ものすごい厄日 後
花屋に戻ろうと、スカートだけ履き替えてその上から花屋のエプロンをつけ、裏口から出る。そこで、小春は足を止めた。本当に、嫌な事がある日は続くものだ。
そこにいたのは恐い顔をした女性たち。女子大生くらいの女の子から、中年程度のマダムまで。合わせて10人弱。
小春はちらりとその集団を見て、肩を落として一つ大きなため息をつく。
「それで? 噂は本当なの?」
真ん中で腕を組んで仁王立ちした、女子大生風の気の強そうな女の子が代表するようにそう言った。茶色い長い髪はくるくると雑誌に出てくるモデルのように綺麗にカールしていて、ああこれはお金をかけているんだろうな、と余計な事を思う。
「あの。ここの店を出てしまえば私は店のアルバイトではないわけで。従ってあななたちにへりくだる必要のない一個人なんですね?」
「はあ?」
女の子の片眉が吊り上るが気にしない。
「正直、あなたたちには関係のない事だと思います。言う必要ないです」
「何言ってんの? あたしたちが払ったお金であんた給料もらってるんでしょ!?」
「……私、次のバイトがあるので失礼しますね」
にっこり笑って言ってやったら、思い切り頬を叩かれた。いわゆる平手打ちと言うやつだ。
(普通に痛い)
「これ、傷害罪で、訴えたら私勝てるかも」
片手で自分の頬に触ってみて声に出して呟いたら、本人の女子大生はともかく背後に陣取っていたマダムや他の女の子たちは怯んだようだった。小春は更に追い討ちをかける。
「常連さんでしょうから名前はまあ、調べればすぐ分かると思うし。あ、噂流すって手もありますね」
その時の自分はまるで柏木が猫を被っている時のような無邪気な微笑みができたのではないかと、小春は我ながら思った。
「そ、そろそろ止めない?」
小春を叩いた女の子の友人であろう女の子が小声で提案すると、背後のマダムたちが「そうね」「時間の無駄よね」等言って、そそくさと引き上げていく。まるで海の潮が引くように。
だけど、小春を叩いた女の子はその場に仁王立ちして、肩を怒らせているだけだ。ものすごい顔で小春を睨みつけている。
「ね、行こう?」
彼女が動かない為に去るに去れない友人らしき子が遠慮がちにささやくのも聞こえないかのように。小春は試しにその友人らしき子ににっこりと微笑んでやると、その子はちょっとびくりとなって、「さ、先に行ってるね?」と女の子に囁いて足早に去って行った。
(二人きりになってしまった……)
これからどうしよう? 置いて行って花屋に戻っていいだろうか? きっと茉莉香が待ってるし。
考えていたら女の子が唸るような低い声を出した。
「あんた。ムカツク……バイト、辞めなさいよ」
「店長からそう言われたら辞めますけど……」
「あんたが辞めないと、この店の悪い噂ばらまいてやるから」
(あ。それは困るかも)
とはいえそんなことをしたら柏木も困るとまで思いつかないのだろうか? 頭に血が上ってそこまで考えが及ばないのかもしれない。
「辞めるって、言いなさいよ!」
「うわっ」
小春がちょっと叫んでしまったのは、いきなり髪を引っ張られたからだ。顔の両脇に彼女の拳が横目でちらりと見える。痛い。
小春は小柄な方だから、口は達者でもやはり非力だ。武道の覚えがあるわけでもないので、直接力に訴えられてしまえば、やはり勝ち目はない。
(あ。なんかこれ、やばいかも……)
がつん、と肩が出てきたばかりの扉に打ち付けられる。
いたた、と思っていたら背後のドアが突然内側に開いたので小春はバランスを崩した。後ろにそのまま転びそうになった肩を支えてくれたのは翔人だ。小春の肩を両手で押し戻して、そのまま立たせる。ありがたい。
「悪いんですが、ここ、割と壁が薄いので中に丸聞こえですよ」
翔人はいつもと変わらない冷静さで、無事ひとり立ちした小春の頭上から女の子に言う。
「な、なによあんた……」
