ウソツキ 前
ふ、と視線を感じた気がして小春は植木の手入れの手を止めて、顔をあげた。だが、特に周囲に人影はない。
(ちょっと、過敏になってるのかな?)
自分でそう判断して、気にしないようにする。
今は茉莉香がアレンジメントの教室だけど、もうすぐ帰ってくるはずだ。そうしたら、入れ違いで小春がレストランのバイトの方に入る事になる。レストランとの兼務になってからはや1週間が経とうとしているが、以前と比べて明らかに茉莉香と接する機会が少なくなっている。そこだけが、不満だ。レストランバイトは意外に性にあってるし、まかないも美味しいし、居心地も悪くないから、贅沢な悩みだとは分かっているけれど……。
「ただいまー。お留守番御苦労さま」
考えていたら、ちょうど茉莉香が今日も朗らかに店に戻ってきたので、小春は表情を明るくする。あの日、小春のレストランでのアルバイトが決まった日、茉莉香が酷く落ち込んでいるようで心配だったのだけど、次の日にはもういつも通りだった。「変な職場だけど、悪い人たちじゃないから、頑張ってねー」と笑顔で送り出してくれたし。今も手早くエプロンを身につけて、にっこりと小春に笑いかけて言う。
「さ。小春、交代。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
笑顔につられるように小春も笑顔になって、裏口を通ってレストランの厨房へ。
「おはよーございます」
大きな声で挨拶して厨房に入ると、「おお、幼児の挨拶のようだな三崎」との翔人の声が出迎えた。
「おはよう、三崎さん」
とその傍でグラスを拭いていた柏木がにっこりと笑うので、小春は思わず鳥肌がたってしまう。本性を知ってしまうと、これは結構さぶい。今は傍に翔人がいるからしょうがないのだけど。
「あ! ミサたん来た? 来た!!」
はしゃいだ声が奥から聞こえたと思ったら、ガス台の前に立って何かを煮込んでいた紺野に手招きされた。
「ミサたんナイスなタイミング。もうすぐイケメン来るから接客させてあげるよ」
「もうすぐって、今準備時間じゃないの?」
小春が来たのは、食器やテーブルクロスのセット等の手伝いのためなのだけど。
この時間に柏木と翔人は遅い昼食をとるからその間に小春がやる。割と時間がないのだ。
「今日はその前に特別なお客さんがちょっと打ち合わせに来るからさ。入口のベルが鳴ったら子犬のように愛らしく駆けて行って迎え入れてあげてよ」
小春が冷たい目を向けても、紺野には何のダメージも与えない。
「そんで、一番奥のテーブル、セットしないであけといて、そこに案内して?」
「はーい」
「ついでにミサたん特製コーヒーも淹れてあげて?」
特製、というか。規定量の豆を入れて、コーヒーメーカーから出てくるのを待つだけだけども。
「そして俺の分も淹れておいて?」
「え? 紺ちゃん、コーヒー好きだっけ?」
「俺のはホットミルク」
「ああ。例の」
「そうだよ。ようやく来たんだよ」
と、紺野が声を弾まして言う「例の」とは、牛乳の事だ。紺野はこんな変態でも料理人としては一応真面目なので、全国各地から厳選した素材を調達している。牛乳も、自分が世界一の牛乳だと思っている牛乳を契約農家から直接買い付けている。そして、それと同じものを自分の小さな贅沢の為に取り分けて、紺野プライベート牛乳と称して業務用冷蔵庫の片隅に入れている。毎日朝晩に一杯ずつ飲むのが最高なのだそうだ。だがそれを、先週の風邪騒ぎの際、柏木がまかないのミルクリゾットに使用した。以下、翌日の彼らの口論。
「ひでえよ清。俺がどんなにあの牛乳大切に飲んでると思ってんだよ」
「病人の滋養の為だってば。だいたいあの風邪は店長が元凶なんだからこれくらい当然だろ」
「だからってなー。もう次の仕入れの日まで料理に使う分しか残ってねーじゃねーか。俺の日課なのに」
「だって店長私用のから全部使ったもん。美味かったろ? 俺特製ミルク粥」
「美味かったけども!」
「もー紺ちゃんうるさい。いいじゃん牛乳の一杯や二杯。紺ちゃん毎日牛乳飲まなくても十分健康だよ。それ以上大きくなってどうすんのって感じだよ」
「サキにょん、俺は君の意見に対して心から主張したい。男たるものいつでも体を強くしていつでも臨戦態勢。最高の子孫を残すべく……」
「紺ちゃん、来年の今日は紺ちゃんの出所記念日になるのかな?」
「……セクハラ言ってすいませんでした」
と言う割と完全にどうでも良い会話を繰り広げたいわくつきの牛乳だ。ようやく新しい牛乳が届いて、紺野のプライベート牛乳が復活、らしい。
まあ、それは心の底から本当にどうでもいい。とりあえずお客さんが来るらしいという事だけ把握して、指示された以外のテーブルセットをしていたら、ドアベルが鳴ったので慌ててドアに駆け寄って、ドアを開ける。
「いらっしゃいませー」
明るく言って、相手の顔を見上げて、小春は紺野の言葉に納得した。
(なるほど! 美男子!)
スーツをスマートに着こなした男性は、小春の顔を見ると柔和ににこりと微笑んで言った。
「店長と、打ち合わせの約束をさせて貰っているんだけど。聞いてるかな?」
「はい。こちらへどうぞ」
その微笑みが自然で優しげなのにどことなくドキッとするような表情で、小春は少し動揺した。
(なんかすごい! 貴公子みたいな人。ちょっと緊張しちゃうよ)
柏木のようにぱっと目を引くタイプではないのだけど、整った中性的な顔はすごく綺麗だし。
「おー! いっちゃん、来たか来たか。座って座って」
紺野が厨房からずかずかと出てくる。
「紺野さん。このたびは、色々と無理言ってしまうかもしれませんが、よろしくお願いします」
「いやいや、こっちこそ、晴れの日の舞台にこんなちっちゃい店選んでくれてありがとな。精一杯やらせてもらうよ」
そんな会話を背にしながら、小春は慌ててコーヒーを取りに走る。それとついでに、本当についでに紺野のミルク。
コーヒーを出した際も、男性はにこりと笑って「ありがとう」と言う。その声も、ちょうど良い具合に低く、滑らかで聴き惚れてしまう。
飲み物を出してしまうと、お客さんのいる前ではテーブルセットができないので、小春は裏でグラスを拭くことにした。翔人はまかないを食べ終わって、ディナーの仕込みをしている。
「三崎さん、今って手ぇあいてる?」
やけに優しい柏木の声に、小春は背筋がぞぞぞ、とするのを感じながら振り返る。
「な、なあにかなあ? 柏木君」
また空き瓶運びとかやらされるんだろうか? にこやかな笑顔で「お願いできる?」攻撃で。 あれ、重いから嫌なんだよなあ。
「今、表にお客さん来てるんでしょ?」
「ん? うん」
「なんか人当たりの良い美形だった?」
「うん。ビンゴ。落ち着いた大人の男性、って感じでカッコ良かったよぉ」
「大人って……店長より全然年下だぜ?」
「は?」
と首を捻った瞬間、紺野の大きな声がフロアから響いた。
「小春ちゃん、それから清もちょっと来てくれないか?」
小春ちゃん、だって。あの紺ちゃんが。
と内心で思ったのは一瞬。すぐに「いくよ」と言った柏木に手首を引っ張られて、厨房から引っ張り出されていた。




