左手薬指の……。 前
結局、小春は足を捻挫していた。病院で湿布を貼って貰ってテーピングをしてもらったら、大分楽になった。タクシーでgrain de rizに戻った時はランチタイムの真っただ中で、柏木一人で大忙しのようだったので、足を気遣いながらできる範囲で手伝った。
休憩時間、休憩室で休んでいたらドアが開いて不気味なくらい神妙な顔をした紺野が入ってきた。どうかしたのかと怪訝に思いながら小春が見ていると、紺野はがばりとその場で土下座をしたので、小春は度肝を抜かれてしまう。
「ちょ……!? 何コレ!? 恐い」
「恐いって……土下座だけど」
「何で私、紺ちゃんに土下座されてんの?」
「謝罪の意を込めて」
「なんで謝罪? 紺ちゃんがネジ抜いたの?」
聞いたら、紺野は苦しそうな顔で顔をあげた。
「そんな事、するわけないだろ」
「じゃあ……」
「でも、俺はちょっと、小春ちゃんが狙われる可能性を分かっていた。小春ちゃんだから大丈夫だろうって思ってたけど、思いこもうとしたけど。やっぱこの店には若い女の子のスタッフは許されないんだ」
「は!? なんかこう、祟り的な?」
「違うよ」
紺野はちょっと苦笑いをして小春の正面に座りなおす。
「あの踏み台はさ、野郎には必要ないんだ。背が低い、女の子だけがあれを使うし存在を意識してる。俺たちは気にも留めない。……最近、あの台を使ったのは、小春ちゃんと茉莉香だけしかいないんだ」
「あの、紺ちゃん……」
紺野の真剣な口調。どこか苦しそうな表情。何故か嫌な予感がして小春が口を挟んだのに、紺野はそれを振り払うようにちょっと首を横に振って話を続けた。
「俺の奥さん、前はこの店で一緒に働いてたんだ。だけど、そんなおっちょこちょいな子でもないのになんか生傷が絶えなくて。問いただしたら異常な程変な事が多かった。ものが良くなくなったり、食洗器にガラス片が入ってたり、制服のポケットに剥き出しの刃物が入ってたり。それで、店の手伝いを止めさせたんだ。……その後も、何度か女の子のスタッフをアルバイトに雇ったけどダメで、とうとう茉莉香に手伝ってもらうようになったんだよ。茉莉香には一切そういう事がない」
「ねえ、紺ちゃん」
小春はもう一度口を挟もうとする。なんだか話がすごく嫌な方向に向かっている。
「聞いて、小春ちゃん。ショックかもしれないけど。俺はさ、茉莉香とは小さい頃からの幼馴染で。一時期恋人だった時期もあったんだよ。だけど、すぐに上手くいかなくなって、俺から別れを切り出したんだ。茉莉香はしばらく認めてくれなかった。三ヶ月くらい、自分たちはまだ付き合っていると言い張ってた。その後も、俺に新しい彼女ができたら、その子に必ず嫌な事が起きた。今の奥さんは幸い海外で修行中に出会って向こうで付き合ってたから無事だったんだけど……」
紺野は本当に申し訳なさそうに、憐れむように小春を見た。
「小春ちゃんは、茉莉香のお気に入りだったから、大丈夫かと思ったんだ」
小春がガタンと音を立てて立ち上がったのは、急激な衝動に突き動かされたからではない。小春の視線を追って、同じものを見た紺野の動作も固まった。
休憩室の窓の向こうで、茉莉香がいつも通り優しげな表情で微笑んでいた。まるで、邪気なんて微塵もないかのように。
からから、と窓が音を立てて開く。
「小春、聞いちゃったんだ?」
まるで罪悪感なんてこれっぽっちもないような顔で茉莉香は窓枠越しに小春に話しかける。
「ごめんね? でも、小春なら許してくれるよね? 人を好きになる気持ち、小春にならわかるでしょ? 小春、ここで泣いた事もあるもんね。好きな人に好きな人がいるって、辛いよね?」
「なんで、知って……」
声が上ずって掠れてしまった。背筋が寒くなる。茉莉香はにっこりと笑って自分の耳を指さす。イヤホンのようなものがそこには嵌められていた。
「休憩室の会話って案外筒抜けだよ? 注意してね」
(盗聴器!?)
