは空中の見えない足場に着地すると、バスが通り過ぎた一軒の建物に向かってまた一つ鳴いた。


「あそこがどないしたん?」

「動物病院って書いてあるな」


 ミチヒデが看板を指さした。

 二人は、あぁと顔を見合わせた。そこはランのかかりつけの病院である。彼らはランを連れて病院の玄関前に降り立った。

 ランの記憶がふわりと漂って、二人を引き込んだ。


「ふふっ。ここ、嫌いな場所やったんやね」

「だけど、感謝してもいるんだな」


 この二〇歳からの四年間、ランはこの病院に通い続けていた。ランはその度に嫌がって、不機嫌に唸っていた。

 それもそのはずだ。狭いカゴに入れられたかと思えば、他の動物がいる場所に連れられて、よく分からない人間に身体を触られたかと思えば、挙句背中に注射を打たれるのだ。気分がいいことがあるとすれば、帰ってしばらくは体調が良くなることくらいだ。


「んあーお」


 ランは病院に向かって鳴くと、ミチヒデの足に首を擦りつけた。


「おおっ?」

「懐かれたみたいやね! ほれ、ランちゃん、ほれ! 私の足にも、ほれ!」


 ハナはこれ見よがしにスカートから伸びる足をランに差し出した。しかし見て見ぬふりをして、通りに向かって歩き出した。


「何でや!?」

「ほら、オレってさ、心が広いから」

「はぁっ!? 私やって相当心広いと思いますけど!?」

「いやでも、動物の本能って、正直だから」

「何なんそれ!? 何でそんなちょっとはにかんでるん!? 羨ましい!!」


 へへへ、とミチヒデは恥ずかしそうに笑って、ランを追いかけた。奇妙な敗北感を覚えさせられたハナは、しつこくランにアピールをしたが、やはり見向きもされなかった。




 母子は動物霊園に到着した。駅から徒歩一分、思いのほか小ぢんまりとした二階建ての建物だ。壁に大きな動物の絵が描かれているので、看板の漢字が読めない幼い子が見れば、ペットショップと間違えてしまうこと請け合いだろう。

 そこへ入っていく彼女らの背中を見守り、死物達は静かに時を待っていた。


「神野さん?」


 手旗でランと遊んでいると、声をかけられた。死後の世界――それも天顕疆界で声をかけられるなど珍しいことなので、ミチヒデは少し驚いた。

 相手は落ち着いた雰囲気の中年女性だ。ハナと同じ制服を着ている。


「あ、おイチさん、ご無沙汰してます」

「ええ、お久しぶりね。こんなところでどうしたのかしら? アナタの管轄は……」


 言いかけて、立ち上がるハナとは逆に、イチはおもむろにしゃがんだ。ランは即座に威嚇の態度を示したが、差し出されたイチの指先を興味深そうに嗅いでみせるやそれを舐め、撫でてと言わんばかりに自ら頭を差し出した。

「イイ子」とイチは微笑んで、彼女の額や顎、耳の裏を掻いてやった。

 ミチヒデに肘で突かれたので、ハナは彼女を紹介した。


「えっと、この人はここの地区長の吾妻(あづま)イチさん。超ベテランのガイドさんや」

「お、オレ、自分は――」

「古城ミチヒデ君ね、お話は聞いているわよ」

「え?」

「〈獄界の使者〉と同じ力を持つ男の子が入社したってね」


 獄界の使者とは、霊落した魂を獄界へ連行する者達だ。

 阿鼻叫喚、生への未練と欲望が延々と木霊する怨念渦巻く空間が獄界である。生前に大きな罪を犯した者、死後に霊になった者は全て獄界へ送られ、昼も夜もなく、終わりすらない刑罰を受け続ける。そんな中で、使者達は魂を管理している。彼らの未練に同調しない、確たる意志を持つ者が使者の素質を有する。

 さらに使者は、霊を追跡するために顕界へ行かなければならない。そのためには未練を糧にしない霊落が求められる。

 ミチヒデは以前、それを成功させた。生への未練ではなく、愛する者の命を守るためだけに。

 視線を落として黙りこくってしまった彼に、イチは続けた。


「安心しなさい、古城君。生前ならいざ知らず、性根を曝け出せる私達死物に、アナタを疑う人はいないわ。かつてアナタが起こした勇気ある行動は、誰の魂で捉えても称賛に値するんだから」