「この店の料理人見習いです。柏木には言わないでおきますから、そろそろやめにしませんか? 結構くだらないですよ、こういうの。どんなに三崎を攻撃したところで、それで柏木の心を得れるわけでもないですし。なら人の事は放っておいて自分を磨いた方が数段マシだってもんです」
「な、何言って……なんであんたなんかに説教されなきゃいけないのよ」
「ちょっと見ていて痛々しかったんで。本当はあんなヤツやめた方がいいと思いますけどね、俺は。あんた綺麗なんだし、本気出せばすぐいい人見つかるでしょ」
「なっ……!」
予想外の台詞に、女の子が固まる。
(おお。顔が赤くなった)
小春は翔人の無意識なのかどうなのかの手腕に感嘆するばかりだ。さっきまで恐かった女の子の筈なのに、何故だか可愛く見える。
「三崎も、そろそろ行け。花咲さんが待ってると思うぞ」
「あ!」
思い出して、慌てて一つぺこりと翔人にお辞儀をして小春は慌ててすぐ隣の花屋に走った。
「がーん」
小春は思わず口に出して呟いた。視線の先にあるのは自分の自転車だ。最近帰りはレストランから帰ることが多いので、レストランの裏においてある。特に名はないけれど付き合い5年目になる愛車はカラフルなシール等でデコレーションしてあって、なかなか気に入っている。小春は結構どこにでも自転車で出かけてしまうから、カゴがボロボロなのだけど。
小春ははあ、と大きくため息をついてもと来た道を引き返し、今出てきたばかりの厨房のドアを開ける。
「あのお、なんか、いらない容器とかあります?」
声をかけると、側にいた柏木が不思議そうな顔をした。
「容器? 何に使うの?」
「自転車のサドルに」
「は?」
訝しげな顔をする柏木に手招きして愛車を見せると、柏木は思わずと言ったように一瞬吹き出した。自転車のサドル部分には本来あるべきサドルそのものがなくなっている。代わりに乗っかっているのは一見生首に見える代物だ。もちろん、本物の生首ではなく、美容師がカットの練習用に使うような人の頭部だけのマネキンだけど。髪の色は赤。
「すっげ。斬新な嫌がらせ」
厨房を出た途端この口調だ。
「笑い事じゃないよ。帰れないじゃん」
「座らなければいける」
「人事にもほどがある発言だね、それ」
話していたら、厨房から翔人も顔を出す。
「どうしたんだ?」
まかないのお好み焼きを歩きながら食べている。アルミホイルで巻いて、スタイリッシュに片手で持って。新しい。
「あ。翔人さん見てくださいよ。酷い事をする人もいるもんですよね。悪質です」
柏木のこの、人を見ての豹変っぷりは酷いものがあると思う。
翔人は、小春の愛車を見ると眉を顰めた。こちらは誠実な対応だ。
「昼間の女どもかな?」
「昼間? 何かあったんですか?」
「……いや」
翔人がちょっと言葉を濁す。さすがは真面目な人だ。ちゃんと「柏木に黙っていてやる」と自分で言った事を実行している。
「おーい。厨房に誰もいねーと寂しいんだけど」
寂しがりの大男もちょい、と厨房から顔を覗かせる。
「店長。これ、三崎が嫌がらせうけてるっぽいんですけど」
翔人が紺野を振り返って説明する。
「なにー!? 俺のサキちょんに酷い事するやつはどいつだー!?」
などとノリノリで言いながら、紺野はやはりまかないを口の中でもぐもぐさせながら小走りでやってきた。そして、吹き出す。
「すげー。やったやつ、根性だな」
「店長?」
真面目な翔人が咎める声を出すと、慌てて態度を改めた。
「しかしあれだな。結構派手な嫌がらせだけど、犯人、見当ついてるの?」
「ついてないけど。でも最近、割とよく物が無くなったりしてたんで、同じ犯人かも……? 丁度こっちのバイト始めたくらいからだし」
「え!? そうなの?」
初耳、とばかりに紺野が驚いた顔をする。翔人も柏木も、意外そうな顔をして小春を見た。
