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左手薬指の……。 後

 茉莉香の姿が見えなくなっても、しばらく誰も何も言わないでその場に立ち尽くしていた。

 最初に口を開いたのは紺野だ。

 「小春ちゃん、いっちゃんのメニュー表作るんだってね? お金出すからさ、ウチの店のメニューのデザインもしない?」

 「は!?」

 小春は驚いて紺野を振り返る。

 「駄目?」

 「駄目じゃないけど! むしろやりたいけども!! なんでこのタイミングでそんな話するの?」

 「いや、話の糸口を掴む為の軽いジャブとして……」

 「軽いジャブにそんな結構大切な話、使わないでよ! 空気読んでよー」

 「空気って無色透明じゃん。見えないものは読めないよ」

 「心の目で読むのっ!」

 「俺そんな修行してねーよ」

 変な言い争いをしていたら、休憩室のドアの影から二つ、「はあ」と大きなため息が聞こえた。

 「……いつからいたの?」

 小春が振り返ってちょっと睨むと、柏木と翔人はちょっと目を見合わせて、それから翔人が「ほぼ始めから」と代表して答えた。

 「私の盗み聞き責められないじゃん二人とも」

 「茉莉香さんが三崎に危害加えたら大変だろうが」

 「俺も護衛要員だよ。盗聴器ついてるかもしれないから、って店長が最初から俺たち呼んでたんだ」

 ほら、と言って柏木が持ち上げて見せたのはフライパン。

 「ほら?」

 「いざとなってもきっと翔人さんは茉莉香さんに手を上げる事なんて出来ないと思ったので俺は鈍器を持参した」

 「フライパンで殴ったら死ぬよ」

 「もし茉莉香さんが刃物持ってたら正当防衛だ。あの人、本当にやりかねないし」

 言いたい放題だ。

 小春が腑に落ちないような顔でそれを見ていると、横から結構真面目な声で紺野が「それにしても」と言った。

 「小春ちゃんすげえな。俺や翔人が何言っても聞かなかったのに。茉莉香が引き下がったのなんて、小春ちゃんが初めてだよ」

 「私と紺ちゃんじゃ、その道の器が違うから」

 「傷つくわあ。その道ってどの道?」

 言われて、小春はちょっと面倒くさそうに紺野を見上げた。

 「……片想いの」

 「そうなの!? そっかー。あの啖呵、かっこよかったもんね。小春ちゃんの好きだったヤツに聞かせたかったよ。お前、こんなに愛されてたんだぞって」

 (いや、その相手、めっちゃ聞いてたっぽいけど)

 自覚はないだろうけれど。思わず柏木を見てしまったら目が合ってしまったので、慌てて逸らす。

 「店長。ディナーの準備が間に合わなくなるから、そろそろ戻らないと」

 翔人が思い出したように時計を確認して言ったので、そこにいた全員慌てて厨房に走った。ものすごく取り込んでいたから仕方ないとは思うけれど、この日の昼食まかないはなし、だった。


 「じゃあ、小春ちゃん、本当にごめんね」

 ディナーも終わって帰る際、再度紺野に謝られて小春はにっこりと笑う。

 「いいよ紺ちゃん。grain de rizのディナーコース一番高いやつで許しちゃう」

 「そ、それはもう、勿論です!!」

 「へ!? いいの!?」

 上手く言いくるめられてはぐらかされると思ったのに。

 「やった! フォアグラ!」

 「店長―。俺もフォアグラ」

 既にドアの外に出て小春を待っていた柏木が頭だけ小春の上から店の中に突っ込んで言い足す。

 一通りの事は片付いたのに、何故か柏木は今日も送って行ってくれるらしい。茉莉香さんはまだちょっと何をするか分からなくて危険だし、どっちにしろ夜遅いし、とか言っていた。どうであるにしろ、小春には不満があるはずはないけれど。

 「なんでだ清!?」

 「色々迷惑かけられてるもん。そもそも、茉莉香さんに泣きつかれて翔人さんと三人で雨の中で大修羅場やって次の日三人揃って風邪引いたときの侘びもまだ貰ってないし」

 「う。お前、古い話持ち出すなあ」

 「フォアグラアンドワイン飲み放題確定ー。まあ、定休日でいいからさ。俺と小春、招待してよ」

 「定休日でいいから、ってさあ。貸切ってことかよ。しかもお前すげえ飲むじゃねーか」

 「よろしくー」

 柏木がにっこりと笑って言うと、紺野は「はあ」と肩を落として「分かったよ」と言った。

 やった、と柏木は小春とちょっと顔を見合わせて笑って、それから「じゃ、お疲れ様でしたー」と言ってその場を離れた。小春も慌てて同じようにして柏木の後を追う。

 捻挫した足をかばいながらも小走りに追いかけたのに、柏木は三メートルくらい先で立ち止まって待っていた。小春が追いつくと、ゆっくりと歩き出す。

 「俺さ、前にお前に好きな人いるって言ったじゃんか」

 「なに!? 突然」

 歩き出していきなりそんな話をするからびっくりして小春は柏木を見上げた。柏木はちょっと難しいしかめっつらをして言う。

 「いや。茉莉香さんじゃないけど、俺も整理しようかなって色々。なんか変な勘違いしてたみたいだし」

 「勘違い?」

 「翔人さん」

 「ああ……本当に変な勘違いだよ」

 「あれはお前も相当いけないと思うぞ俺は。……まあいいや。それで、整理しようと思ってだな。まずは整理するならここからだと思って」

 「へー」

 聞きたいような、聞きたくないような。柏木の好きな人の話、なんて聞いていてあまり楽しくないような。小春の心境なんてお構い無しに、柏木は話を続ける。

 「俺のずっと前に言った好きだった人って、兄貴の彼女だ。初恋のひと。……自分でも気づいてなくて、悪態ばっかついてたのに、結婚するって言われて初めて気づいた。自分はずっと好きだったんだって。その前にも彼女なんていたのに、失礼な話だよな」

