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ドッペル!  作者: 吹岡龍
29/34

〔夢-mu〕② タイムリミット

 顕界は七月一九日、二三時四〇分。

 来宮ユウミは薄暗い通路で女性から声をかけられた。相手は清泉館のスタッフで、本日の一八時から始まった通夜祭の途中、ホールから飛び出す来宮にも声をかけたと言う。


「ホールにはずっと、終わるまでいましたよ?」


 小首をかしげる彼女の混じりけのない瞳とかち合い、女性スタッフはおかしいなと頬に手をやった。今日は一日、故人である古城家の両親、そしてその故人を慕って集った友人代表という彼女を初めとした少年少女と共に式の準備を行なっていた。それぞれの名前までは覚えていないが、彼女らの容姿だけはしっかりと判別できている。だから式の途中でホールを飛び出した彼女のシルエットを見間違うはずもない。たとえ、泣き顔を見られぬようにするためか、顔を覆っていたとしても。


「変ねぇ……」

「古城君もスミに置けへんなぁ。女の子、泣かしてまうなんて」


 吹けば散ってしまいそうな微笑を湛えて、少女は呟くように言った。


「失礼いたしました。それでは明日。お休みなさいませ」


 傷口にはみだりに触れぬに越したことはない。今まで多くの式に関わってきたが、だからと言って得意げに相手の悲しみに身を寄せたり、相談に対して心得顔で経験を語ったりなど言語道断なのだ。

 人生にセオリーがないように、個人がもつ感情も千差万別だ。ある人はこうだった、またこの人はこうだった。そんなことは個々人にはどうだっていい情報で、ましてや自身の経験則や主観など論外もいいところだ。嘘吐きほどよく舌が回るように、自分達には彼らが作る悲しみの世界を外から静かに見守り、時折目が合えば如才ない笑みを返し、目立たないが失礼にならない花を手向ける程度の、ひたむきな心遣いのみでしか信頼を勝ち得る術はない。

 遺族との付き合い方を心得ているスタッフは、彼女の微笑が消えないうちに会釈すると、踵を返して去っていった。

 スタッフの背中がフットライトのみで照らされた通路の奥へと消えていく。来宮は足下の絨毯に目をやった。マイクロサイズの埃が光に照らされ、無重力空間のように悠然と漂っている。大気が爪先の方向へ流れているようで、絨毯の赤い毛の一片がすっと光の外へ飛び出して見えなくなってしまった。

 センチメンタルな感情が沸き起こり、見えない場所へ旅立ったミチヒデを想った。同時に、ホールから飛び出してしまうほど彼の死を悼んでいたという同じ年頃の少女のことを考えた。自分の知らない彼がいるのではないかと思いつくと、今まで覚えたことのないひやりとした感情が背筋を粟立たせた。

 あぁ、これが嫉妬なんだ。独占欲の発露を自嘲した彼女は通路を歩き出した。

 彼女はミチヒデの両親からの申し出を受け、通夜を共にすることとなった。通夜は読んで字の如し、夜通し故人の亡骸の傍にいて、生前の思い出話などに花を咲かせる儀式だ。仏教においては釈迦(しゃか)の入滅を(いた)んだ弟子達が各々に聞かされた説法を語り合ったことを起源としており、キリスト教においても前夜式、あるいは“徹夜の祈り”の意味を持つパニヒダという儀式が共通する。

 通常、通夜は遺族、あるいは親族のみを交えて行なわれるものだが、来宮達は遺族の格別の引き立てによって共にすることを許された。それはすなわち明日の告別式への参列を許可されているということだった。ミチヒデの母の愛念の籠った瞳が全てを物語っていた。来宮をはじめ友人代表の面々は躊躇っていたが、「修学旅行にミチおらんねんで、おらせてもらおうや」と葦原が気持ちの良い返事をしたことで、清泉館の宿泊施設で一泊する運びとなった。

 今はシャワーを浴びてきた帰り道で、ナミ達の後を追っているところだ。一緒に出たのだが、途中先程の女性スタッフに声をかけられて、一人足を止めていた。

 行き止まりの右手のドアを開けた。ミチヒデ曰く“バカの田山”が、遺族らを前にして物怖じ一つせずにミチヒデとのエピソードを面白おかしく語っている。彼は高校一年生から同じクラスなので、同席する村木や厚木よりも彼のことをよく知っている。同じく机を並べていたのが葦原だ。二年生に上がるとクラスが分かれたが、テニス部でペアを組んでもいるので、苦楽を共にし、親友の名に相応しい友情を育んでいた。


