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3/3

and after

更新3/3


 すぐに寝ると言ったが、歯磨きとメイク落としくらいは許容範囲だろう。

 せめてシャワーも浴びたかったが、半ば無理やりとはいえ約束してしまった以上後ろめたい。

 この辺の融通の利かなさが我ながら不器用だと思いながら、冷蔵庫からペットボトルの水を持って、大人しく三階の自室に向かった。


 一階が店舗、二階三階が居住部分となったこの家の、勾配がやや急な階段をゆっくりと上がる。

 家を出た時のまま残されていた私の部屋は、カーテンなど模様替えをしてすっかり「今の私」に居心地のいい空間。

 ころりとベッドに横になり電気を消すと、細く開けた窓から静かに入り込む風がかすかに波音も運んだ。

 美優に打ち明けたせいだろうか。遼平君の言動は気になるものの、普段より胸が軽い。

 ()()ことは()()こと――そう言って、怖い夢を見て泣いた子どもの私を腕に抱いてあやした母をぼんやり思い出す。

 薄掛けの布団を抱き込むようにして横を向き、そっと瞼を閉じた。


 海の音を聞き続けて暫くが経った頃、玄関に小さく響く鍵の音で兄の帰宅を知る。

 やがて伝わるのは浴室を使う水流の低音、兄の部屋の扉が閉まる振動。

 再び訪れた静寂に暗闇の中で目を瞑り息を吐く。


 寝返りを何度打ったか分からなくなる頃、枕元で着信音が鳴った。

 びくり、と揺れた肩で起き上がり、震える指で音源を引き寄せる。

 明るく光る画面表示は、見慣れた数字の並び――キン、と張り詰める耳の奥を振り払うように、二回大きく息を吐いて通話のアイコンに触れた。


「は、い」

『……東子』


 スピーカー越しに聞こえる声に、渦を巻くように胸が騒めく。


『やっぱり起きてた』

「……寝てたの」


 軽く笑う息で、こんな噓などお見通しだと分かる。

 私にも、隠し事の一つでもできる器用さがあれば、また違ったのだろうか。

 ――どうして。

 ねえ、どうして掛けてくるの。あんな別れ方をしたのに。


「……羽山さん」

『もう名前では呼ばない、か』


 ――呼べるわけがない。


 耳をふさぎたくて、でも声が聴きたくて。

 思い出したように不意にかかってくる夜中の電話を待ってしまう自分が嫌い。


 ちゃんと向き合わなかった私のせいだとも思う。

 でも、それでも、酷い裏切りだった。憎んで恨んでいいはずだ。

 なのに、どうしても――泣きそうな声で、東子(わたし)だけがいればいい、と怖いくらいの力で私を抱いたあの腕が、声が、熱が、すべて噓だったとは思えない。


 強気で前向きなのは外用に作った仮面で、本当はすごく慎重な怖がりだった。

 私の弱いところをよく知っていたのは、自分と同じだったから。

 言い訳一つしないのは全部一人で抱えるあなたの悪い癖。分けてもらえなかった私の力不足……今さら気付くことばかり。


 それでも本当に知りたいことは、きっとこの先も分かる日は来ないと知っている。

 自分では口にしないのに、私にばかり「好き」と言わせたあなたは何を恐れていたのだろう。


『……ごめん』

「っ、謝らないで」


 後悔しているのは、出会ったことを、それとも隠していたことを? 

