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最終章 自宅の時間 「壊れた給湯器」×「最大の不条理・桜庭結衣」

 「ただいま……」県立高校の正門から我が家までの帰宅動線(全長約一・五キロメートル)を、私はまるで数日間の過酷な基礎打設工事を終えた現場監督のような疲弊度で踏破した。 玄関のドアを開け、その堅牢な鉄製扉を閉めてデッドボルト錠を噛み合わせた瞬間、私はようやく全身の応力を解放することができた。我が家。これこそが、建築基準法上の「一戸建て専用住宅」であり、世界のあらゆる不条理な確率変動から私を守る、最強の物理的遮蔽空間シェルターだ。ここには、丸眼鏡のドジっ子教師も、水を操る怪しげな知的女子も、距離感の壊れたギャルもいない。私のパーソナルスペースは完全に保証されているはずだった。「ふぅ……。今日のデバッグ演算回数、合計百二十四回。脳内そろばんの摩耗係数は極限状態だ。まずは衣類に付着した不自然な水分(水使いによる冷水)と、ヤンデレの残留エネルギーを物理的に洗い流さねばならない」私は浴室(一坪サイズ、規格ユニットバス)へと直行した。服を脱ぎ捨て、ツナギを脱衣籠へと放り込む。鏡に映る自分の、眼鏡を外した素顔は、極度の演算疲労によって心なしか三パーセントほどシャープに見えた。「よし。今日の締めくくりは、摂氏四十一度に精密管理された温水による、筋肉組織の弛緩リラクゼーションだ。これ以上のイベント発生確率は、住宅のセキュリティ境界によって論理的に遮断されている。ここからは私の心が安らぐ、至福の時間だ」私は全裸のまま、一切の警戒を解いて浴室の引き戸に手をかけた。ガラガラと小気味よい音を立てて扉を開け、湯気の中に一歩を踏み出す。立ち上る白い湯気(視覚遮断率、およそ九十パーセント)。しかし、その温かな視覚的ノイズの向こう側に、私はその「不条理の極み」を目撃して完全にフリーズした。ピンク色の髪を頭の上でラフにまとめ、瑞々しい肌に水滴を光らせた、一人の少女。桜庭結衣が、あろうことか、バスタオル一枚すら身にまとわない「完全な非武装状態デフォルト」で、浴室のシャワーの前に直立していたのだ。



「ターゲット検知。……露出面積、ほぼ百パーセント。視覚的情報量(お色気パラメータ)、計測不能(カンスト値)!!!」



 私の脳内そろばんは、かつてないほどの超高速摩擦によって、今や物理的に発火寸前となっていた。通常の男子高校生であれば、ここで鼻血を大気圧以上の勢いで噴出しながら、 「ぎ、ぎ、ぎ、結衣ぃぃぃぃーーーっ!!! ななな何で裸なんだよバカ!!!」「きゃあああっ!? 律のえっち! 見ないでよぉ!」と、浴室の壁を背にしながら、顔を赤らめてお互いに視線を彷徨わせるのが、教科書通りの「お風呂場お約束フラグ(ラッキースケベ)」だ。だが、私は一級建築士を志す合理的デバッガーだ。「桜庭、結衣……! 直ちに有効視野(画角百二十度)から外れなさい!かつ、浴室と脱衣所の明確な境界条件を維持するため、その引き戸を完全閉鎖シャットダウンしろ!」私が咄嗟に回れ右をし、脱衣所側へと引き返そうとした、まさにその瞬間。背後の脱衣所の入り口から、夕食の準備用と思われるお玉を握った私の母が、ひょっこりと顔を出した。「あ、律? お帰り。お風呂、沸いてるわよー」「母さん!!! なぜ脱衣所の鍵が開いている!!!かつ、なぜ浴室の内部に隣人の桜庭結衣が全裸で直立しているのだ!!!」私が叫ぶと、母は全く悪びれる様子もなく、むしろ親切な隣人への配慮を讃えてほしいとばかりにポンと手を叩いた。「あ、それね。さっきお隣の結衣ちゃんのお母さんから電話があってさー。結衣ちゃん家のお風呂の給湯器が、今日のゲリラ豪雨の落雷で完全に壊れちゃったんだって。業者さんも今日はもう来られないみたいで……。だから、『じゃあ、うちのお風呂使いなよ! 律もいま帰ってきたから、一緒に入って背中流し合ってきなさい!』って貸してあげたの。幼馴染なんだから、今更隠すことなんてないでしょ?」「入浴のゾーニングを放棄するな、我が親ながら!!!共同入浴は思春期における精神的耐力壁を完全に粉砕する違法建築行為だ!!!」



