第二十九話 契約印紙と在庫札
受注明細は十二組あるのに、倉庫の壁へ掛かった在庫札は八枚しか空いていなかった。
同じ窓の下へ並んだ机のあいだで、私は第一便の納品控えと、新しく届いた注文書束を重ねた。風除け板十枚、折り畳み台四台、油皿留め金具十二。共同竈前へ回したぶんは帳面どおりだ。けれど今朝から届いた注文書は、その倍近くある。南回廊の代官所、北西砦の詰所、雪囲い小屋を抱える隣領の出納役。どの紙にも、掲示板へ貼った公開仕様書の文がそのまま写っていた。
ミレイユが別紙を差し出す。
「板はまだ四枚、台は二台しか余っていません。ですが、この三通にはもう『押さえ済み』と返事が出ています」
「誰が返しました」
「北市の木工親方です。昨日のうちに、口約束で」
口約束。帳簿魔法を薄く通すと、受注明細の端が灰色に濁った。同じ台番号を、三枚の紙が引っ張っている。
向かいの机で封書を開けていたレオンハルトが顔を上げた。
「作れば足りるか」
「品だけなら」
私は在庫札の穴へ指を掛けた。
「でも、約束は足りません」
呼んだリゼットは、注文書束を一瞥しただけで肩をすくめた。
「広がるわよ。共同竈前の板はもう評判だもの。北西砦の女房たちまで、鐘のあとに黒パンが売れるって聞きつけてる」
「仕様書が写されるのは構いません」
私は紙束を揃え直す。
「問題は、何をいくつ、どの責任で渡すのかが、紙ごとに揺れていることです」
北棟裏の仮倉庫へ行くと、見本板の背に炭で書かれた行き先がもう三つ増えていた。南回廊、北西砦、河岸南棚。乾いた板肌へ、まだ受領者の決まっていない名だけが先に乗っている。
木工親方は私の顔を見るなり、両手を上げた。
「大公妃様、品は増やせます。ただ、どちらの帳面も『同じ仕様で』『同じ値で』とだけ書いてきまして」
隣で待っていた北西砦付きの書記が、抱えた紙を前へ出す。
「砦では風除け板四枚、折り畳み台二台を急ぎます。ただし割れが出た時は、そちら持ちで替え板を」
今度は南回廊の代官所の出納役が口を挟んだ。
「うちは逆に、金具修繕はそちらへ返送せず、現地で直したい。だが単価は同じにしてもらわねば困る」
同じ仕様書を見ているのに、欲しい責任の置き方だけが違う。
私は見本板の蝶番へ指を当てた。板そのものは青い。曇っているのは、その周りだ。誰の持ち物になるのか。割れた時にどこへ戻るのか。納品された現物が、約束した紙と本当に同じものか。
「品と約束を、別のまま増やしたのがまずかったですね」
私が言うと、リゼットが面白そうに片眉を上げた。
「ようやく次の売り物が見えた?」
私は倉庫の箱から、使っていない厚紙札を一束取った。もともとは兵糧の棚札にするはずだったものだ。そこへ、共同竈前で使った公開仕様書を横に置く。
「見本板は一度きりの品です。けれど、欲しがられているのは板だけではありません」
炭筆で二つの題を置く。
契約印紙。
在庫札。
ミレイユが息を呑んだ。
「印紙、ですか」
「はい。仕様、単価、修繕条件、納品刻限、立会人。この五つを、口約束の前に紙へ縛ります」
私は厚手の紙を一枚引き、欄を分けた。品目。数量。責任。修繕時の負担。受け渡し場所。立会人。返送不要か、返送修繕か。その横へ、同じ通し番号を書く欄を置く。
「そして現物には、別に在庫札をぶら下げます。契約印紙の通し番号と、札の通し番号を揃える。番号のない品は倉庫から出さない。札のない契約は受けない」
レオンハルトが板の背を見た。
「札が空いていなければ、約束も空いていないと分かるわけか」
「ええ。逆も同じです」
私は試しに、契約印紙と在庫札へ同じ番号を振った。甲二九の一。帳簿魔法をそっと通す。紙と札のあいだに、細い青が一筋だけ走った。魔導印ほど強い結びではない。けれど、二重売りと差し替えを止めるには十分だった。
「同じ番号だけ、こうしてつながります。番号の片方が欠ければ、灰色に戻る」
木工親方が目を丸くする。
「じゃあ、品を増やす前に、約束の数を止められる」
「はい。ついでに、仕様書だけ真似して責任だけ曖昧にする買い方も止められます」