「お、来宮さん。ちょうどミッちゃんの自己紹介んときの話しとってん」

「一年のときの? あぁ、アレかぁ、フフフ」


 思わず吹き出した彼女はハッとして周囲を見渡した。遺族は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、友人らはニヤニヤとほくそ笑んでいた。出逢ってから今まで暗い顔しか見せていなかったからだろうし、ミチヒデが好きだと公言していたからでもあるだろう。

 来宮は顔を真っ赤にして背を向けてしまった。そんな彼女の肩をナミとリエが両方から抱き、ハルコやアスミがカワイイだ何だと子供をあやすように愛撫した。

 ミチヒデが納められた棺の傍らに座らされ、「聞かせて、来宮さん。アナタが知っている、ミチヒデのことを」と彼の母に促された。

 ちらと棺に目を向けた。北枕に眠る彼の顔は白く、美しかった。遺体の腐敗を防ぐために敷き詰められた保冷材で棺はとても冷たかった。少しでも生前の温もりを伝えたくて、棺に手をかけてから、微笑のうちに言葉を紡いだ。


「それじゃあ、お言葉に甘えて中学時代の話を。ミチヒデ君、エエよね?」


 それは二人だけの物語。

 高校デビューを掲げた、青春の一ページ。




 天顕疆界、同刻。

 ミチヒデの死から、ついに六〇時間が経過していた。つまり、タイムリミットである。

 神野ハナは愕然としてしまって、振り上げたハリセンを下ろせぬまま立ち尽くしていた。

 膝を折って座り、両腕を抱き、頭を垂れたまま、彼は固まって微動だにしなかった。彼という情報、容姿や服装を形作る一切の幽体が真っ黒に変色してしまっていたのだ。まるで焼死体の有様のようで目も当てられなかったが、愕然としたのはそれだけが理由ではない。霊落の過程の一つである次元の歪みが発生していないのだ。

 彼からは負のエネルギーが拡散していなかった。彼から波動が感じられなかった。


「この子、未練を自力で抑えとる言うんか……!?」


 強力な波動を輻射することで顕界へワープするのが霊落だ。その際に幽体が黒く変色する。ミチヒデは未練を己の中に抑え留めることで、次元の歪みを生み出さないばかりか、またぞろ歯を食い縛って自我を保とうともしているようだった。

 その理由をハナが理解したのは、彼の身体に勇気をもって触れてからだった。

 彼の一七年間が大波のように押し寄せ、彼女の意識を呑み込んでいった。

 母に抱かれ、父によって“道に芽を出す力強い穀物のように、秀でた道理で人の標となるよう”という想いを籠められた名を与えられた。二人の愛情によってすくすくと健やかに育っていった彼は、友達に囲まれ、様々な情報に囲まれ、生傷の絶えない活発な少年になっていった。

 しかし、中学一年生の冬。言い渡された引っ越しの話にミチヒデは言葉を失ってしまった。大人の事情に腕を引かれ、流れのまにまに辿り着いたのは右も左も分からぬ土地。釈然としない気持ちを抱えて訪れた中学校。先生に促された自己紹介では誰とも目を合わせようともせず、そんなことをしばらく続けたものだから同級生と諍いを起こしてしまった。二面あるコートの一部が削れてしまっているほど狭い敷地で汗を流すソフトテニス部を見下ろして悪態をつくまで、彼の心は酷く荒みきっていた。

 このままだと非行に走る。そんな彼の心にすっと手を伸ばしたのは来宮ユウミという少女だった。人との関わり方で苦悩していた彼女が何を思いそんな行動に出たのかは分からない。だが、この出逢いが当時の二人を救ったことには寸分の疑いもない。

