〔怖-fu〕③ 霊落
「復讐の何が悪い!? オレは殺されたんだぞ!」
悲鳴じみた声が虚空に爆ぜた。神野ハナは鼻先であしらうと、「あー観た観た。前にドラマでやってたやつやろ、倍返しの」と肩をすくめながら、ハリセンに〈クソ社長め、覚えとれや〉とボールペンでキャッチフレーズを書き記した。それはとある大手銀行内で起きる、上司部下、ひいては客まで入り乱れての土下座合戦を如実に描いた、日本ドラマ史に残る迷作である。ちなみ海外向けのタイトルは〈Fantastic DOGEZA-MEN〉。
コケにされたと覚えた古城ミチヒデは、こめかみに青筋を立てながら怒鳴り散らした。
「オレがやらなくちゃいけないんだ、じゃないと次の犠牲者が!」
「のぼせ上がんな、ダァホ」
「何だと!?」
「臭いセリフ吐いてんちゃうぞ言うてんねん」
「冗談で言ってんじゃない!」
彼が一歩踏み出すと、ハナはハリセンの切っ先を彼に向けた。
その挙動、さらに強い眼光に虚を突かれ、ミチヒデは押し黙った。
「こっちも遊びでやってんちゃうんや。子供のワガママに付き合ってやっとるんが分からんのか」
「こ、子供って、歳変わらないだろ」
「確かに私の享年は一六や。死物は外見の成長ができへんから見た目で分からんかもしれんけど、これでも死んで一〇年になる。死界では死んでからの年数を死後歴言うて、それを年功序列の基準にしとる。アンタはたった一日やろ、あんま偉そうな口利くなや」
「うるせぇよ。死界だか何だか知らねぇが、誰にもオレの邪魔はさせない」
「お姉さんの忠告や。霊落を甘く見とるんやったらやめとき、リセット利かへんで」
リセットが利かないことがあることはもう、思い知っている。いくら拳を固く握っても、いくら爪を手の平に食い込ませても血が出ない。痛みすら感じない。そんな虚無的な感覚を突然与えられて、実感を奪い取られてもう、十二分に思い知っている。
それでも、だからこそ、ミチヒデは我慢ならなかった。耐え切れるものではなかった。
もう一人の自分を殺さなくては。自分を殺したあの偽者を同じ苦しみの坩堝に落として閉じ込めてやらなければ、この怒りを鞘に納めることなどできるはずがない。
「アイツを殺せるなら、地獄でも何処でも行ってやる……!!」
本音だ。強がりでも何でもなく、心からの願望だ。
抜き身の刀のような彼の心に合う鞘を探すような真似をハナはしなかった。むしろ彼女も一〇年かけて研いだ刃で対峙した。彼女は白手袋を外した。
「度胸だけは一人前やな。せやったら……」
少女が手を伸ばす。右手の中指が先端となり、少年の額に迫り来る。距離が縮まるごとに額にピリピリとした刺激が増すのは何なのか。
あまりに自然なモーションで、ミチヒデは腰を引かせることもできなかった。ハナの言葉がそんな彼の鼓膜を捉えて離さなかった。
「お試しキャンペーンや。耐えられるかどうか見し――!」
短兵急。ハナも、ミチヒデさえも、よそから急激に立ち込めた違和感に意識が引き寄せられた。ハナが一点を見つめるので、ミチヒデもそちらに目を向けた。
空間が歪んでいた。まるでブラックホールのように、空間のある一点に向かって渦を巻いていた。距離感は掴めない。近くも見えるし、遠くも見える。感覚的にはまさしく宇宙空間にいるようだ。あそこには近付いてはいけないと、魂に刻まれた本能が警戒し、ありもしない心臓が早鐘を打って止まない。
「何だ、アレは……!?」
「誰か霊落するつもりや。顕界と次元がつながるで」
つまり、どこかの死物が今まさに未練に囚われ、霊と化そうとしているというのか。
リセットの利かない行為に身を投じたということか。
「ちょうどええわ、アンタに死界の恐ろしさ体感させたる」
ついてき。
ハナはそう言って、この天顕疆界のあらゆる物質、あらゆる光を吸い込み、磨り潰さんとするブラックホールのような渦を目指して走っていった。
厄介な女が遠退いた。このまま彼女に背を向けて立ち去ってしまえばいいのかもしれなかった。しかし身体は彼女を追いかけていた。