その日の昼、評議室の長机へ外から来た二人を座らせた。北西砦の書記と、南回廊の出納役。私は出来上がった見本を中央へ並べる。薄青の糸を漉き込んだ契約印紙。板へ下げる厚紙の在庫札。どちらにも、同じ通し番号欄がある。
「完成品を今すぐ渡せるのは、共同竈前へ出した第一便の余りだけです」
私は先にそう告げた。
「ですが、書式なら売れます。契約印紙二枚組、在庫札六枚組、仕様写し一通、運用見本一葉。これで、現地の職人へ同じ条件を渡せます」
南回廊の出納役が眉を寄せた。
「品ではなく、紙を買えと?」
「紙だけではありません。責任の型です」
私は契約印紙の修繕欄を指で押さえた。
「板割れは木工側、留め金具の外れは板金側、置き方の不備は買い手側。ここを先に分けてから契約する。そのかわり、単価をごまかさない。在庫札でどの板がどの契約に結びつくかも追う」
北西砦の書記が、契約印紙の立会人欄を覗き込む。
「砦の兵でもいいのですか」
「構いません。夜に受ける品なら、むしろ現場の目がいる」
横からリゼットが笑う。
「あんたたちが欲しいのは、ヴァルグレイの板そのものより、揉めない買い方でしょう」
それは否定しづらいらしかった。二人は黙り、見本紙の上を順に追う。仕様の文は同じでも、責任の欄が先に切ってある。それだけで、さっきまで曇っていた顔つきが少し変わった。
「この書式を、領の外へ出していいのか」
問うたのはレオンハルトだった。外の二人へではなく、私へ向けた声だった。
私は答える前に、窓際へ積んだ注文書束を思い出した。もう皆、見様見真似で書き始めている。なら、壊れたまま広がるより、縫い目をつけたほうがいい。
「止めても写されます」
私は契約印紙を持ち上げた。
「なら、最初から帳面の置き場ごと渡したほうがこちらの利益になります。紙代、札代、書写賃、見本代。筆算工房の仕事も増えます」
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて卓上印を私の手元へ寄せた。
「なら、外へ出す帳面はお前が決めろ」
北西砦の書記の指が、そこで止まった。大公の許可だけではない。帳面の決め手が私だと、その場で示されたからだろう。
午後、筆算工房はいつもの売上板より忙しかった。娘たちが三列石板ではなく、契約印紙の通し番号を読み上げる。未亡人たちは仕様写しを一行ずつ写し、ミレイユは責任欄の言い回しを揃える。共同竈前の娘が、在庫札へ甲二九の一、甲二九の二、と書き入れ、その下へ台番号を書くたび、札の穴へ通した麻紐が乾いた音を立てた。
「紙を書くだけで、本当に売れるんですね」
娘が半信半疑の顔で、書き終えた札束を見る。
「売っているのは、揉めない手順です」
私が答えると、横でリゼットがにやりとした。
「いちばん高い品よ。板は割れるけど、手順は次も売れるもの」
夕刻までに、南回廊向けへ契約印紙三組、在庫札十二枚。北西砦向けへ契約印紙二組、在庫札八枚。どちらも完成品の追加発注ではなく、まずは現地調達へ回す書式代で銀貨が落ちた。共同竈前の売り台では、黒パンの未亡人が新しい板の陰で銅貨を受け取りながら、その話を隣の台へ回している。ヴァルグレイの夜市設備が売れたのではない。ヴァルグレイの買い方が売れたのだ。
最後に残った一通だけ、私は別に脇へ置いた。
河岸南棚向け。契約印紙は一組。在庫札六枚。納品刻限、夜半二刻。立会人欄、空欄。
紙の端へ帳簿魔法を通すと、通し番号のところは青いのに、受け渡し場所だけが黒く沈んだ。しかも封に使われた紐から、川泥ではない、濃い松脂の匂いが立つ。雪道の橇荷ではつかない匂いだった。
ガレスがその紙を覗き込み、眉を寄せる。
「河岸路の荷なら、夜半二刻は遅すぎる」
「ええ」
私は在庫札の白い面を指で撫でた。まだ誰の番号も入っていないのに、紙の向こうだけ先に濁っている。
「陸から来る荷受けではありません」
窓の外では、暮れの鐘のあとも共同竈の火が揺れていた。そのさらに向こう、河岸のほうからだけ、冷たい風に混じって油と松脂の匂いが薄く上がる。
私は河岸南棚向けの契約印紙を閉じた。
「今夜、河岸を見ます。帳面を通したくない荷が、水から入っています」




