〔與-yo〕③ 集う霊
それは黒い砂嵐のようだった。
まるで路上に落ちる小銭を探すかのように目を皿にして、上空一〇〇メートルから夕焼けの町並みを俯瞰しているときのことだ。突然、古城ミチヒデの視界を黒い渦が塞いだのだ。痛いくらいに顔や身体を叩きつけるその無数の粒は、ジジジと耳障りな音を奏でていた。
ミチヒデは声を上げて後ろへ逃げた。頭の周りにしつこく集るそれを両手で振り払い、未だ鼓膜を苛む残響から抜け出そうと耳をほじった。小指には耳垢の代わりに、あろうことか緑色のトノサマバッタがしがみついていた。
皆さんはご存知だろうか。トノサマバッタは大型のバッタで、大きいものだと体長が六〇ミリメートルを超えるということを。余談だが、日本だけでなくユーラシア大陸やアフリカにも生息しており、個体によっては緑だけでなく茶色のものも存在している。
想像してみてほしい。ミチヒデ少年の幅約一〇ミリメートル、長さ約二五ミリメートルほどの外耳道から、そんな巨大な虫が小指に絡みついて出てきたのである。科学の領域を超えた異次元である死界でなければあり得ない光景だ。これを恐怖と言わず何と呼ぶべきだろうか。
「ご褒美ちゃう?」
「だったらお前入れてみろよ! コイツ耳の中に入れてみろよ、なぁ!?」
少年は血走った両目を剥き出しにして憤慨し、指先で抓んだトノサマバッタを神野ハナに押しつけた。彼女が必死の抵抗を試みる最中、バッタが暴れ、飛んでいった。向かった先は、黒い砂嵐だった。それはまるでバランスボールほどの大きさの球体で、よくよく目を凝らしてみると様々な虫が寄り集まってできたげに恐ろしき塊だった。数にして言えば数千、いや数万は下らないだろう。
「〈蟲霊〉やな」
「霊って……おい、マズいんじゃないのか?」
霊と言えば未練によって変質した死物だ。天顕疆界から顕界、つまり生物圏へと次元を逆行し、その強力な魂の波動でもって生物を苦しめ、果ては殺してしまうという非常に危険な存在だ。さらに霊は天顕疆界で霊落を開始するにあたり、周囲の次元を歪め、近隣の死物をも飲み込みながら顕界へ引きずり込む。そればかりか霊のもたらす波動は死物に未練を覚えさせるほどの強いエネルギーを内包しているので、死物にも厄介な存在だ。
それを彼に教えてくれたのはハナなのに、彼女は不用意にその蟲霊とやらに近付いてまじまじと観察していた。
「蟲霊は“無視霊”とも言うてね、霊落してもほとんど何も影響を与えへんのよ。いたって無視できるレベル、せやから無視霊」
「霊ってのは顕界にいるもんじゃないのか」
「正確には、顕界と天顕疆界を行き来しよる。せやけど蟲霊は滅多に顕界へは降りへん。蟲霊になるのは無脊椎動物やって相場が決まっとる。それは身体の仕組みの違い、いや魂の違いやろうって話が有力やけど私には分からん」
「また適当だな」
「しゃあないやん、誰にも調べようがないんやから」
「研究者とかいるはずだろ、死人にも」
「おるけど、ほとんどの人が死んで魂の存在を知ってもうて、再起不能になるほど打ちのめされとるわ」
「……はは。科学的観点では、死後の世界なんてありえない話だったわけだからな」
幽霊も火の玉もプラズマである。日本の著名な科学者はそう断じる。
人間の脳の錯覚、精神の病、もしくは宗教的観念によってもたらされた心理的要因が作用している。ドイツの精神分析の権威はそのように告げている。
この世の全ては科学で説明でき、幽霊や超能力などは人間の豊かな想像力によって生み出された夢物語でしかない。多くの科学者がそう説き、いつしかそれが市井の人々にも浸透していった。
ただ、神の存在だけは化学の分野に生きる人々の中でも格別の地位を確立していた。完全を示す神、それは真理を指し、科学者はその真理を求めて方程式を発見してきた。神の存在を証明すること、それこそが科学者の目指すゴールと言えるだろう。
つまるところ、幽霊も神も、現状は人間の信念の都合により辛うじて存在していると言えるだろう。
そんな中、高次の知能を持って生まれた人間という生物は、死後に生前の諸々の信念や都合を放棄せざるを得ない事態に陥るわけだ。科学的常識が跋扈する顕界で生きてきたミチヒデも容易に信じることはできなかった。しかし死後の世界、魂魄、霊というものは厳然と存在しているのだと理解させられてしまった。神の存在についてはまだ知らないが、この調子ならいてもおかしくないと思えるほどの現実が目の前に広がっていて、空いた口が塞がらなかった。
