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痛い! 前

 「痛っ!」

 小さく呟いて左手を開いてみると、薬指の第一関節の辺りに早速赤い筋が走っていた。

 (またやってしまった……)

 以前切ったのとまったく同じ場所だ。

 皿洗い中だった小春は、水道の水を止めてシンクの中においてある水を張ったたらいの中に手を突っ込み、水に紛れているガラス片を注意深く取り出す。

 (なんでガラスの欠片が)

 割った覚えはないけれど、食洗器の中で以前割れた時に取り損ねていたのかもしれない。一応、他の食器も割れていないか点検してみて、無事なのを確認してちょっと安心する。

 現在は閉店後で、厨房には紺野と柏木がいる。翔人は休憩室で食事中だ。さすがに黒須に閉店後の処理までやらせるのは悪いので、後片付けは小春がいつもより多く残って、柏木も、手が使える範囲の仕事を手伝ってくれてやっている。

 「どうした?」

 在庫確認をしていた柏木がひょいとこちらを向いて尋ねるので、小春は手を前で広げてちょっと苦笑いしてみせる。

 「切っちゃった」

 「またかよ」

 「絆創膏とってきまーす。休憩室にあるよね?」

 「花屋に取りに行ってもいいんじゃないか? あの可愛いやつ」

 「……休憩室行ってきまーす」

 柏木の嫌味を振り払って、小春は休憩室に向かう。

 廊下の半ばで、休憩室から話し声が聞こえるような気がして速度を緩めた。休憩室には、確か翔人一人きりのはずなのだけど……。

 (やばい。翔人さん、独り言の人かな!?)

 どんな独り言言ってるのか超気になる。

 知らず足音を潜めた時、耳を澄まさなくても楽に聞こえるくらいの大きさの声がした。

 「……とか、こういうの、いい加減にしろよ! このままじゃ、あんたどんどん駄目になっていくだろ!?」

 かなり苛立っている声。翔人は愛想が良い方ではないけれど、人に対して怒鳴ったりもしない人で、声を荒げたのを小春は目にした事がないからびっくりしてしまった。

 (誰かと、話してるんだよね……?)

 相手の人の声が一切聞こえないけれど、これが独り言だとしたら小春は翔人が演劇方面に転職を考えているのではないかと疑ってしまう事になるだろう。

 (しかも、結構修羅場?)

 この状態の雰囲気の中「はいはいちょっと失礼しますよー。 絆創膏取らしてくださいねー」などと言って中に入っていける人間は余程の猛者だ。

 (紺ちゃんならできるかもしれないけど……ああ、清もできるかもな)

 どうやらこの店は猛者の集まりらしい。

 (花屋は閉まってるしなあ……)

 困ってしまったけれど、とりあえず出直そう、と踵を返しかけた小春の耳に追撃。

 「黙ってないでなんとか言えよ!」

 思わず足を止めて耳を澄ましてしまう。

 「……翔人君には、カンケーないじゃない?」

 聞こえてきた声に、小春はびっくりして目を見開く。

 (茉莉香さん!?)

 どうして茉莉香がこんなところにいるのだろう? この時間はもう、花屋も閉めて帰っているはずなのに。

 「関係なくねえよ!」

 イライラとした翔人の怒鳴り声。

 「俺は、あんたが好きだからな! そういうあんたを見てると、残念ながら放っておけないんだよ!」

 (こ、告白しちゃったー!!)

 小春は慌てる。しまった思いっきり盗み聞きしてしまった。

 (わ、私超悪趣味! とりあえず、戻ろう)

 慌てて今度こそ、足を踏み出す。

 (それにしても、茉莉香さん、おめでとうございます、って感じだなー)

 小春は足取りが軽くなりながらそんな事を考える。いつかの茉莉香の落ち込み方を考えれば、こうして想いが報われた事は祝福すべき事だ。

 鼻歌でも歌いたい気分で厨房に続くドアを開ける。

 「随分長くかかったな」

 ドアを開けた瞬間そんな柏木の声が聞こえて、小春ははたと立ち止まる。

 (しまったー! 清だ! 失恋決定だ!)