「…………」

「私個人も、アナタをとても尊敬しているの。死後歴四〇〇年ほどになる私でも、天顕疆界に滞在できるのは三日が限度。それ以上はどうしたって未練に引っ張られてしまう。でもアナタや神野さん、そして日吉さんは、完全に未練を断ち切って職務を全うできている。中でもアナタは未練のない霊落を行なって、生ある人々を直接助けることができる。とても羨ましいことよ」

「……そういうものですか?」

「ええ。正直に言わせてもらうと、そうしたアナタのことを怖がる子も少なからずいるのは確かだけど、アナタにはそんなことを気にせずにガイドを続けてほしいわ」


 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるミチヒデの足に、ランが擦り寄った。しゃがんで頭を撫でてやると、その場に寝転がって腹を見せるような格好で伸びをした。


「二年前の夏。アナタ達が起こしたあの騒動をきっかけに、会社は事業内容の大幅な見直しを図った。獄界と積極的な連携をとることを宣言し、ガイドの職務にもメスが入れられた。それは私を含め、多くのガイドを困惑させた」


 会社は、ガイドと獄界の使者が密に連携し、顕界の安全を維持することを求めた。それに応じられず、退職届を提出する者が続出した。退職願よりも強い意思表示を示すその届け出の多さに、社の上層部は頭を悩ませた。

 そんなところに、騒動の当事者である古城ミチヒデが、会社一の問題児・日吉ヒヨコと、死界一の異端・昼前時(ちゅうぜんじ)草西(アカネ)口利き(コネ)で入社した。

 退職届の受理を待つ社員達は、彼を一目見るなり気が抜けてしまった。


「波動の使い方がまだまだ未熟なアナタからは、記憶の波が漏れ出していた。唖然としている社員に、日吉さんは言ったわね」


 赤い鳳凰が刺繍された白いスカジャンを羽織るガイドは、木刀を片手に口悪く呼びかけた。


“コイツに触れろ。それすらできねぇー腰抜けは、とっとと出ていけ”


 会社の廊下はごった返した。ミチヒデに触れて、彼の過去や騒動の真実を垣間見ようと、会社中の死物が我も我もと押しかけてきたのだ


「アナタを知った社員は、挙って退職届の取り下げを求めた。みんな、アナタを認め、これからの職務への不安を少なからず振り払うことができた」


 イチはミチヒデの胸に手を当てた。


「私もあの日、こうして触れさせてもらったのよ?」

「そ、そうなんですか? あの時は、もう何が何だか分からなくて。ヒヨコさんもハナもヘラヘラ笑ってばかりで助けてくれないし、余計なところ触ってくる馬鹿も大勢いたし」


 お祭り騒ぎに乗じて、ミチヒデにキスをしたり、頭のニオイを嗅いだり、股間に触れたり、尻を揉んだりと、あからさまなセクハラを仕掛けてくる輩が後を絶たなかった。

 事後、それを嘆いていると、ヒヨコは言った。そんな余裕を生んだのも、ミチヒデの魂が安全と理解できていたからだと。


「アナタはきっと、これから多くの悲劇を目の当たりにする。どうか、心を、魂を折らないで」


 熱が、伝わる。


「折れそうになったとき、どうか思い出して。こうしてあの時、沢山の魂がアナタに触れて、アナタを理解したことを」


 魂の波動を通して、あるはずもない熱が、失って久しい肉体を形作る魂へと伝わってくる。

 あの時知られてしまった過去や感情のお返しに、同情や期待といった妙な熱量を受け取った。一方でそれらは、彼らが感じていた不安の裏返しであることも理解できたから、ミチヒデの肩には責任のような重い何かが圧し掛かっている。


「大丈夫。アナタには神野さんがいる」


 重くなっていた頭を擡げ、隣に佇むハナを見た。


「日吉さんや御重永(みえなが)さん、そして今日からは私も頼りにしなさい」

「にゃーっ」

「アラアラ、アナタも?」


 ランも主張し、ミチヒデの足にまとわりついては、上目遣いで鳴いた。


「神野さん、アナタも少し変わったようね? 以前のアナタなら、ご新規様を片っ端から問答無用に送迎していた。アバウトな説明、強引な誘導、暴言暴力でクレームの雨霰。日吉ヒヨコの愛弟子という評判どおり型破りな女の子。だけどあの騒動以降は――」

「“死せずして、生を知るに及ばず”。その本当の意味を理解しただけですよ」


 死後一〇年までの神野ハナは、死物でありながら死にきれていなかった。

 彼女の先輩である日吉ヒヨコはそれを見抜き、憂いていた。霊落、そして霊そのものを強く拒絶する彼女は、生への未練を捨ててしまった。死んだばかりの魂が必ず願うはずの生への執着を思いつくことなく、死を受け入れてしまった。

