番外編 お見合い被害記録帳 娘編
雨の日は、子どもにとって少し退屈だ。
少なくとも、我が家の娘にとってはそうらしい。
朝からしとしと降り続く雨のせいで庭へ出られず、稽古も早めに切り上げられ、絵本も刺繍も一通り済ませてしまった娘は、午後になる頃には明らかに暇を持て余していた。
「お母様、何か面白いものはありませんか?」
そう言って私の膝へ顎を乗せてきた小さな顔を見て、私は思わず笑ってしまう。
娘は今年で七つになった。
目元はリヒャルトに似ているくせに、表情はころころ変わる。髪を撫でれば素直に甘えてくるのに、納得できないことがあると小さな眉をきゅっと寄せるところなど、嫌になるほど私に似ていた。
美形のお父様に似るのよと、今さらながらの暗示をかけておこう。
「面白いもの、ねぇ」
「雨の日でも遊べるものがいいです」
「ずいぶん細かい注文ね」
「だって今日は本当に退屈なんですもの」
大真面目にそう言うので、私は刺繍枠を置いた。
ちょうどリヒャルトは執務中で、お祖母様は今日は来ていない。母も弟も今日は実家の別邸へ呼ばれて留守だ。静かな午後ではある。
「では、納戸の小箱でも見てみる? 古いリボンや端切れが入っているから、人形の服くらいなら作れるかもしれないわ」
「見たいです!」
娘はぱっと顔を輝かせた。
そのまま侍女を一人つけてやればよかったのだ。
今となっては心からそう思う。
だがその時の私は、まさかあの深緑の手帳が、数年越しに再び牙を剥くなど思いもしなかったのである。
◇
「お母様!」
しばらくして、廊下の向こうから弾んだ声が聞こえた。
私は紅茶に口をつけたところで顔を上げる。勢いよく駆け込んできた娘の手には、見覚えのある深緑の手帳がしっかり握られていた。
私は固まった。
あまりにも自然に、声も出なかった。
「これ、何ですか?」
「……どこで見つけたの」
「納戸の箱の底です。面白そうな本だと思って」
「本じゃないわ」
「でも字が書いてあります」
「書いてあるけど本じゃないの」
娘はきょとんと首を傾げた。
「題もありますよ」
「題」
「はい」
娘は嬉々として表紙を掲げる。
「お見合い被害記録帳」
終わった。
私はゆっくりと息を吸った。
「それはね」
「被害って何ですか?」
「被害は被害よ」
「何があったんですか?」
「色々よ」
「誰が被害に遭ったんですか?」
「私が」
「どうして?」
「どうしてかしらね……」
問いが多い。実に多い。
七つの子どもというのは、どうしてこうも鋭く核心ばかり突いてくるのだろう。
私はどうにか手帳を取り返そうと手を伸ばしたが、娘はさっと後ろへ隠した。
「まだ読んでる途中です」
「読まなくていいの」
「でも面白いですよ」
「面白くないわ」
「前髪が動いたって書いてありました」
「もう読んでる!」
娘はこくりと頷いた。
「風が吹いたら終わるわね、あれは、って」
私は天を仰いだ。
なぜよりによってそこからなのか。
娘は私の反応を見て、ますます目を輝かせる。
「お母様、前髪って乗るものなんですか?」
「乗るものではないわ」
「でも書いてあります」
「乗っていたのよ、たぶん」
「おでこに?」
「ええ」
「不思議ですね」
「本当にね」
私はもう半分、諦めていた。
その時、部屋の扉が開いた。
「何の話ですか」
低い声に振り返ると、仕事を終えたリヒャルトが入ってきたところだった。
私は無言で娘の手元を指した。
彼は深緑の表紙を見て、一瞬だけ目を細める。
「……見つかったのですね」
「お父様、これ知ってるんですか?」
「少しは」
「お母様の被害記録なんですって」
「そうですね」
「どうしてそんなに落ち着いてるんですか!」
私が抗議すると、リヒャルトはごくわずかに口元を緩めた。
「いずれはこうなると思っていました」
「思ってたなら先に隠してくださいよ」
「あなたが大事に取っておくからです」
「黒歴史を大事にしてるみたいに言わないでください」
娘が私とリヒャルトを見比べる。
「黒歴史って何ですか?」
「知らなくていい言葉よ」
「でも知りたいです」