今度こそ、本当に小春はぞっとした。
「茉莉香、もうほんと、止めてくれよ」
紺野が搾り出すような苦しそうな声で言ったら、茉莉香は小春からそちらに視線を移した。
「そう言って康洋、絶対に私の事通報したりしないじゃない? 本当は嬉しいんでしょ? こういうの。 お望み通りの事を私はやってあげてるのよ?」
「お前は、幼馴染だから。できないだけだ。本当に、ずっと妹みたいに思って過ごしてきたんだ。恋人にはなれないけど、でも、見捨てる事もできないんだよ」
「妹みたいとか、都合良すぎて笑っちゃう」
言って、本当に茉莉香はころころと鈴の鳴る様な可愛らしい声で笑った。そして、小春を優しげな瞳で見つめる。
「小春、このバイトやめたら返してあげるよ? メモ帳も、自転車のサドルも。私、小春は本当にお気に入りだったんだから。康洋から離れてくれたら今まで通りやっていけると思うの。本当は、傷つけたくなかったんだよ? でも、メモ帳なくしてもあんまり困った様子なく有能に仕事覚えてくれちゃうし、サドルなくても清君巻き込んでなんとかしちゃうし、さっぱり辞めてくれないから、ついエスカレートしちゃった」
茉莉香は小首をかしげて可愛らしく舌を出した。
「ねえ、小春。私、本当に康洋さえいればそれでいいの。それ以外、いらないの。だから、ね?」
「……本当に、何もいらないんですか?」
「え?」
茉莉香がきょとんとして小春を見つめるのが情けなくて泣けてくる。自分はずっと、この人の事を大好きだったのに。
「見損ないました、茉莉香さん」
紺野が驚いたように小春を見るのが気配で感じられたけれど、今の小春はそれどころじゃなかった。怯まず、負けないように茉莉香を睨みつける。声が震えないように励まして。
「私、茉莉香さんは何よりもPinocchioが一番だと思ってました。小さいころからお花屋さんになりたかったって、ずっと夢だったって言ってたの、信じてました。だから、あんなに茉莉香さんはきらきらしてるんだって、眩しく思ってました。そういう人に、私もなりたいなって。なのに、違ったんですね。もし紺ちゃんが手に入るなら、Pinocchioはもうどうでもいいんですね。紺ちゃんなんかに、Pinocchioは負けるんですね」
小春の大好きな花屋。大好きなバイト先の大好きな女主人だった、のに。
「だったらPinocchioなんて潰しちゃえばいいんだ。その程度の気持ちなんだったら。それで、紺ちゃんのストーカーを24時間営業で続けてればいいじゃん。でも、grain de rizには迷惑かけないでよ。この店は、Pinocchioと違って、本当に紺ちゃんの夢だったんだから。すごく大切なお店なんだから。紺ちゃんにとって、だけじゃなくて、翔人さんにも清にも、多分私にも。そこは邪魔しないでよ。関係ない人巻き込まないで、二人だけでずっとやってればいい」
始め、茉莉香は黙っていつも通りの穏やかな表情で小春を見ていたのだけど、小春が話し続けるうち、段々とその表情からその色がなくなっていった。いつも仄かに唇に浮かんでいるような微笑も、瞳が少し笑った形になっているのも消えて、本当に、何にもなくなって。まさに、無表情。
小春が言い切って、気持ちが高ぶって肩ではあはあ息をしているのを茉莉香はしばらく黙って見つめていた。
「小春が私に、そんな口きくなんて嘘みたい」
表情と同じく、感情のない声だった。小春がびくりと体を震わせて茉莉香を見つめる。紺野が小春を庇うかのように一歩前に出た。
「……Pinocchioは、潰せないわ。本当に、小さい時からの夢だったのよ? 大切だわ。小春には想像できないくらい努力して作った店なんだから、Pinocchioなんか、なんて言わないで?」
「でも、茉莉香さんは、紺ちゃんの方が大事だって言った」
声が震えそうになる。ちょっと裏返ってしまった。それでも、負けじと小春は言う。