 そればかりか、死後の世界を楽しんでさえいた。


「霊を軽蔑すること。それがどれだけ惨いことか、やっと理解できたんです」

「じゃあ今のアナタは、その子(ラン)をどうしたいのかしら?」

「これからこの子が一番好きやった人のところへ連れていきます」

「とても危険な行為だということは解っているわね?」


 ハナは頷いて、「この子に見せてあげたいんです。最期は何も見えへんかったみたいやから」




 動物霊園のエントランスに入ると、正面に焼香台が置かれている。その奥にはガラス張りの空間がある。自動扉をくぐってそこへ踏み入ると、レンガ造りの大きな供養塔墓地が聳えている。

 薄い石を積み重ねたようなこの墓は、合同火葬用。つまり個別ではなく複数同時に火葬された動物達の遺骨を納められている。合同のため、どれが誰のペットのものか判らないので、骨壺に納めることはできない。

 家族はラン以外のペットを飼っていなかった。皆で世話をし、それぞれに愛情を注いでいたが、天国では他の動物と一緒にいさせてやりたいという想いから合同火葬を選択した。

 墓前には献花台が設置されている。供え物や卒塔婆も並べられている。

 霊園の方針で、葬儀は仏式で行なわれた。棺に納められたランは色とりどりの花で飾りつけられた。

 ランを含めた三匹のペットの火葬が始まった頃、ミチヒデとハナはランを連れて霊園を後にした。イチは彼らの背中を見届けると、ランと一緒に葬られたペット達を探すために歩き出した。今日は人の魂は部下に任せ、動物の魂を送迎したい気分だった。


「ランが一番好きだった人……。どこかに出かけていったみたいだけど、行き先は分かるのか?」


 ミチヒデはランを両手で抱えながら問うた。先を走るハナは、「分からん! せやから一回、この子の家に帰って手がかりを見つけんと!」


「やっぱりそれしかないか」

「夜まで待つって手もあるけど……」

「帰ってこないことも、あり得るよな」


 魂は、死後およそ二日半――六〇時間ほどで霊落するという。

 ランの記憶によれば、昨日の一六時一〇分頃に息を引き取ったようだ。

 今は一三時過ぎ。まだ二四時間すら経過していないものの、時の流れは思っているよりも速く進むのが常だ。しかも六〇時間はあくまで目安にすぎない。未練が弾ければ、いつ何時だって霊落できるのが魂というものだ。悠長に事を構えている余裕はない。

 真昼の空を疾走すること三〇分ほど。彼らはランの家に戻り、ひっそりと静まり返った家の中で手がかりを探しはじめた。

 ランは慣れた様子で歩き回り、閉じられたドアを見ると触れることなく踵を返した。半開きのドアを見ると、わざわざ開いたところを潜っていった。

 死物には不要な行動と言えど、これがランの生涯における習慣だったのである。


「探すって言っても、物を触れないってのは厄介だぞ」

「いや、アンタ、霊落すればええやん」


 ミチヒデは目を丸くした。それから手を拳でポンと打ち、「あ、なるほど」と合点がいった様子で笑みを浮かべた。

 並の死物は、一度霊落すると二度と元の魂には戻れない。霊落の瞬間、その死物を中心として空間が大きく歪む。そしてその死物の霊落に周囲の死物も引きずり込まれ、二次被害を引き起こしてしまう。

 霊となった死物は顕界と死界を自在に行き来できるが、いずれの世界においても、強力な負の魂の波動が悪影響を齎してしまう。顕界においては生物の精神を狂わせたり、天変地異を引き起こしたりしてしまう。いわゆる、霊障である。死界においては死物の未練を引き出して、霊落を誘発させてしまう。

 しかしこの古城ミチヒデの霊落は違う。

 霊落時、彼は周囲の死物を巻き込まない。極めて狭い範囲で空間を歪め、顕界に下りることができる。しかも負の波動を発することがないため、いかなる悪影響も与えない。

 さらには彼の任意で霊落を解除し、普通の魂として天界に行くことができる。

 それは獄界の使者と同じ、あるいは類似した特別な力なのだ。

 ミチヒデはあくびをするかのごとく容易さで霊落するや、自身の霊体濃度を高めることで、顕界の物質に接触してみせた。テーブルに置かれた資料を捲り、荒らさないよう慎重かつ丁寧に部屋に探りを入れた。