「知るのは十年早いわ」
娘は納得しない顔をしたが、次の瞬間にはもう別の頁を開いていた。
「第六回お見合い。ルイス卿。香水の匂いが強すぎて近づくと頭が痛くなりそう……」
「読まないで!」
「趣味は何ですかと聞いたら、さて何だろうなと返した。この男は本当に十も年上なのですか? ねぇ、お祖母様?」
そこで娘の目がぱちりと上がる。
「ひいお祖母様のことですか?」
「そうよ」
「ひいお祖母様、昔から怖かったんですか?」
「昔から怖かったわね」
答えたのは私ではなかった。
振り返ると、開きかけた扉の向こうにお祖母様が立っていたのである。
今日は来ないはずではなかったのか。
そう思ったが遅い。
「何が怖かったのか、詳しく聞かせてもらいましょうか」
お祖母様は実にいい笑顔で部屋へ入ってきた。
娘は嬉しそうに駆け寄る。
「ひいお祖母様! これ、お母様が昔につけていた記録なんですって!」
「でしょうね」
「知ってたんですか?」
「前に一度、大騒ぎになったから」
娘はますます楽しそうに目を丸くした。
やめて。話を広げないでほしい。
だが、願いは届かなかった。
「お母様、昔はお見合いが嫌だったんですか?」
娘が真っ直ぐに聞いてくる。
私は少しだけ息をついて、手を伸ばした。
「こっちへいらっしゃい」
娘は素直に私のそばへ戻ってくる。私はその肩を抱き寄せた。
「嫌だったわ」
「どうして?」
「変な人や、嫌な人と結婚したくなかったからよ」
「じゃあ結婚そのものが嫌だったんじゃないんですか?」
私は少し目を瞬いた。
小さいのに、案外そこを分けて聞くのか。
「そうね。結婚したくないというより、幸せになれない相手と結婚したくなかったの」
「ふうん」
娘は手帳を見下ろした。
「じゃあ、お父様は嫌じゃなかったんですか?」
その問いに、私が答える前にリヒャルトが口を開いた。
「最初は困られました」
「困ったわよ」
「顔が良い。困る」
娘が手帳を見ながら読み上げる。
私は顔を覆った。
「声も良い。困る」
「お願いだからそこは閉じて」
「話が通じる。もっと困る」
娘は首を傾げた。
「お父様、話が通じると困るんですか?」
「お母様には困ることもあったのでしょう」
落ち着いた顔で言うな、この男は。
お祖母様など、とうとう扇の陰で笑い始めている。
「お母様、変なの」
「変じゃありません」
「でも、嫌な人じゃなくて顔も良くて声も良くて話も通じるなら、いい人ですよね?」
娘の素朴な一撃に、私は返答に詰まった。
「……そうなのよ。だから困ったの」
「どうして?」
「逃げる理由がなくなるでしょう」
娘はしばらく考えてから、なるほど、と小さく頷いた。
その顔が妙に真面目で、私はちょっと笑ってしまう。
すると娘はさらに後ろの頁をめくり、ぴたりと手を止めた。
「お母様」
「何かしら」
「最高の男って書いてあります」
やめてほしい。
本当にやめてほしい。
しかし娘は容赦なく読み上げた。
「お見合いから逃げ回っていたのに、最後に捕まった相手が最高の男だった」
部屋の中が妙に静かになった。
私はもう、どこを向けばいいのかわからない。
お祖母様は口元を押さえているし、リヒャルトはさっきから露骨に機嫌がいい。
娘だけがまっすぐに私を見る。
「お母様」
「……何」
「お父様って最高の男なんですか?」
逃げ道はなかった。
私はふてくされたまま答える。
「そうよ」
「どのへんが?」
「どのへんって……」
そこでちらりとリヒャルトを見る。
彼は落ち着いた顔をしているが、たぶん少し期待している。そういう時だけわかりやすいのが腹立たしい。
「話をちゃんと聞くところとか」
「はい」
「嫌だと言ったことを、わがままだと笑わないところとか」
「えぇ」
「家族を大事にしてくれるところとか」
「えぇ」
「困っている時に勝手に察したふりをしないで、でも放ってもおかないところとか」
「はい」
「甘いものの出しどころが妙に正確なところとか」
「そこ大事なんですね」
「大事よ」
娘は感心したように何度も頷いた。
「なるほど」
「何がなるほどなの」