 どちらにしろ無かったことにはできないのだから、もう遅い。


 私だって、泣いて喚いて別れたくないと縋らなかった。

 本当は、何があったのかなんて分からない。

 きっと私の「本当」とあなたの「本当」は、繋いだ指先の分だけが一緒だった。それも、都合のいい幻かもしれないけれど。


 ――それでも、好きだった。


 彼のことを考えて満たされる胸の内、姿を見るだけで包まれる安心感。

 目が合うと自然に笑顔になるなんて初めてで……不釣り合いだ、彼には似合わないと言われて不安になっても離せなかった。他の誰にも渡したくないと思った。

 あれは、確かに恋だった。


『なあ』

「……うん」


 お互いに話すことは多くない。

 言いかけて、ためらって。

 こぼれる息と自分の鼓動だけがやけに伝わる薄い板は、いつも悲しいくらい無機質に時を刻む。

 交わされるのは言葉というより文字でしかなく、夜のしじまに浮かんでは消える泡のよう。


 決して掴めない。


 スピーカーがかすかに拾った幼い子どもの泣き声に、小さく息を呑む。

 止まらない時間の流れが満ち潮のように寄せた。

 戻れない。

 戻らない。


『――ごめん。これで最後にする……東子、』


 呟くように絞り出されたのは、聞きたかった言葉。

 待ちわびたその一言を、聞き直すことすら拒むように通話が切れる。


 手の中から滑り、ぽすりと綿の海に落ちる黒い画面。

 止まっていた息をぎこちなく吸うと倒れた背中は壁に付いて、ずるずると体が沈む。おかしいくらいに震える両手で顔を覆った。


「……いま、さら……っ」


「好きだ」なんて言われても、もう遅い。

 それでもこれが、あの人からの「さよなら」だ――最後まで私の中に自分を刻んでいくなんて、寂しがりの彼らしい。

 久しぶりに瞳からあふれる熱に身の奥まで溶かされそうで、声を殺した涙は止まらなかった。




 定休日だというのに、いつもの時間に起きて朝から湯舟に浸かった。

 腫れた瞼もむくんだ顔も、熱いシャワーで少しはマシになったはず。

 なにやら用事があるらしい境野家の男二人がそれぞれ出かけるのを見送った後は、何をする気も起きなくて、一人だらだらと部屋で過ごす。

 そうしているうちに午後になり、車の停まる音がすると宣言通りの来客を迎えた。


「……いらっしゃい、って言えばいいのか、本当に来たんだって言えばいいのか」

「何て言われても関係ないけど」

「関係ないんだ?」

「ないね」


 怒っているのか面白がっているのか、声で判別はつかない。

 玄関に立ったままの彼に、行くよ、と言われて首を傾げる。


「どこに?」

「いろんな所」


 ますます分からない。

 そもそも出かけるなんて思ってもいなくて、何の支度もしていない。

 そんな私に遼平君はちょっとだけ気まずそうに話しだした。


「……迷惑か?」

「迷惑っていうか、ええと、なんで?」

「あれから俺のこと避けてただろ」


 自分でも分かるくらい驚いた顔をした私から目を逸らさずに、遼平君は言葉を続けた。


「悪かったと思ってる」

「え、ち、違うよ、私が子どもだったから。あの……私のほうが、ごめんなさい」


 別れを切り出した後さすがに顔を合わせづらくなって、店の手伝いだ、学校の補習だなんだと言い訳をして、遼平君とは会わないように――つまりは、逃げた。

 そうするとますます会いにくくなって、自分が家を出てからは、わざと帰省の時期をずらすほど。

 偶然何度かは顔を合わせたが、それも短時間で数えるくらいしかなかった。


 避けていることを気付かれているかもしれないと薄々思っていたけれど、改めて言われると申し訳なさが募る。

 勝手に避けていたのは私で、遼平君は悪くない。

 なのに目の前の人は首を横に振る。


「卒業してここを離れて関係が切れるのが嫌で、焦ったんだ。告白するより先に、東子ちゃんの気持ちを自分に向かせなきゃいけなかった。別れたいって言われた時も、頷く前にもっと話をしなきゃいけなかった」

「……でも、私」


 遼平くんの視線が一瞬下がる。

 私の、左手に。


「他の誰かと幸せになるならそれでいいって言い聞かせていた。でも、そうでないなら遠慮しない。もう、後悔するのは十分だ」


 その言葉に息を呑む。

 ……そんなことを言われても、昨夜の今日でころんと気持ちの切り替えなんてできない。そんな、電源のオンオフみたいなことはとても。


「いいよ、急がなくて」


 何も言えないでいる私に、一歩だけ近寄る。


「俺といるのは嫌?」

「嫌ってわけじゃ」

「じゃあ、こうされるのは?」


 つ、とそのままの距離を持って伸ばされた手が、昨夜みたいに私の手首を掴む。

 少し骨っぽくて、温度のある指先に慣れてはいない。

 けれども、この手は――


「……嫌じゃ、ない」


 少しの間を置いて出た言葉に、ようやく遼平くんは私にも分かるくらいの笑顔を見せた。

 告白の返事をした日に見たのとよく似たその顔は、あんまり気持ちが伝わってきて思わず頬が熱くなる。


「今はそれで充分。もう焦らないけれど、譲らないから」

「!?」


 なんだ、それはなんだ。

 いったいこの状況は、なんて混乱している間に、なぜか靴を履かされて、繋がれた手を引かれて外にいた。


「一緒に行きたいところもたくさんある。そういう意味では時間が足りないな」

「ちょ、ちょっと待って、いったいどこに」

「まずは食事」


 腕時計をちらと確かめた遼平君に、助手席へと促される。


「ぎりぎりランチに間に合う。行きたいって言っていただろう」


 遼平君が口にしたのは、何かの折に兄に話したことがある店。


「裕一とおじさんの許可は取っているから」

「は、ええぇっ?」


 驚いているうちに手際よくシートベルトは装着されて、アクセルが踏まれる。


「まあ、間に合わなかったらまた行けばいい」

「……もう」


 バックミラーに映る自分は戸惑った顔で笑っていた。

 そんな私と鏡越しに目が合って、満足そうに微笑まれてしまう。

 気恥ずかしくて顔を外に向けると、車はちょうど海岸通りに出たところだった。


「窓、開けていい?」


 誤魔化すようにウィンドウを下げると、午後の光に反射した波がきらきらと眩しい。

 海面の揺らぎも、寄せて返す波も止むことはない。

 普段と変わらず髪を揺らし、頬を撫でる潮風に目を細めた。


 ……砂浜が、少しずつ海に戻っていくように。

 今はまだ波音にまじるあの人の声も、この胸に残る痛みも、きっといつか私の中に溶けて消えていくのだろう。


 揺れる水面に貝殻のように耳を澄ます。

 少しだけ、昨日よりも息がしやすい気がした。



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