“死界の恐ろしさ”というものを知りたかったからか。おそらく違う。きっと、自分の死を見物していた野次馬と同じ――興味本位だ。
霊落するという死物の姿を見てみたかったのだ。
御重永アサコ。享年三一歳、死後歴三二年。天界送迎センター所属、天界政令区分大阪府第一七七地区の地区長。一〇年ほど前に着任して以来、ずっとこの地区の死物を天界へ導いてきた。
死の経緯から遅刻には厳しく、仕事は真面目に丁寧にこなす。チャームポイントは鮮やかな翠色のヘアゴムで結われたポニーテール。ヘアゴムは生前付き合っていた彼氏から貰ったささやかな海外土産。有名ファッションメーカーの品で、出棺の際に彼が容れてくれた宝物だ。
アサコにはちょっとした夢がある。故郷の埼玉県でこの仕事をすることだ。社の方針として、故郷と死亡地区での送迎は担当できない。そこにはやはり霊落との因果関係があるのだが、未練を覚えなくなるほど強い心を持てるようになり、いつか故郷で魂の救済に尽力したいと願っているのだ。
それにはできれば早いほうがいいと思っていた。死界の中で時を忘れて過ごしていれば、“彼”が亡くなってしまうからだ。生前、最後に付き合っていた“彼”。三十路の自分とは違って若々しく、活力に満ち溢れれながらも未熟で危なっかしい“彼”。年上の自分を心底愛してくれて、今でも毎週のように墓に花を手向け続けてくれている優しい“彼”を、自分が天界へ導いてやりたいのだ。
心に癒えない深い傷を負う“彼”は、今日もきっと懺悔を胸に生きている。毎年社が主催する〈守護イベント〉に参加して自分の墓を訪れると、“彼”はいつも変わらぬ風貌で一人手を合わせている。“彼”は独り身のままなのだ。
早くイイ人を見つけて結婚しちゃえばいいのに。
そう思いつつも、アサコはかつての胸の高鳴りを思い出さずにはいられなかった。そして、自分しか“彼”を救えないとさえ思うのだ。
“彼”もあと五年もすれば定年だ。独り身で、蓄えもあるようだから、気ままに老後を過ごすのかもしれない。それでもきっとあと三〇年ほどで寿命だろう。残酷なようだが、魂と違って肉体には限界がある。そうなる前に同郷の彼を出迎える準備をしておきたい。
そして言ってやりたい。皮肉めいて聞こえないように彼を強く抱き締めて、『あの頃から変わらず綺麗でしょう?』って。
だから、こんな所で躓いてはいられない。少しでも多くの魂を救済して、社に自分を認めさせなければならない。多少の無茶をしてでも。
「お止しなさい、正気に戻るのよ!」
「何で触れないんだよ、リィーノちゃあああああん!?」
アサコは危険地帯にいた。正確に言えば、アサコがいた場所が唐突に危険地帯に変わったのだ。
それはいつものように担当地区の巡回をしていたときのことだ。誰か亡くなった方がいるとすれば早々に送迎するのもよかったし、二人いる問題児の部下のうち一人を見つけて帰還命令を下すのでもよかった。実際に遭遇したのは前者だった。出逢ったその死物は死後三日も経過していた。
多くの死物――とりわけ亡くなったばかり――は天顕疆界に六〇時間滞在すると霊落するとされている。それは一つの目安であり、有史以来長い歳月から導き出された統計の結果。霊落にかかる時間は個々人で差が生じる。送迎センターのガイドの入社試験で七二時間以上滞在できる者を採用するというのは、より未練への耐性を持つ者が必要とされるからだ。
今アサコの目の前で霊落しようとしている死物の男性は、すでにそのタイムリミットを超過しているようだった。都合よく考えればガイドに採用されるだけの能力を備えているのだが、このまま霊となってしまえばその能力も画餅に帰してしまう。
霊の末路は獄界送りだ。どれだけ顕界に居座ったところで、その運命から逃れられることはない。
「私の声が聞こえますか!? 聞こえたらまずはこちらに顔を向けてください!」
大きな背中をアサコに向ける巨漢は、自分が死んだ自室の中で、懸命に美少女フィギュアに触れようと手を伸ばしていた。しかしフィギュアに触れられず空を切るばかりだった。