 「もう、お母さんたら話が早くて助かっちゃうな。……ねえ、律?」母がお玉を揺らしながらキッチンへと戻っていく足音の背後から、ペタペタと床を濡らす歩行音が近づいてくる。湯気の熱気とともに、甘い石鹸の香りが、私の嗅覚受容体をダイレクトに刺激する。「給湯器、本当に『偶然』壊れちゃったのかな……?」結衣の声が、私の耳元で、驚くほど低く、そして妖しく響いた。その瞬間、私の脳内そろばんが、今日一日のすべての「不自然なバグ」を一本の強固な構造線として結びつけた。「……まさか、結衣。お前の実家の給湯器の『落雷破損』……これらはすべて……」「ふふ、私の設計図プラン通りだよ、律」私の背中に、彼女の、濡れて熱を帯びた「肉体的質量」が、何一つ遮るもののないダイレクトな圧力をもって押し当てられた。



「私の実家の給湯器の配線をちょっとだけショートさせて、業者さんが来られない時間を見計らってお母さんに連絡しておけば……。律は必ず、この一坪の浴室という密閉空間で、私と動線を交差させざるを得なくなる」結衣の細い両腕が、私の首元を、逃がさないように前から後ろへと回り込んでホールドする。「やっぱり、私の予測ナビゲーションに狂いはなかった。律がどれだけ『お約束フラグ』を建築力学でデバッグしようとしても、そのデバッグプランの最深部には、常に私が先回りして『新しいお約束』を施工しているんだから」



 私は戦慄した。全身の骨組みがきしむような、圧倒的な不条理に対する敗北感。世界が用意した、数々のラブコメ的ハプニング。 朝の「遅刻食パン少女」、昼の「コンクリートブロック落下」、夕方の「ゲリラ豪雨のバス停」。私はこれらをすべて「偶発的なシステムのバグ(お約束フラグ)」だと思い、自らの能力でそれを回避するための「ナビゲーター」として、結衣を信頼していた。だが、違ったのだ。それらのバグは、世界が勝手に起こしたものではない。いや、世界が起こしたバグさえも利用し、あるいは自らの手で「物理的な施工不良(工作)」を行うことで、私を確実に追い詰めるための、完璧な包囲網を構築していた真の黒幕。それこそが、私の最も近くにいる幼馴染、桜庭結衣だったのだ。



 「お約束フラグ」を全力で回避するパートナーの仮面を被りながら、その裏側で、最も完璧で、最も逃れられない「お約束の地獄」を自ら企て、施工する。この少女こそが、この不条理な学園生活と呼ばれる空間における、最大にして最凶のシステムウイルスだったのだ。 これが、高校入学式のたった一日の出来事である。「さあ、律……。もう、今日の分の計算は終わり。これからは、私たちが一生かけて築き上げる共同住宅(幸せな未来)の設計図を、二人でじっくり、ここで引こうね……?」耳元で囁かれる、冷たく、しかし絶対的な愛の宣言。私の、高校最初の一日は、こうして最悪の「不条理の着工合意」をもって、幕を閉じようとしていた。脱衣所のカゴの中で、私のそろばんの珠が、主人の恐怖を代弁するかのように、パチパチと悲鳴を上げて震えていた。私の、三年間にわたる「平穏な日常」を勝ち取るためのデバッグの戦いは、まだ基礎工事の段階すら終わっていなかったのだ。





こうして、入学式初日という「一日」の幕が下りようとしていた。浴室からどうにか合法的かつ物理的な距離を確保して脱出した私は、自室にこもり、静かにノートPCのブラウザを立ち上げた。液晶画面の冷たい光が、私の眼鏡のレンズを青く染める。ブラウザの画面に表示されているのは、「お約束フラグ耐性二級試験」の出願ページだった。「……私の現在のスキル:三級相当では、世界の不条理なシステムが仕掛ける人為的改変を完全に見抜くことは不可能だ。二級ライセンスを取得し、お約束の構造力学をより高度に修めなければ、私はいつかあのピンク色の設計図に完全に取り込まれてしまう」私はマウスを握る手に力を込め、己の無力さと向き合う覚悟を決めて「出願」のボタンをクリックした。



ピピッ。



 その瞬間、手首のスマートウォッチから、今日のログの集計結果が、無機質な音声合成で流れ出た。「二〇二六年四月九日、お約束フラグ十二件。うち一件成立(対象者:桜庭結衣)」「……くっ、一件の着工:フラグ成立を許してしまったか。だが、被害は最小限:浴室での密着のみに食い止めたと考えるべきか」私は画面から目を離し、手元の手帳に、私のクラスの「構造スペック」を書き殴った。一クラスの総数:四十一人。男子の人数:二十一人。女子の人数: 二十人。高校卒業までの残存期間:千五十八日。時間換算:二万五千三百九十二時間。「一クラスに、女子が二十人……。本来の建築学科の統計的確率を無視した、あまりにも不自然な男女比。これはクラスの女子全員が、世界のシステムによって私を籠絡するためのお約束因子としていつでもアクティベートされ得るという、最悪の構造計算だ……!」



 こうして、律の「一日」は幕を閉じた。また、明日から始まる、壮絶な二十人との千五十八日に渡る「お約束フラグ」の戦いは始まったばかりだ。私の脳内そろばんは、すでに明日という名の「未竣工の戦場」に向けて、新たな演算を開始していた。





【エピソード一 完】


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