〔與-yo〕④ 後悔
男が泣くものではない。慶びも悲しみも胸に秘め、それらを決して涙で流してはいけない。弱い男は生きていけない、それが世の理だからだ。
“私”の父は絵に描いたような亭主関白であり、大変な読書家でもあった。自らの知識をひけらかすように堅苦しい言葉を使っては熱心に私を教育した。厳父慈母、あるいは“亭主元気で留守がいい”と揶揄されるような夫婦関係を母に求め、彼女もそれが正しい関係なのだと思って彼に尽くしていた。私はそんな父を尊敬していたし、自分の吐いた言葉には責任を持って背かない彼を信じてもいた。
日本の歴史を鑑みるに、そうした男女の関係はとても自然なことだとも思った。男はその体格を生かして外に出て働き、女はその繊細な心でもって家と子らを守る。互いに備わった能力が違うのだから、行なえることも違ってくる。そこに思想やら権威やらが乗っかってくるから、現在の男女平等を謳いながら女尊男卑ともとれるような歪んだ関係が確立しようとしているのだとも思える。自立を訴える女性の気持ちも理解できるが、やはり歴史を顧みれば明らかだと思うのだ。偉そうにしている男達は、決して女を戦場に立たせなかった。心底女を奴隷のように考えているならば、女に戦場の一番槍を強いたに違いない。
歩み寄りながら、遺伝子に組み込まれた互いの領分を理解し踏み壊さぬこと。それが真の平等だとも彼は教えてくれた。男は強がる生き物だ、そうすることで他者から大切なものを守り抜くことができる。近寄りがたい強さを持っていれば、誰もその男や彼が大切にしているものを虐げようとは思わないからだと。
だから私は今日まで、正確には昨日まで、涙だけは決して流さなかった。
妻と結婚したときはもちろん、彼女に子供ができたと告白されたときも、倅が生まれたときだって、緩みはじめていた涙腺をコルクで塞ぐように弱みを見せないようにしてきた。嬉しさを表現するときは、笑顔で充分だったからだ。
思えば私の人生、心に傷を負うほどの辛い悲しみというものを経験した例がなかった。何と能天気だったろうかと今更ながらに思うものである。一九九五年や二〇一一年の震災をはじめとした凄惨な災害を目の当たりにしても、ましてや巷を賑わせる事故や事件、世界各地のテロやそれを起因とした戦争が勃発したというニュースに耳を傾けても、個人的に私の下へ訃報が飛び込んでこなかったからか、可哀想だ不憫だとあからさまに他人事の感想を思いつくばかりで、当事者達の悲しみを知るべくもなかったのである。
そんな私が歴史を顧みれば云々などと、何とおこがましいことだろうか。先人達はもっと混沌とした日常を送っていたから、厳父慈母という関係が成立していたのに、辛酸の一つも舐めてこなかったこんなアマちゃんが何を偉そうなことをのたまっているのだろうか。妻がそんな夫のつまらない半生を知れば軽蔑するに違いないだろう。息子がこんな愚かな父の本心を知れば罵倒したに違いない。
しかし、言い訳がましく聞こえるだろうが、今の私には人らしい感情が少なからず芽生えているのだ。隣でまどろむ妻の心に寄り添えるくらいには、少なからず。
妻も、そして私も疲れきっていた。たったの一日でやつれた彼女の目の下はすっかり黒ずんでいて、ことあるごとに身体を震わせ、未だ枯れぬ悲しみを垂れ流している。しばらく前から降り出している大雨のように。
着きましたと運転手が落ち着き払った声で言った。明日と明後日の着替えを取りに帰るため、病院から暗澹とした面持ちで乗り込んだ私達を一目見て察したのだろう。余計な言葉は口にせず、料金だけを告げた。私は彼に代金を支払い、ぐったりとした様子の妻の手を取ってタクシーから降りた。大粒の雨に責めたてられるまま、自宅マンションの玄関前の屋根まで駆け足で向かった。
感情が高ぶったのか、運転手はパワーウィンドウを開き、お客さんと私達を呼び止めた。しかし目が合うや、口を閉ざしてしまった。制帽を目深に被り直し、ハンドルを握った。