アサコはそんな彼の腕を取ってフィギュアから引き剥がそうと努めていた。しかし叶わず、振り払われ、勢い余って部屋の壁をすり抜けて外に弾き出されてしまった。恐ろしい力だった。腕力ではない、魂の為せる力だ。
周囲を見ると、空間が歪んでいた。まるでビー玉を通して世界を覗いたように風景が湾曲しており、それが波打って動き続けると、気付けばすっかり膨張した彼の部屋の中に戻っていた。しかし二人の距離感だけが変わらないのは、やはりここが顕界とは別次元――天顕疆界であるからだろう。
だがこのままではその天顕疆界と顕界がつながってしまう。霊がそうしてしまう。二つの空間をつなぐワームホールのようなものを作ってしまい、そこに霊自身と一定距離のあらゆるものを引きずり込んでしまう。
つまり、このままアサコが彼の傍にいれば、彼女も顕界に連れて行かれるということだ。そうなってしまえばそのままの彼女の力では死界には戻れない。戻れる手段があるとすれば、霊となり、死界とのワームホールを作りあげて逆行することくらいだ。
アサコの脳裏で天秤が揺らぐ。目の前の男と、三〇年も前の女の死を引きずる男。天使と呼ばれる誇り高いガイドとして職務を全うするべきか、それともかつて愛された一人の女として夢のために自己保身に走るか。
一歩足を引く。二歩目には自覚し、三歩目には男の背中から目を逸らした。
“彼”を送迎し、天界で飽きるまで二人で過ごす。その頃にはこんな危険な仕事は辞めよう。貯めたお金で、生前に夢見た暮らしを楽しもう。
獄界になんて、行くわけにはいかない。
「ごめんなさい……。もう少し早く、アナタの存在に気付いていれば――」
「アカン!」
関西弁が耳朶を打つ。左右に首を振るや、直上から彼女は現れ、白く長い何かを男の脳天に打ち下ろした。
男は呻くと、彼の部屋から下階、いや地中へとまっしぐらに落下した。
「まだ助けられますよ、地区長!」
「ハ、ハナちゃん……!?」
アサコの目の前に着地した彼女――神野ハナの瞳に諦めの色は見られなかった。
「今の一発で時間が延びました。霊落には意識の集中が不可欠ですから、とにかくド突いて〈未練物〉から意識を遠ざけましょ」
未練物とは、未練の対象になる物質のことである。今で言えば、美少女フィギュアがそれだ。
「アナタまたそんな乱暴な」
「始末書でしたら、後でナンボでも書きます。でも今は、目の前の魂を救うんが先です」
「……そうね。確かにそう」
問題児に諭されてしまった。しかしさすがは神野ハナ、単なる死物でありながら過去最長の天顕疆界滞在記録を保持する女。前回の帰還からひと月も経っているのに、その可憐な瞳から輝きは失われておらず、むしろ霊落への嫌悪感と死物への愛情をより強めている。
私だっていつも真面目にやってきたんだけどなぁ。でも、肝心なところで怖気づいてしまうようではまだまだなのね……。
アサコは自嘲すると、ポニーテールを解いた。髪を結っていた翠色のヘアゴムを取り、右手の親指の腹にかけ、左手の人差し指と親指で後ろに引っ張る。狙いを地中から這い上がってくる男に定め、「ハナちゃん、行って!」と叫んでから放った。
対象までの距離はおよそ二〇メートル。放たれたヘアゴムは、顕界ではありえない弾丸よろしくのスピードで空間を穿ち、ピンポイントで男の額にヒットした。再び崖に突き落とされた格好の男は、すぐに後ろに手をついた。
「アレが、そうなのか? アレが、霊……!?」
どうやらこの天顕疆界、死物の任意で足場を作れるらしい。今更ながらそんなことに気付いた少年は、慣れない空中歩行でようやく少女のいる場所に辿り着いた。はるか地上に人型の黒い何かを目撃した。男の全身は赤黒くなっていた。衣服まで同じように染められ、双眸にいたっては眼球のない常闇のように真っ黒な眼窩だけがぽっかりと空いていた。
「そうや! コレが、アンタの成れの果てや!! せやけどまだ間に合う!!」
ハナはそう叫ぶと、霊落寸前の男に向かってハリセンで一撃を加えた。呟くように零した彼の言葉をまた彼女は漏らさず聞き取っていた。
「キミは誰? 早くここから離れなさい!」
「オ、オレは……」