 それからの彼の日常には来宮が中心にあった。普段の学校生活も、受験勉強も、当面の目標も。


「高校……デビュー」


 独り言ちるハナの目に、頬を染める乙女の慎ましやかな笑顔が映った。ハナは彼女を知っていた。ミチヒデと出逢ったときに、彼女に関する記憶の断片を受信していたからだ。

 あぁ、そうか。そうやんな。

 そっと黒い身体から手を引いたハナの視線は顕界に向けられた。真夜中の葬儀場、その敷地の端に不自然に佇む少女を睥睨(へいげい)した。

 電灯に半身だけ照らされ、窓越しの施設の通路を案山子か監視カメラのように無機質な目でジッと見つめている少女――来宮ユウミ。

 もとい、彼女の容姿をよく真似た異物――ドッペルゲンガー。

 古城ミチヒデは来宮ユウミを守るため、さらには自分の目的を果たすために、自力で霊落を、復讐の炎を燃やす赤い波動を抑え込んでいたのだ。それは彼に残された最後の理性に違いない。

 もしも波動が拡散されれば、その強いエネルギーは天顕疆界のみならず顕界にまで伝播してしまう。それは獲物に釘付けの異物の注意をこちらに向けるということだ。こちとらドッペルゲンガーへの打開策など見つけられていない。そんな状況で対峙してしまっては敗北も必至。昨夜感じたドッペルゲンガーの波動を思えば二人が霊落するのは目に見えている。命からがら逃げ延びたとしても、時間の浪費はミチヒデの霊落をより確かなものへと近づける。

 ハナは疑問を抱いた。ドッペルゲンガーが来宮に変化している以上、彼女を次の獲物と認識しているのは確実だろう。しかし怪物は彼女を襲う素振りを一向に見せない。何故、すぐにでも来宮を襲わないのか。

 ライオンやチーターを代表する、陸上から離れられない獰猛(どうもう)な肉食動物は、身を屈めて相手の死角に忍び寄り、射程距離に入ると飛びかかって獲物の急所に噛みつき、仕留める。もしくは追い回し、獲物が転ぶかスタミナを切らしたところを狙う。

 タカやワシなどの猛禽類はその類稀なる飛行能力と優れた目で獲物を捕らえる。水棲動物も様々で、クジラはその巨大な口で吸い込むように、シャチは頭脳を生かして追い詰め、サメは敏感すぎる嗅覚から“狂乱索餌(きょうらんさくじ)”と呼ばれる乱食行動を起こして強引に強襲する。

 このように主要な肉食動物が食い荒らした後に、ハイエナやハゲタカなどの腐肉食動物が残飯の処理をし、さらに微量な死肉を虫やバクテリアが分解する。

 そうした生態ピラミッドの摂理というサイクルの中にあって、多くの生物が獲物を捕食するために辛抱強く待つことを強いられる。全ては生と子孫の繁栄のためだ。

 ドッペルゲンガーもそうなのだろうかとハナは見下ろす目元をいっそう厳しくした。異物は謎が多い、むしろ謎ばかりだ。複数の次元を行き来しながらも、肉体を持たない死物にはできない繁殖方法を有しているとでも言うのだろうか。だから捕食し、獲物と同じ姿に化けるのはその一環、ただのドッペルゲンガーという種の特性なのだろうか。

 だとすれば、あの“赤い影”も人の脳味噌を喰らうのはそうした目的なのだろうか。

 考えても答えが出ないばかりか、胸糞悪い想像ばかりが肥大していく。ハナは歯を食い縛り、肩を抱く彼の両手に自らの手を添えた。


『――――やった。あったぞ、来宮……!』

『受かってる、受かってるで、古城君!』

『ようやくできるんだな』

『うん。でも、上手くできるかな』

『大丈夫だって。オレ達は友達になれただろ』

『友達……、そか、友達――』

『あ、えと。その、来宮、良かったらオレと……』

『え?』

『あの、見終わったなら退いてくれへん?』

『『す、すみません――――』』


 漆黒の世界に響き渡るその声に耳を澄ませた。とても初々しく、とても面映(おもはゆ)い、若葉の恋。きっとそこは高校受験の合格者発表の掲示板前だろう。それは二人の念願が叶い、明日が拓けた喜ばしい日だったに違いない。

