序章 ~姫君の憂い~
葡萄酒をひっくり返したような、鮮やかだが深い赤紫色の空が広がる、少し薄暗い世界。その赤紫色の空に浮かぶ漆黒の雲の間を無数に縫うように、大量のコウモリの群れが飛び交う。そして不気味な空の色の大本であるかのように赤い輝きを放つ、ルビーのような真紅の満月が一つ浮かび、目下に広がる荒涼とした大地を燦然と照らしていたのであった。
さて、そんな月に見下ろされる大地の中に一つ、場違いなほど巨大で禍々しさすら感じる存在感を放つ建造物があった。立ち枯れた細い木立や、風化して崩れ落ちそうな神殿を彷彿とさせる朽ちた建物しかないその土地において、その建造物はまさしく摩天楼の城とでもいうのにふさわしかった。石造りで出来ているらしく、その城壁は漆黒の石材が幾重にも規則正しく積み上げられて出来ており、その随所には明かり窓と、弩を放つための空間が開けられていた。内部に入ってみればそこは意外にも快適な空間で、空を映したような真紅のカーペットが入り口から上階部分まで伸びている。上階部分からは左右に階段が伸びているのだが、その踊り場には山羊の顔がついた、しかし胸から下は筋骨隆々の人間という奇妙な石像が設置されている。その階段は右に行けばその城の主との謁見室や会合が行われる公的な空間、左に行けば使用人やこの城の者が住まう私的な空間が広がっている。そして住居空間の最奥部に行くと、今までの貧相な木製の扉とは違う、禍々しい頭蓋骨がアクセサリーのように吊り下げられた、赤い装飾が施された観音開きの扉がある。
いざ入ってみると、その中は一際大きな明かり窓が部屋の片面に開いており、そこからバルコニーが続いているが、その影を落としつつ室内には赤い月光が満遍なく差し込まれてきている。その月光が照らす先には一つだけ、巨大なベッドがまんじりともせず配置されていた。キングサイズというのもはばかられるような、天蓋つきの、いかにも成金趣味といった感じの豪奢なベッドだ。外の重厚な雰囲気とは打って変わった、ミスマッチさすら感じられるほどに煌びやかなその部屋に、ベッドの上に腰かける一人の人影があった。赤い月光に照らされて、壁に伸びる影が映す長い髪のシルエットと線の細い体から、それが女性であることがわかる。しばらくの間それはものも言わず沈黙を続けていたのだが、それは件の扉が叩かれる音によって破られた。
「失礼します、お嬢様」
「うむ」
丁寧な言葉でかけられた言葉は非常に短い言葉で返されたが、それを言われた者はさして気にも留めていない様子で扉を開けて入室してきた。
その入って来た者の髪は金髪で、薄暗い空間の中にいてもわかるほどに瞳は紫色の光を帯びていた。スカートの裾が腿くらいまでしかない、極端に露出の多いメイド服のような服を身に纏っていることからきっと使用人の一人なのだろう。また用心棒でもあるのか、その腰には一本の銀色の細剣が差さっている。しかしてその女性が片手に持っていたのは、トレイに載せられた一本のワインの瓶と、透明なグラスであった。
「晩酌のご用意を致しました。ドルタミナ産のビンテージですわ」
「ご苦労、ペネロペ。といっても、年がら年中こうも薄暗くては、晩酌も何もと言った感じだがの」
栓抜きを使わず、その細い指で簡単にコルク栓を引き抜きながら皮肉っぽく言い放ったのはそのベッドの上の少女であった。その影にも映っている長髪は、ペネロペと呼ばれた従者の剣よりも眩い銀色で大層長く、ベッドの上で川のように渦を巻いている。そして釣り気味の瞳は、夜空に浮かぶ月がそのまま入ったかのような鮮やかな真紅。そして座っているので全体の体躯はよくわからないが、従者ペネロペよりはずっと小さく、それどころか子供のそれであるということは確かであった。そんな子供にしか見えない銀髪の少女は手馴れた様子でグラスにワインを注ぐと、ぐいと一息で飲み干した。
「お嬢様、手酌というのはいただけませんよ」
「ほっとけ」
お嬢様と呼ばれている割には粗野な言い方ではあるが、確かに飲む姿は気品が感じられる。そしてベッドの横のテーブルに空のグラスを置くと、そのままごろりとベッドに横になった。白磁のように白い肌によく生える漆黒のビスチェだけという非常にセクシーな恰好ではあるが、その幼い体型が災いしてかまったく色気は感じられない。その様子をもう見飽きたのか、何も言わないペネロペに、その銀髪の少女が独り言のようにも聞こえる物言いで問いかけた。
「……あ~あ、ヒマじゃのー」
「そうは仰いましてもお嬢様……。只今外はバホメット様が進軍しているため危険です。外であんなにも月が煌々と輝いているのは何よりの証です」
「それじゃ。あのうざったいオヤジがいない今だからこそ好き勝手出来るというのに、お前たちはなーんにもさせてくれやせん。ヒマったらないわ」
拗ねるようにベッドの上で四肢をぱたぱたと振る、非常にだらしない恰好の「お嬢様」を見て、ペネロペは少しだけ悲しそうな顔をした。
「申し訳ありません。バホメット様直々にそう申し付けられているのです。リリスお嬢様に何かあっては、私達使用人全員の首が飛びます」
「……ふん。外では百戦無敗の大魔王、その名を聞いて恐れぬ悪魔はいないなどと聞くが……娘一人もロクに育てられぬネグレクトオヤジなぞ恐るるに足らんわ。私からすればただの息の臭くて無駄にデカいヤギ面のおっさんじゃ」
そう言って身を起こすリリスと呼ばれた少女の長髪の中から、何やら黒いものが一本髪をかき分けて現れる。先端がスペードのような形をしていて、その付け根は臀部の少し上から生えており、呼吸に合わせるように少し動くそれは紛れもなく尻尾である。
「のう、ペネロペ」
銀の髪に真紅の瞳、そして悪魔の尻尾。そんな人外めいた外観の深窓の令嬢イリスは、悪戯っぽく笑いながら従者ペネロペに問いかける。
「こういう時、囚われの姫君は黒馬に乗った貴公子の到来を望むのであろうか。今ならその気持ちがわかるぞ。少しは退屈しのぎにもなりそうじゃ」
「お戯れを。私達がネズミ一匹とて入れませんよ」
「夢のない奴じゃの。大人になるとこうもドライになってしまうのか、あーあ、つまらん奴じゃ」
そう、ここは魔界の中央部。無秩序なる魔界の覇権を握ろうと魔王の名を掲げ、各地大陸を侵略する最強の呼び名を欲しいままにする恐怖の悪魔・バホメットを父に持つ少女……すなわち事実上魔界の姫君であるリリスは今日も退屈そうに、その赤い夜空を見上げていたのであった。