「そっち」

「こっちか?」

「次あっち」

「待てよ、今――」

「向こうも気になるなぁ」

「お前楽だなぁ、指示ばっかりしやがって! どっかのスーパーの元店長か!」


 小首をかしげるハナだったが、和室に飛び入って、「ミッちゃん、ミッちゃん! このシャツめくってみて!」と慌ただしく訴えた。

 やれやれと肩をすくめつつ、ミチヒデは見た。和室には家族の洗濯物が陳列されていた。衣装ダンスの取っ手にはハンガーにかかったワイシャツがいくつもあった。


「この緑のラインが入ってるの見せて!」

「これか?」


 シャツを二、三枚捲ると、独特なデザインのワイシャツが姿を見せた。ハナは肩に刺繍されたロゴマークを指さし、「このスーパー、すぐそこにあるで」


「でもコレがあの人のだって分からないだろ?」

「ランちゃんの記憶を辿ったときに見えたで。あの人が帰ってきたとき、鞄からこのシャツ取り出すとこ!」

「……じゃあ、行くか」

「うん!」

「みゃーっ」




 狭い搬入口に、一台の中型トラックがバックで駐車する。センターから商品を運んできたのだ。

 しかも今日は月曜日。土日に売れた分だけ、大量に入荷された。

 一般食品部(グロッサリー)はそのスーパーの商材の大部分を担う。主に扱う商品は非生鮮食品である。野菜、肉、魚などのナマモノをはじめ、パンや寿司、揚げ物など、店で調理加工した物以外を取り扱う。つまり、すでにパッケージされた加工済み食料品を多く扱う。

 商品が詰め込まれた六〇〇×四〇〇×二五〇ミリメートルの青いコンテナを、足首までの高さの平台車(ドーリー)に重ねていく。五段ほどにしたそれを押し、スイングドアを開ける。


「いらっしゃいませ」


 店内とバックヤードを仕切る境界線を越える前に立ち止まり、笑顔を作って一礼する。

 だが、その顔が歪んでしまった。不意に過ってしまった。

 昨日の夕方のできごとが。

 奥歯を噛み締めて、店内に踏み入る。客とすれ違いざまに会釈と挨拶を忘れず、品出し作業を開始した。

 客に尋ねられると答え、探している商品の場所まで案内する。商品を次々に陳列し、店内を回っていく。その業務のわずかな隙間を縫うように、昨夕のできごとがフラッシュバックしてしまう。

 愛猫の最期の姿を。

 ランはとても心臓が強いと動物病院の先生は言っていた。だから平均寿命を遥かに超えた二四歳まで生きられたのだろうと。

 しかし最期の最期でそれが仇になったのではないかとも思えたのだ。ランは死の淵で何度も痙攣を起こし、今際の際となってから一時間も後に、天国へと旅立った。

 苦しかったに違いない。老衰ではあったろうし、腎臓の病でもあったろう。だが心臓だけは強く、強く、脈打って働き続けていたのだ。ひっそりと静かに事切れることを、拒んでいたのだ。

 懸命に生きようとしていた。前日から開きっぱなしだった瞳はもはや光すら感じていなかったかもしれないし、耳もすっかり悪くなって聞こえなかったかもしれない。でも顔や足に触れるたびに反応し、小さく鳴いていた。

 名は体を表す。ランは痙攣の最中、横たわりながら足を素早く交互に回転させた。まるで家の中を、かつてのアパートの庭を駆け回っていたときのように。ランはやはり、“よく走る子”だったのだ。

 そしてランは頭をぐいと持ち上げたりもした。立ち上がろうとしたのか、ただの生理的な反応なのかは分からない。しかしその姿はとても誇り高く見えた。

 ため息が漏れてしまう。高く積んだ台車の影で腰を下ろし、瞑目した。

 別に、ペットの死に酔っているわけではない。可哀想な飼い主を演じているわけでもない。心に訪れた重く粘りのある苦しみに耐え切れなかったのである。

 たかがペット。されどペット。

 二四年間も共に過ごしてきた。ランが初めて家にやってきたときの光景が、今更になって蘇ってきている。

 小学校から帰宅して、テレビがある和室に行くと、細く長い尻尾がゆらりと煙のように立ち昇り、脳を刺激したのだ。こちらに気付いて振り返る小さな頭と大きな耳。可愛いと素直に思えるシルエットだった。