 羨ましいなぁ。

 恨めしさなど欠片ほども思わなかったのは、闇夜に輝く一点の星の瞬きが真似できぬほどの美しさで彩られていたからだろう。ハナはその光を広げてやろうと手を伸ばした。

 ミチヒデの視界を満たす黒い布地からは温もりが漂っていた。俯く頭に圧しかかる柔らかい感触からは、雑多な事情を消し去ってしまうようなフローラルな香りがした。


「目、覚めた?」


 おもむろに頭を起こした。そうしてようやく自分が肩を抱いたような奇妙な格好で蹲っていることに気付いた。明らかになった視界を目の当たりにして呻いてしまった。どうやら、ハナの胸に埋もれていたらしい。起伏らしいものが見当たらない、平坦な胸に。

 途端、星が散った。


「目ぇ、覚めた?」

「起きました申し訳ありませんでした」


 鼻柱にキツイ一撃を食らったミチヒデは、土下座でアラームのスヌーズ機能の解除を懇願した。鼻血を気にしていると、ハナがまた昨夜のように額から大量の血を垂れ流していることに気付いた。


「お、おい、大丈夫か!?」

「平気や。上手くいったみたいで良かった」


 そう言って、彼女は仰向けに倒れてしまった。慌てて彼女を抱え起こそうとすると、「綺麗やね、星」と空を指差した。見上げた彼も、どっと疲れが身体を重くしたので、彼女と並んで空中に寝転がった。

 降るような星々。街中では珍しく、澄み切ったパノラマに四つの瞳ではとても数え切れないほどの恒星が瞬いていた。半分欠けた月さえもどこか趣きを覚えた。


「えぇなぁ、自分、あんな青春してたんや」

「記憶、覗いたのかよ。変態だな」

「そうでもせんかったら、アンタずっとここで気色悪い格好で固まってたんやで。少しは感謝してほしいわ」

「覗き魔に言われてもなぁ」

「あぁーあ、しょうもないことしてもうたわ。ほっとけば天顕疆界のオモシロスポットとして見世物にできたかもしれんなぁ。考える人ならぬ、“正○丸飲み忘れた人”ってタイトルつけてな」