ただの高校生でこれだ。科学を生業に生きてきた者達なら、自らの主張がいかに的外れであったかを思い知らされ、これまでの人生を馬鹿らしく思えてくるに違いない。
ミチヒデは彼らの心情を慮ると、何とも居た堪れない気分になった。
「科学者の人らをフォローするとしたら、平行世界はあったってことちゃうかな」
もしその解釈が正しいなら、今それらを研究する生きている人々が不憫だとミチヒデは思った。人生を棒に振っているのではないかと。死んでみなければ、その世界を拝めないのだから。
黒い塊がザワザワと蠢いて、形を変え始めた。横に広がって、墨汁を床に落としたような形になった。ハナはその一滴を掬った。こんな街中では珍しい、ヘイケボタルだ。
「この子らが霊になるんは未練のためやない。ただ死んだことが分からんと、今までの世界と同じように存在しようとしとるだけや。でもこうして群れるんは、その過程で魂同士が喰い合っとるからや」
「喰う、魂を?」
「あー、語弊があるな。あくまで魂は不滅や。せやから死物が死物を喰うても、喰われた魂には何も影響がない。喰ったほうがその気になっただけ、勘違いや。蟲霊はその無駄な捕食行動をこの渦の中で延々行なっとるんや」
偶に爬虫類や両生類の死物がこうした蟲霊を捕食してワケの分からない状態になることがままあるとも彼女は言った。
手元から飛び立ったホタルが弱々しい光を放ちながら塊へと還っていった。
「この大きさやとその名のとおり無視できるレベルやけど、夏の終わりに多くの虫が死に絶えると、その規模が瞬く間に拡大して獄界が捕獲に乗り出すことになるんや」
「何か、可哀想だな。悪気はないのに、地獄へ落とされるのか」
「分かるで。でも曲がりなりにも霊やからな。天界には置いとかれへんよ」
死界にあるのは弱肉強食ではなく勧善懲悪だと彼女は言った。
ミチヒデは耳元に手をやった。まだトノサマバッタが入っていた不快感があった。それを感じるたびに蟲霊による捕食のイメージが脳裏によぎるので頭を振った。
「私は霊が嫌いや。でもそれは未練を覚えるからや。だから私は蟲霊だけは嫌いやない。この子らは何も変わらず、そうあろうとしとるだけやから。せやから、いくら勧善懲悪や言うても、うん、可哀想やな」
夕日が隠れ、闇が訪れた。厚い積乱雲が溶け出して、大雨を降らせた。顕界で起きた異変に蟲霊が反応した。ユスリカの集団が作る蚊柱のようになり、霧散したのだ。
まさしく、“夕立の来て蚊柱を崩しけり”といった正岡子規の一句のようだったが、少し感慨深かったのは、その崩れた柱の中にいくつかのホタルの光が混じっていたことだ。
二人はしばらくそのスペクタクルを眺めていた。互いに互いを気にかけていたが目をやることはなかった。目の前の命や存在の儚さを物差しに、自らの主張を正当化するばかりだった。
雨の中、濡れない身体にミチヒデは嫌気が差していた。嘆息を漏らしたのも束の間、目的を果たすために一歩踏み出した。
焦りが滲む背中をハナは追いかけた。しばらくしてそれがはたと止まった。また耳に触れている。
「どないしたん、まだ気持ち悪――」
シッと人差し指を立てて黙らされた。彼は目蓋を固く閉じ、右の外耳に手を添えて耳を澄ます仕草をした。雨音に紛れた日常に溢れる音を掻き分けた。
車の駆動音――これではない。
ゲリラ豪雨のような激しい夕立に慌てる人々の声――これでもない。
商店街のBGM――全く違う。
小さな小さな、か細い金切り声――これだ。
ミチヒデは駆け出した。一息に高度を下げ、ビルの屋上まで降り立った。すると悲鳴のようなそれがぐっと近付いていた。西には古い商店街、北にはそこに喧嘩を売るようにしてそそり立つショッピングモール、東には娯楽施設が賑わいを見せ、南には帰宅ラッシュの人々を吐き出す駅がある。
もう一度耳を澄ました。誰もこの声に気付かないのは、雨音や雑音のせいだけではない。命への関心が希薄だからとミチヒデは思った。
彼は宙を駆けた。次第に弱まっていく魂の叫びに応えようと全力を尽くした。
そうしてようやく見つけた。娯楽施設群の路地裏で対峙する、二匹の黒ネコを。