「大したものじゃないんだけど。自転車に置きっぱなしにしてたスケッチブックとか、色鉛筆とか。メモ帳とか。だから、私のファンかな? なんて」
ちなみに、スケッチブックはなかなかイメージが固まらないウェルカムボードの試行錯誤のために持ち歩いていたものだ。いくつかデザイン案が描いてあったのだけど、どれもパッとしないような気持ちでいたのでそこまで痛い損失とは思わなかったけれど……。
「それは自信過剰すぎるだろ」
「うっ……」
冗談で言ったのに、翔人が真面目に返してきてちょっと辛い。
「いやでも、サキちょん、それはちょっと真面目に考えた方がいいかもね。エスカレートすると恐いし。っていうか、充分してるしね。お前もこんな生首にしてやるぞって警告かもしれんし」
「紺ちゃん恐い事言わないでよ」
「あ。ごめんね。でも、これじゃあ夜道を一人で帰すの心配になってきちゃうなあ」
紺野は顎に手をやって夜になって生えてきたであろう薄っすらとした無精ひげを数回撫でた。
「あ。そうか。清が送っていけばよくね? 彼氏なんだし」
「ああ。それがいいな」
紺野の提案に、翔人も即座に同意する。
「え!? いやいや、まだ柏木君仕事中の時間だし、そんな迷惑は……」
言ったら紺野はにっこりと笑う。
「サキちょんが最後まで働いてけば問題なくない?」
「は!?」
「そうすれば、清も仕事が減っていつもより早く帰れるし。俺は女の子がより長く職場にいるほうが嬉しいし。一石二鳥」
その、2羽目の鳥の方はどうなんだとは思うけど、紺野のこういう発言にいちいちつっこんでいては身が持たないのでそこはさらっと流す。
「いやでも。流石に柏木君に悪いし」
言ったら柏木はにっこりと笑って「別にいいよ? 三崎さんの安全には代えられないでしょ?」と言った。
(……あれ?)
「なんでオッケーしたの? あの段階なら別に言い逃れできたのに。清の話術を持ってすれば」
「人を詐欺師であるかのように言うな」
結局小春は追加で働いて、後片付けを手伝って、徒歩で柏木と共に送り出された。自転車は、しょうがないので引いて帰る。この辺りは夜になると人気がないので、確かに申し出はありがたいのだけど。でも、絶対面倒くさいから嫌だと思ってるはずだと思ったのに。
「彼氏だから」
「フリのね」
「そうね。……まあ、それで協力してもらってるしな。それに、流石に知り合いが危ない目に遭うかもしれないってなったら放っとけねえだろ」
「意外に良識的な」
「意外ってなんだ」
そのつっこみは軽く無視する。
「ああ。それにしても今日は嫌な事が多かった。あ。そうだ、お客さんの服にソース付けちゃった件、本当に申し訳なく……」
「昼間いいっていったのに、また謝んの?」
言いかけると清は呆れたように遮った。
「え? だって昼間の清の言動は基本ダミーだから」
「信用ねーな。猫被ってても、意図は遠まわしに伝える男だぜ? 俺」
「さすが人を操るのを得意とする男」
「お褒めにあずかり光栄の至り」
「褒めてないよ?」
小春は言うが、柏木はその言葉は聞こえていなかったかのようにさらりと流した。
「……まあ、ああいうミスは誰にでもある事だし、お前まだ新人だししょうがないだろ。俺までとはいかないけど、お前結構役立ってるし頑張ってんの知ってるから、誰も咎めねえよ」
なんだか、じいんとしてしまった。普段毒舌なこの男に認められた気がして。それを見透かしたように、柏木はちらりと小春を一瞥する。
「まあ、まだまだ茉莉香さんくらい使えるようになるには程遠いんだから、精進しろよ」
「はあい」
その時、ふと、背後に視線を感じた様な気がして。
小春はなんとなく後ろを振り返る。暗いその道はいつもと変わらない。
「ん? どした?」
「いや。……なんでもない」
小春はちょっと笑って誤魔化す。
(最近、ものの紛失が多くてちょっと過敏になってるだけ、だよね……?)