「それは残念だったな」


 ちらと見ると、ハナの額の傷は消えていた。ひっそりと胸を撫で下ろしていると、「アンタの未練をおすそ分けしてもろたんよ」


「どういうことだ」

「アンタの小さな器から溢れた未練を、私の大きな器が受け入れた。それだけの話や」

「さっきから何だ。イライラしてんなぁ」

「青春、したかったってだけや」

「オレだって、途中だったよ」


 二人は口を噤んだ。

 しばらく目の保養とばかりに空を眺めていると、どちらからとも言うわけではなく、向き合って上体を立たせた。


「これからのことを話し合いたい。知恵を貸してほしい」

「それはやぶさかやないけど、先輩ほど知ってるわけやないで。ただでさえ私は異物にはアレルギーがあるから」

「ヒヨコ先輩、だったか。あの人は物知りなんだな」

「そうやで。でもあの人も別の人からぎょーさん聞いて勉強しとるみたい」

「別の人?」

「天界で情報屋開いとる昼前時アカネって人。さっき会った“くの一”さんのご主人様」

「何だか凄い名前の人だな、昼前時だなんて」

「私もよう知らんけど、ちょっと天然で可愛らしいで。天界行ったら紹介したるわ」


 閑話休題(かんわきゅうだい)。敷地の隅で佇んだままのドッペルゲンガーに視線を向けた。


「アレは何しとるんやろうな」

「さぁな。オレや黒ネコを殺したときと同じだとすれば、来宮を狙っていることは確かだ。でも、どうして来宮なんだ……!」

「あんまり怒ると気付かれんで、ミッちゃん」


 彼は舌打ちするや、深呼吸で落ち着きを取り戻した。


「そもそもどうして人や動物に化けるんだ……ん、ミッちゃん?」

「何や葦原いうボンボン系男子もあだ名使こうてたやん。私も使いたいやん」

「何だよボンボン系って」

「じゃあコロ○ロ系にしよか?」

「そっちのボン○ンかよ! だったら伏字にしてくれ!」


 まぁまぁと自分で話を振っておきながら平静を求めるよう彼の肩を叩くと、いかにも考えているといった風に顎に手をやった。


「私が思うに“ドッペルゲンガーはそうするもん”やから、ちゃうかな」

「どういうことだ」

「人が基本的には二足歩行するんと同じで、ドッペルゲンガーは化けるからドッペルゲンガーなんちゃうかなって」

「だったら何だ、化けること自体に意味はないってことか」

「ミッちゃん的には化けることに意味があるて思ってんの?」

「分からない。ただ、殺すことに化けることが必要なのかとは考える」


 面白い着眼点だとハナは鼻を鳴らした。


「他にもある。そもそも論だが、捕食なのか、ただの殺しなのかってことだ」

「うん? ただの殺しって何や」

「認めたくないが、ドッペルゲンガーの変装……いや変身は完璧だ。非の打ち所がない。あれだけ似ているんだ、そのままオレを演じても誰もバレないくらいだ」

「つまり、翌日にはネコ、翌々日には来宮ちゃんに変身しとるのに、喰ったら次々姿を変えるんが解せないってことか」

「そうだ」

「これは私見やけど、アンタらの人生乗っ取ろういうんやったら、あんな人目につく場所で殺したりはせぇへんのちゃう? それに遺体もどこかに隠すはずやろうし」

「それは……そうだな」


 頭を掻くミチヒデだったが、一つの可能性が潰れたことを真実に一歩近付いたと理解して続けた。

 前向きになっていると感じたハナは彼の話に応じた。


「オレはオレを殺した奴の言葉が信じられない。でも、奴の言葉――“いただきます”と“ごちそうさま”が、オレ達が使うのとそっくりそのままの意味だったなら、ただの殺しという線は完全に消えるよな」

「そうやな」

「だとすれば、成りすますのはやっぱり捕食に必要な姿ってことか」

「うぅん、そうなるんかなぁ」

「身体の中に顔を突っ込んで、アイツは何をしたんだ。どうしてオレは死んで、どんな風にオレは殺されたんだ。全く分からない……!」


 ハナは彼の検案書を思い出した。彼の遺体には外傷らしいものはほとんど見受けられなかった。あったのは倒れるときについた傷と、ミチヒデを逃さぬようにドッペルゲンガーが彼の両腕を掴んだ際についた圧迫痕くらいだ。体内にも損傷はなかった。

 自分とは正反対に、綺麗な死に顔だった。

 だから余計に分からない。どうして彼は命を奪われたのか――。


「……魄、か」

「はく? それってアンナちゃんのときに言ってたやつか。魂の膜だか檻だかって」


 彼女は魄について説明した。魂の檻であること。体内に癒着していること。魂のエネルギーを受け過ぎた魄が崩壊することで、魂が抜けて人は死んでしまう、摂理の真実を。


「ドッペルゲンガーに魄を喰われたから、オレは死んだのか」

「でも、そうやとすると分からんことがある」


 何だと急かされ、ハナは確信めいた一言を口にした。


「魄には誰も触れられへん。癒着している肉体でも、同じ幽体でさえも、魄を意識的に触る、ましてや喰ってまうことなんて不可能や」

「だったら……、だったらオレはどうして死んだんだ……!?」


 ハナは答えられなかった。次に口を開いて出たのは、新たな疑問だった。


「目的が捕食やとするなら、肉体のエネルギー源である魂のほうが栄養価は高いはずや。私が先輩から聞いた話やと、魂を多く喰った異物ほど恐ろしい力を持っとるらしい。何でか分かるか?」


 首を振る彼に、ハナは青褪めた顔で答えた。


「魂は不滅や。異物に喰われた魂は異物の中で意識を持ち、獄界で罰を受け続けるような苦しみに苛まれてまうらしいねん。その阿鼻叫喚の負の感情が強い波動になって、異物の力をより強めることになる。つまり異物は、無限にエネルギーを供給できるエンジンをいくつも抱えとる暴走戦車や」


 一息に喉が渇く感覚がミチヒデを恐怖させた。

 成りすますことか。捕食か。ドッペルゲンガーの目的は皆目見当がつかない。いずれにせよ、たったの二人で圧倒的な力を有する化物に対向できるとは思えなくなった。


「殺人を目的としとる場合、恨み、そういう理由はないんやろうか」

「オレが奴の逆鱗に触れたってことか?」


 棘のある声が返ってきた。ハナは(なだ)めるように、「可能性の話や。それに恨みなんて、四谷(よつや)怪談のお岩さんとか、播州(ばんしゅう)皿屋敷のお菊さんみたいに分かりやすい話だけやない」