 さあっと背筋が寒くなる。

 柏木は、小春の気持ちなんて微塵も知らないで、怪訝な顔で小春の顔を覗きこんだ。

 「どうしたんだ? 変な顔して。……ってお前、何やってたんだよ? 絆創膏貼ってねえじゃんか」

 「へ? ……あ! そ、そう。なんか休憩室取り込み中で」

 「取り込み中?」

 (しまったー! 翔人さんしかいないはずなんだ休憩室)

 小春は気づいて、とりあえず誤魔化しの微笑みを浮かべる。こうなれば、もうこの設定で突き通すしかない。

 「うん。翔人さんヨガしてたから声かけづらくて」

 「ヨガ?」

 食いついたのは柏木よりも、調理台に立って仕込みをしていた紺野だ。

 「マジで!? 俺もやりたいと思ってんだよねー。時間なくてできないんだけどさあ」

 声がでかい。しかも、必要以上に食いつきが良い。

 「何のポーズ?」

 「え? ……あの、猫のポーズ?」

 美容にこだわる友人が教えてくれたポーズをどんなポーズかも分からないまま言ってみる。

 「マジで!? すげーなあ。イッツ・アグレッシブ! 後で翔人に聞こう」

 (ひー! やめてぇーーー!)

 酷い感じに嘘が露見する危機。

 「……店長、普通翔人さんは知られたくないと思うよ。ソレ。俺ならナイショで一人ヨガしてたトコ、指摘されたくないなあ」

 冷静な声で柏木が意見する。

 (ナイス水かけ! 清)

 小春は心の中で柏木を拝んでおいた。

 「マジか。そりゃあしょうがないなあ」

 紺野が渋々諦めたので、小春は大きく息を吐く。

 「小春、もう帰るぞ」

 「え? ごめん、まだ洗い物が……」

 言いかけて言葉が止まったのは、洗い物が全て完了しており、シンクが綺麗に片付いているのが目に入ったからだ。

 「すすぎくらい片手でできるっつーの」

 偉そうに柏木は言って、小春を促す。

 「ほら。さっさと着替えて来いよ。ついでに、絆創膏とってこいよ?」

 言われてハッと気づく。

 (拙い! 制服休憩室だ)

 どうしたってまた、あそこに戻らないといけない。ちょっと困りそうになったけど、ふと以前柏木がやった方法を思い出した。

 (同じやり方しよう)

 休憩室に向かいながら、小春はどこか自分がホッとしている事に気がついた。翔人と茉莉香は付き合うことになるだろう。その事を考えると。

 確かにそれはめでたい事だから、嬉しい気持ちになるのは当然だ。そうは思うけれど、何故かそれは少し罪悪感のある「ほっ」だった……。


 大きな音を立てて休憩室に入ると翔人が一人でまかないの鶏照り焼き丼を掻きこむ様に食べていた。翔人は細身なのだけど、結構良く食べる。仕事で体力を使うからなのか、典型的な「痩せの大食い」なのかはよくわからないけれど。丼の大きさもご飯の量も小春の三倍だ。

 「お疲れ様でーす」

 明るく言って休憩室に入ってまず最初に思ったのは「寒っ!」だった。気温的に。見ると、窓が開いている。

 (茉莉香さんの脱出口発見)

 思うけれど、見なかった事にした。

 「あれ? 暖房効いてないですね。寒くないですか?」

 でもちょっとだけ悪戯心を出して小春が聞くと、翔人はぴくりと動きを止めて丼の縁から目を上げて小春を見た。

 「……厨房で仕事してると熱いんだよ」

 「そうですか」

 「つーか。もう三崎が帰る時間か」

 やれやれと、翔人は丼と箸を器用に右手に、空の味噌汁を左手に立ち上がる。小春が着替えると思って席を外してくれるのだ。

 「お疲れさん」

 去って行く翔人の背中を見送ってドアを閉めてから、小春は窓を閉めに走った。

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