走り出した車のエンジン音が消えるまで、私は彼の心遣いに深々と頭を下げた。
踵を返し、自宅に帰ろうとした。すると妻がマンションの玄関扉を開けたまま立ち止まっていた。彼女の視線を追って、私は驚きを禁じ得なかった。テンキーが設置された両開きのガラス扉の前に半袖の学生服姿の少女が立っており、その少女の顔が妻と同じように涙ですっかり赤くなっていたからだ。彼女は透明感のある白い手に星柄の傘を握っているものの全身雨に濡れていて、見るに忍びない姿だった。ローファーや靴下についた泥を見るに、きっと走ってきたに違いない。傘が邪魔になるほど、腕を振って。
そんな少女が深いお辞儀をしてから口を開いた。
「夜分遅くに申し訳ありません。私、ミチヒデ君の同級生の、来宮ユウミと言います」
「……一度、会ったことがあったわね。中学生のころだったかしら」
この数時間、泣き喚くばかりでまともに喋らなかった妻が問う。
来宮ユウミさんという少女はもう一度慇懃に頭を垂れた。
「はい。今日はお二人にお願いがあって、その、すごく、不躾だと思われるかもしれないのですが、でも、私……」
妻が歩き出した。彼女の傍まで寄り、ショルダーバッグからハンカチを取り出した。
「どうぞ。湿っているかもしれないけど、これで良かったら……」
来宮嬢はハンカチを受け取ると、肩を震わせて膝をついた。妻が大丈夫かと彼女を介抱した矢先、後ろから若い男女の声がして私は振り返った。
そこにはミチヒデや来宮嬢と歳の変わらない、八人の子供達がいた。彼らの一人が私の顔を見るなり、あっと声を上げた。私も彼の顔に見覚えがあって声を漏らした。
「キミは、確か……」
「葦原です。ミチヒデのオジサン、お久しぶりです」
「え、古城君のお父さん!?」
元気で明るそうな女子生徒が目を白黒させた。だが、次には口を閉じ、皆が皆、揃いも揃って一礼した。
私は狼狽えてしまって、彼らの今時珍しい礼儀の通った態度に見入るばかりだった。
「夜分遅くに申し訳……って、来宮さん?」
「ユウちゃん!?」
「キノも来てたん!? 〈リンカ〉しても返事くれへんから心配しててんで!」
女子生徒が挙って来宮嬢の傍へと駆け寄った。座り込む彼女を気遣い、彼女の素顔を見るや強く抱き締めていた。
彼らを取りまとめているらしい葦原君が彼女に問いかけた。
「来宮さん。ここまで来てるってことは、そのつもりやねんな?」
「……うん。みんなも?」
少年少女は深く、何度もうなずいた。私達夫婦を差し置いて、互いの気持ちやら目的やらを合致させたらしい。
来宮嬢は妻から借りたハンカチを握り締めると、友達の支えを頼りに、震える膝を懸命に立たせた。葦原君と目配せして、懇願した。
「私に、私達に、ミチヒデ君の葬儀をっ、葬儀のお手伝いをさせてください……!!」
私は先の運転手同様、感情の高ぶりを隠せなかった。頬を伝う涙を止める術が見つからなかった。
妻の肩を抱いた。我々も頭を下げ、彼らの協力に甘んじた。
私はずっと心に蓋をしてきた。それが父の熱心な教えのせいか、はたまた私という個人の本質かは今となっては分からない。どちらであっても、いつでも是正できたはずだと思うからだ。
ただそれがきっかけで、私は息子に無理をさせてしまった事実は変わらない。彼を生まれ育った街から引き剥がし、見ず知らぬ土地に連れてきてしまった。彼とは幾度か口論となった。大人の事情を知らない子供に苛立ちも覚えていた。
妻はある時言った。最近、あの子は明るくなったのよと。アレは引っ越して初めての冬のことだったか。彼にもようやく友達ができたのだということを、含み笑いを忍ばせる彼女から聞いた。
来宮ユウミさん、彼女がそうだったのか。
情けなく弱い私の目から後悔が溢れた。
ミチヒデ、お前は恋をしていたんだな――。