茉莉香は、静かに静かに同意した。
「ええ。言ったわ。そうね。……小春に、この気持ちは分からないのね。まだ、子供だからなのかな? それとも、幸せだからかな? 康洋の事を考えるとね。私の内蔵全部が真っ黒になるの。爛れて腐っていくみたいにね。喉が熱くてたまらないの。とにかく、会いたくて会いたくて堪らなくなる。手に入らないと思うと気が狂いそうになるの。全身が熱くなって、頭が沸騰したみたいで、心臓を包丁で微塵切りにされてるみたいにずっと痛くて。髪を掻き毟って、肌を引っ掻いて、他の痛みを確認しながらそれに耐えるの。会いたくて抱きしめて欲しくて、キスして欲しくて、もっとずっといろんなことして欲しくて、ずっと一緒にいたくて。その為なら何を犠牲にしても良いと思うの。自分でもそんな自分は嫌なの。そんな普通の判断さえ、この熱さは燃やし尽くしてしまうの。なんにも分からなくなって、ただただ恋しいだけなの。ねえ、分からない? 分からないかなあ? 私、もう、何年こんな想いをしてると思う? ねえ。ねえ、小春。分かってくれる? 分かって。分かってよ……」
茉莉香の表情の消えた瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。それはゆっくりと、その白いなめからな頬を伝って地面に落ちた。
「わ、分からないです」
小春は拳を握り締めて更に声を励ました。ここで負けるわけには行かないのだ。茉莉香は、間違っている。小春は強くそう思うから。
「分かんない。私はっ、もしすごく好きな人に他に相手がいたら、そりゃあ祝福はできないし、別れちゃえばいいって思うかもしれない。しれないって言うか、絶対そう思う。でも、茉莉香さんみたいにならない。苦しいけど、相手の人に危害加えたりしない。そんな事しても、どんどん自分の手が汚れて、相手に敬遠されて、ますますその人から遠ざかっちゃうだけだもん。わ、私なら、本当に苦しいけど、そんなのきっと想像できないくらい苦しいけど、黙って自分を磨くよ。その人が今好きな人なんて足元にも及ばないくらい良い女になってやるって思うよ。その人を落とせるような方法は、それだけだと思うしっ!」
小春は荒く息継ぎをして、更に続ける。
「しかも、茉莉香さんの目には紺ちゃんしか入ってなくて、すごく腹が立つ。茉莉香さんを想ってる人だっているのに。その人もきっとそういう風にすごく傷ついてるのに、茉莉香さんは自分の気持ちばっかで、そんなのもう、我侭にしか見えないよ。茉莉香さん、我侭だから、紺ちゃんだけとか言っておきながら、Pinocchioも潰せないって言うし。全然、だけ、じゃないし。でも、本当にPinocchio潰さないって言うんなら、そうしたらまだ私、アルバイトだから。私は茉莉香さんの我侭、認めないから。私はまだPinocchioのアルバイトで、でも、grain de rizも続ける。もし、私を解雇しようとしたら、新しく来たバイトの子に茉莉香さんの本性バラして、すぐ辞めさせてやるっ!」
紺野が息を呑んで二人の会話を見守っている。その視線を感じる。でも、そちらは振り向かない。今見つめるのは茉莉香だけでいいのだ。茉莉香も、小春を見ているし。紺野ではなく、小春を。
言いたいことを言い切って、ただ茉莉香を睨みつける小春を、茉莉香はじっと見つめて黙っていた。小春も、これ以上言うべき事はもうないから、口をしっかり結んで言葉を待っていた。
「……考えておく。バイトのこと。また、連絡するから」
茉莉香は言葉を捜すようにぽつりぽつりと呟く。
「少し、時間を頂戴。気持ち、整理したいの。今、私、色々よくわからなくなっちゃった……」
茉莉香は耳に嵌めていたイヤホンのようなものを外すと、それを地面に落とした。かつんという微かな音が聞こえる。
そして、それ以上何も言うことなく、去って行った。