ミチヒデは自分のことを説明できなかった。足下で必死になって男にハリセンを振るうハナを見ていると、自分のしようとしていることがどれほど危険で、はた迷惑なことなのかを思い知らされたからだ。
アサコはミチヒデを背に立つと、右手を突き出して手の平に意識を集中させた。すると男に当たってその近くに落ちているはずのヘアゴムが手元に戻ってきた。今一度射撃姿勢をとると、「なるほど、キミは確かに厄介なことを考えていそうね。ハナちゃんが必死になるわけだわ」と訳知り顔で言った。
「え……?」
「耳を澄まして、あの男性に心を傾けてみて。きっと私達と同じように、彼の声が聞こえるはずよ」
言って、アサコはヘアゴムを撃った。それは男の腹に潜り込み、彼が呻吟する隙をハナが突いた。彼女のハリセンが彼の頭を、腕を、足を叩きつける度に、ミチヒデの耳に小さな声が届くようになった。
誰かが何かを喋っている。耳元で囁いている。周囲を見渡しても歪んだ世界には四人しかおらず、ミチヒデのすぐ傍には名も知れぬバスガイド姿の女性しかいない。彼女の声かと思ったが、声色は明らかに男のものだ。
あの太った男の声なのか。
矢先、まるでテレビの音量を最大まで上げてしまったような爆音が鼓膜に噛みついた。慌てて耳を塞ぐミチヒデだったが、同時に何らかの映像が脳裏に焼きついて酷い頭痛に襲われた。肉体などないのに、痛みという感覚だけが全身を苦しめていた。
男の抱える悲しみ。怒り。欲望。そんなものが直截的にミチヒデを支配するので、耐えきれず膝から崩れ落ちてしまった。
「魂の叫びよ。魂は記憶そのもの。私達は今、彼の人生を垣間見ているの」
彼が経験した光景が、当時にタイムスリップしたかのように辺りに表示される。時系列は滅茶苦茶で、喜怒哀楽の感情さえも規則性がなく入り乱れている。フィギュアに寄せる情熱や、彼が生前に働いていた会社で受けた屈辱、誰も救ってくれない暗く狭い部屋での四年間。男の苦悩が全て圧し掛かってくる。
しかし、時折ノイズが入る。その度に一瞬だけ空間を埋め尽くすのは神野ハナの姿だ。彼女が男をハリセンで殴る度、リアルタイムに彼女の鬼気迫る表情が映し出される。何度もそれが繰り返されると、次第に周囲の歪みが正されていき、男の怨念めいた叫びも掠れていった。
「ハナちゃん、もう少しよ。頑張って!」
アサコとミチヒデが息を呑んで事態の収束を見守っていると、眼前を大きな影が落ちていった。赤い鳥が羽ばたいているようだった。
右から左へ薙いで、左から右上へ切り上げる。まるで私刑だったが、ハナはそんなことに構ってはいられなかった。とにかく男にハリセンを打ち込んで、未練物への想いの糸を断ち切ってしまわなければならなかった。
「ちょ、ま、タン、タンマ! ちょ、ほん、タンマぁっ!!」
「らああああああああああ!!」
顔を腫らした男が見えない足場に座り、手を投げ出しながら何かを訴える。その容姿は正常な色を取り戻しつつあった。しかし我を失くした狂戦士のごとく、ハナはハリセンを両手で構えて彼の脳天にフルパワーで打ち下ろした。
ずべっと言葉にもならない悲鳴を上げる彼は、ついにうつ伏せに倒れた。
「うがあああああああああああああああ!!」
それでもアドレナリン全開の彼女は止まらない。ハリセンを捨て、白手袋を外した。素手を彼の頭へ伸ばした。しかし背後から伸びた誰かの手にその腕を掴まれ、ぐいと後ろへ振り上げられた。
肩で息をするハナは背後から漂う一ヶ月ぶりの感覚に身の毛を弥立たせた。まともに振り返られず、顔を上げ、胸を反らし、器用にもその格好で固まって絶句しまった。固まらざるを得なかったと言うべきかもしれない。
「よぉ、ハナぁ。今日も元気そうで何よりだぜ」
「ヒ、ヒヨコしぇんぴゃい、おはようごぜーます……」
背中に不死鳥を負う女――日吉ヒヨコ。颯爽と現れた彼女は、珍妙な体勢で仰ぎ見る後輩に笑顔を返すと、彼女が捨てたはずのハリセンの柄頭を――その最も硬いと思われる箇所を、彼女の眉間に容赦なく捻じ込んだ。
「それはするな、つったろうがバカヤロー」