「個人的な恨みだけじゃないってなら、何があるんだ」

「八つ当たり」

「全く無関係のことをきっかけにして、オレや来宮が標的にされた?」

「風が吹けば桶屋が儲かる、もしくはバタフライ・エフェクト。地球の裏側の蝶の羽ばたきみたいな小さなきっかけが、アンタらを巻き込む台風になった」

「そんな荒唐無稽な話、本当であってたまるか!」


 ドッペルゲンガーのせいで怒鳴られてしまったハナは一つ息をついてから、現状分かっていることをまとめた。


「とりあえず、ドッペルゲンガーは生物の姿かたちを真似てから、狙った対象を殺しとる。その可能性が高いって判断でええか」

「いいも何も、そんなの改めて言うまでもないだろ。都市伝説どおりだ」


 確かにそんな分かりきっていることを伝えられても困るなとハナは思った。しかし話せば話すだけ膨れ上がる可能性を前にすれば、ほぼ確定と思われる情報はこれくらいしかないのが現状だ。たったの三日では、あまりに情報が少なすぎる。

 先程会った黒装束の女、“くの一”のイロ。情報屋アリザリンで昼前時アカネの手足となって情報収集に東奔西走している彼女は、ドッペルゲンガーの居場所以外の情報は与えてくれなかった。彼女もあの怪物の全容を何も掴んでいないのか。一方でこちらの事情は知っているはずだ。それなのにゴーストバスターでも異物バスターでもないただの死物が復讐の二文字だけを動力にしていることを彼女は咎めることもなかった。

 加えて別れ際のミチヒデに対して告げたような、『許せ』という一言も気がかりだ。どうにも大きなうねりに弄ばれているような気がしてならない。


「――ハナ!」

「え、ん、何?」

「大丈夫かよ。頼むぞ、お前の知恵が必要なんだ」


 こんなことを言われたのは初めてのことだった。死んでからも、生まれてからさえも。

 ハナは記憶の片隅に捨て置いていた断片に触れていた。頼りにならない自分と、頼りになる親友。彼女はいつも自分の先にいて、とても頼り甲斐のある子だった。傍から見れば彼女はとても地味で、暗く、人見知りが激しい内向的な子だった。きっと隣に自分がいなければイジメにでも遭っていたかもしれない。

 頭よりも手足が先に出てしまう肉体派の自分は彼女のボディガードであり、スポークスマンだった。彼女ができないことを自分はやろうとしていた。もしかすると、内心は彼女と張り合っていたのかもしれない。とても賢く、聡明で、頭脳派の彼女と。

 オカルト好きの彼女の話は面白かった。科学と非科学、常識と非常識、それらの境界線に立ちながら、色んな超常現象や伝説、寓話を自分達なりに分析していくのはとても面白かった。彼女の造詣の深さに何度感服したことだろう。

 そんな彼女を救えなかった。二度も救えなかった。

 ハナは今、ミチヒデにとっては自分こそが彼女の役割なのだと思った。興味本位で化物を召喚してしまった自分達の罪を、目の前の少年を手助けすることで(あがな)うべきなのだと。


「ドッペルゲンガーは対象を捕食するのに変身する必要があるんやったら、それをできんようにできたら……」


 ミチヒデは思案した。死んでから今までの情報を整理した。

 何かヒントになること。何でもいい、それこそ桶屋でも蝶でも、無関係と思われるようなことでも、ドッペルゲンガーの変身を封じることができれば。

 ……変身。似ている。瓜二つ。全く、一緒――。


「ハナ!」


 頭を擡げた彼は咄嗟に彼女の胸元に手を伸ばした。その標高の低い丘を包むように手を開く。

 バチンと音がして、視界が暗転した。「何しとんねん」と左腕で両胸を隠し、右手のハリセンを振り抜く少女はしかめっ面を耳まで真っ赤に染めていた。

 再び鼻血を垂らす彼は、サーセンと謝罪を済ますと、「見つけたんだ」と言った。


「今ある可能性を信じるなら、これしかない。アイツに恥をかかせてやる」


 そう宣言する彼の目は生き生きとしていた。

 奇妙なものだった。これから復讐をしようと考えている者の顔ではない。

 どちらかと言えば、生傷を絶やさないイタズラ小僧のそれだ。

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