「わたしも将来は、ちゃんと話が通じて、甘いものの出しどころが上手な人がいいです!」
私は吹き出しそうになった。
隣でお祖母様が、実に満足そうな顔をしている。
「良い心がけだわ」
「ただし」
娘はきりっとした顔で続けた。
「歯に青菜が挟まっている人は嫌です!」
私も、お祖母様も、とうとう声を上げて笑ってしまった。
リヒャルトでさえ、珍しくはっきり笑っている。
「それはそうね」
「あと、使用人に偉そうな人も嫌です」
「そうね」
「前髪が乗ってる人も、たぶん嫌です」
「そうねえ……そこは本人の努力ではどうにもならないこともあるけど……」
「でもお母様も書いてます」
「書いてるけど」
娘は手帳を閉じて、大事そうに胸へ抱えた。
「お母様」
「何かしら」
「嫌なものを嫌って言ってよかったんですね」
その声は、さっきまでの無邪気な調子とは少し違っていた。
私は一瞬だけ息を止める。
ああ、そうか。
この子はただ面白がって読んでいたわけではなく、ちゃんとそこを拾ったのだ。
私は娘の髪を撫でた。
「ええ、言っていいのよ」
「わがままでも?」
「わがままと、本当に無理なことは違うわ」
「難しいです」
「難しいわね」
そこへ、リヒャルトが静かに言葉を継いだ。
「ですが、少なくとも自分が嫌かどうかを、自分でわかろうとするのは大事です」
娘は父を見上げる。
「お父様もそう思いますか?」
「思います。お母様がそうしてくれたから、私は今ここにいます」
その言い方はずるい。
娘がぱあっと笑う。
「じゃあ、この手帳は大事なものなんですね!」
「違います」
「大事です」
私とリヒャルトの声がきれいに重なった。
お祖母様が肩を揺らす。
「夫婦でも、たまには意見が割れるのね」
「たまにはではありません」
「そうですね」
また重なる。今度は腹立たしいほど息が合っていた。
娘はけらけら笑いながら、手帳を私へ差し出した。
「はい、お母様。返します」
「ありがとう」
「でも、捨てちゃ駄目です」
「どうして?」
「だって、わたしが大きくなったらまた読みたいもの」
「困るわ」
「じゃあ、大きくなってお見合いする時に読みます」
「もっと困る!」
部屋がまた笑いに包まれた。
私は深くため息をつきながら、深緑の手帳を胸に抱える。
燃やそうと思ったことは、一度や二度ではない。
けれど結局、今日まで残ってしまった。
若い頃の私の恥も、焦りも、意地も、全部そこに詰まっている。
でも、それを笑ってくれる人たちが今こうして目の前にいるのなら、残っていても悪くないのかもしれない。
「お母様」
娘が私の袖を引いた。
「何?」
「わたし、お父様みたいな人がいいです」
私は一瞬、言葉を失った。
リヒャルトも少しだけ目を見開く。お祖母様は、あらまあという顔で扇を止めた。
娘は無邪気に続ける。
「でも、お父様はお母様のだから、ちゃんと別の人を探します」
そこでとうとう、私は耐えきれず娘を抱きしめた。
「そうしてちょうだい」
「お母様、くるしいです」
「我慢なさい」
「理不尽です」
「そういうところ、本当に私に似てきたわね」
「光栄です」
それはたぶん、リヒャルトの真似だ。
私は笑いながら娘を離し、その髪を整えた。
窓の外ではまだ雨が降っている。
けれど部屋の中は、ひどくあたたかかった。
深緑の手帳はその日も結局、燃やされなかった。
お見合いから逃げ回っていた昔の私が見たら、きっと呆れるだろう。
あんなに必死に拒んで、あんなに文句を並べていたくせに。
その記録帳を娘に読まれ、夫に笑われ、お祖母様にまで面白がられながら。
それでも私は、少しも不幸ではない。
むしろたぶん、あの頃の私がどうしても諦めたくなかったものを、今の私はちゃんと手にしている。
遠回りして、騒いで、意地を張って、それでもここまで来た。
そう思うと、この手帳さえ少しだけ愛おしく思えた。
読んでくださり、ありがとうございました。
もし少しでも楽しんでいただけましたら⭐︎やブクマで応援していただけると嬉しいです。
☆☆☆☆☆→★★★★★ (*_ _)人