 小春が息が止まったようになった。

 (小夏さんなんだ……)

 ぱっと花が咲くように笑った顔を思い出す。自分にはあんな笑い方はとても出来ない。ちょっと落ち込んでいると、柏木は話を続ける。

 「それで、婚約の報告を受けてからは辛くて、自棄になって色んな女と付き合ってみたりもしたけど、やっぱ駄目で、結局そんなの不毛だって気づいてやめたけど。でも、本当に欲しいものはもう人のもんだし。イツ兄も俺、すごい好きだから、そのイツ兄の一番大切なモン奪うなんて絶対無理で。イツ兄にばれない様に必死に感情出さないようにして、イツ兄、ホント鋭いからかなり慎重に色々……偽彼女作ったのもその最終的な駄目押しなんだけど。そういう風に、なんでもないフリして押し込めて。でも時々ホント、叫びたくなるくらい辛くて。いっそ結婚式ぶっ壊して奪ってやろうかとかまで頭にちらついたりして。茉莉香さんに自分を重ねて哀れんでみたりしもしたんだけど。……まあ、それはいいとして。そんくらい俺も辛くて、もう他の人好きになるなんて無理じゃねえかな? とか思ってたんだけど」

 だけど、と柏木はちょっと口ごもる。

 「なんかさ、ある変な女と一緒にいると、その人の事忘れてるようになったんだ。それまで寝ても醒めても、って感じだったのに。そいつと一緒にいると楽しくて、言動が意外で、新鮮で。いつの間にか、その人の事考えてた時間、そいつの事考えるのに使うようになってた。前はイツ兄の結婚式、かなり憂鬱だったんだけど、そいつがなんか二人の為に頑張ってるの見たら、最近楽しみにもなってきた。気づいたら完全にイツ兄の結婚、祝福できるようになってて。きっとこれ、俺はその女の子の事好きだって事なんだろうなって自覚して。でも、そいつ、他の男といちゃついたりするから、イライラしたり。好きなヤツがいるとか言うし、結構俺の中でも色々あって、大変で……」

 小春は息を詰めて聞いていた。心臓がどきどきと大きく耳の側で鳴っているような錯覚を覚えるほど鼓動の音が大きい。大きすぎて柏木の声が聞こえなくなったら勿体ないと、変な心配をする。

 「なあ、そいつ、お前も知ってるヤツなんだけど、誰か分かる?」

 立ち止まって問いかけられて、小春は困惑して目の前に立つ柏木を見上げる。まだ、頭がついていかない。実感できない。ただ、心臓だけがどきどきといっている。

 「え。私、どうやって答えればいいの?」

 当惑したような小春の問いかけに、柏木は苦笑してちょっと意地悪に首をかしげる。

 「さあ? でも、もし俺の期待通りの答え言い当てたら、左手の薬指に絆創膏じゃないもんやるよ」

 絆創膏じゃないもの?

 左手の、薬指に。

 いつかの茉莉香のロマンチックな言葉が蘇りそうになったけれど。

 (いやいやでも、空き缶のプルトップとか、工事用のボルトとかかもしれないし)

 自分が冷静になれるように自制してみるのだけれど。

 だけど。

 心臓がドキドキ激しく高鳴って。目の前で柏木は小春を見つめていて。

 冷静になんかなれるわけはなくて。もういいや。感情のまま答えてしまおう。

 「ねえ、私、清の事好きだよ?」

 柏木の顔を見上げながら言ったら、柏木は驚いたように大きく目を見開いて、それからくしゃりと破顔した。それはもう、猫を被っている時とは比べ物にならないくらい、きらきらきらとした笑顔で。

 「120点」

 そう言って、柏木は小春の左手を掴んで引っ張り寄せる。大きな手に小春の左手が包まれたら、薬指に柔らかい感触。柏木がそこに唇を押し付けている。

 「そのうち、買ってやるよ」

 そう言って柏木は満足そうに笑うから、つられて小春も笑った。

 「キザ男め」

 柏木はちょっと片眉を上げただけで反論はせず、手に持ったままだった小春の左手を自分の右手と重ねる。小春は左側に立つその人の顔をちょっと見上げて、少し口を尖らせた。

 「点数じゃなくて、ちゃんと聞きたいんだけどー」

 言ってやったら柏木は小春を見下ろして、呆れたように苦笑した。

 「いいよ。……小春が好きだ」

 小春は満足して握られた左手を強く握り返して笑った。


 END

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