 次から次へと起こる異常事態に、ランはすっかり正気を失くしていた。家中を駆けずり回り、どこかへ姿を消してしまった。勉強机の裏に隠れてしまったのだ。

 臆病者である。それなのに父に喧嘩を売るなど強気な面もある。好奇心旺盛で、人間ならおてんば娘だったに違いない。

 喋れたら、何を言うんかな。

 家族でそんな話をする間、ランは身体を丸めて眠りこけていた。成長し、さらに長くなった尻尾が鼻に当たって煩わしそうだった。

 神戸を襲った大震災を契機にしばらくつけていた首輪のせいで、首にはくっきりとその痕がついてしまった。マンションに越してからは家出の心配もないだろうと油断して外してしまい、二度の脱走から見つけ出すのには苦労してしまった。

 ランは家族の中で一番懐いてくれていた。同じだけランに甘えてもいた。

 口笛に続いて舌を三回鳴らすと、トコトコと早足で寄ってくる姿はとても可愛らしかった。

 どの足を、尻尾を握っても怒られなかったのは僕だけだ。どんなに顔をぐちゃぐちゃに弄っても、喉を鳴らしていた。セカンドバッグのように片手で持って歩いても嫌な顔一つされなかった。

 リビングで寝転がるときは、お腹の上か、腕枕。若い頃はベッドの二階までよじ登ってくるくらいの必死ぶりで家族に笑いを誘った。老いてそれができなくなると、連れて上がることもしばしばあった。

 沢山粗相もされたし、沢山引っかかれた。苦労や痛みの裏側で、おかしなことに愛情が募っていった。

 そんな幸せな日々の中、ランの体調が崩れるたび、誰かの死を看取るたび、動物の最期が報じられるたび、来るべき時は来るだろうと覚悟はしていた。

 男なのだから泣くものか。運命を受け入れよう。

 そんな覚悟がまやかしだと気付かされた。

 来るべき時が来た時、こんなにも人の覚悟とやらは脆く崩れてしまうものか。


「にゃんにゃん!」


 お菓子売り場で品出しをしていると、幼い声が耳朶を打った。

 咄嗟に頭を動かすと、母親に抱えられた二歳ほどの女の子が、店先を指さしていた。そちらに“にゃんにゃん”と呼べるような何かはない。

 それでも彼女はもう一度、「にゃんにゃん、あっち、にゃんにゃん!」

 目を凝らしても何もない。

 思い立ってスマホを見てみると、一時間前に母からメールの着信があった。内容は、ランを丁寧に納めてもらえたとのこと。ならば今は、火葬が終わった頃合いだろうか。

 何故か、心が満たされたように思えた。

 救われたような気がした。




「ご、ごめん、上手くいかんかった……」


 死物達は、ランの家族――その次男が勤めるスーパーを訪れていた。

 ハナは霊落以外で顕界と死界を繋ぐことができる〈水鏡の行〉を行なった。死界の水を媒体にしたその妙技は、生物と死物が互いに心を、魂を寄せ合っていなければ行なえない。

 水は彼女の眼前で丸い鏡のように形を変えたが、それはとても小さいものだった。しかも今にも割れてしまいそうだった。彼女はまだ、未熟な死物なのだ。

 すぐさまランを鏡の前に立たせたが、それを見つけられたのは年端もいかない女の子だけだったようだ。

 失敗だ。たとえ成功しても、鏡を通して見えるだろうランの姿は、ぼんやりとしたシルエットにすぎない。そして届けられる声も酷く不安定だ。おどろおどろしいとさえ思えるだろう。

 それでもランに、この次男に、互いを会わせてやりたかった。

 鏡が割れると、ハナは項垂れた。彼女の肩に手を置いて、「安心しろ。あの人の顔を見ろよ」とミチヒデは労った。

 ほんの束の間、客や同僚の目を憚りながら、次男は天井を仰いでいた。その顔には、ただ沈むほかなかったような憂いの色は見当たらなかった。

 佇む彼の足に、ランが擦り寄った。小さくか細く鳴く。聞こえるか聞こえないかのその声は、猫が甘えている証拠――サイレントニャーなどと俗称されている。

 ちょこんと座って見上げていたランは、ゆっくりと瞬きをしてから踵を返した。

 長い尻尾を揺らめかせ、モデル然とした優雅なウォーキングで天へと向かっていった。




 ――――僕は忘れない。

 ランがいたことを。

 ランと暮らしたことを。

 楽しくて仕方なかった二四年間を。

 二〇一七年九月二四日、一六時一〇分。吹岡ラン、二四歳、永眠。




 墓参りに行くよ。

 その時は口笛を鳴らすから、応えてよ。

 ラン、ありがとう。




〔了〕

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