生まれる
第一話 生まれる
「おぎゃああああっ!」
生まれて初めて、自分の声に驚いた。
甲高い。
情けない。
それに、妙に近い。
耳元で聞こえたのではない。
声が出るたび、俺の喉が震えている。
「おぎゃっ……」
試しに口を閉じようとした。
閉じられない。
舌も、唇も、まるで言うことを聞かなかった。
何だ、これは。
頭がぼんやりする。
身体も重い。
いや。
重いというより、動かし方が分からない。
右腕を上げようとした。
上がらなかった。
右肩を撃たれたからか。
そう思った瞬間、途切れていた記憶が戻ってきた。
砕け散る風防。
頬を打つ風。
赤い曳光弾。
そして、右肩を貫いた焼けるような衝撃。
「ぐっ!」
操縦桿を握っていた右手から、力が抜けた。
愛機の零戦が大きく傾く。
空と海が入れ替わった。
高度計の針が、猛烈な勢いで落ちていく。
海面が迫る。
二千。
千。
五百。
まだだ。
ここで無理に機首を起こせば、機体がもたない。
三百。
俺は歯を食いしばり、操縦桿を引いた。
零戦が軋む。
身体が座席へ押しつけられ、視界の端が暗くなる。
機首がゆっくりと上がった。
海面すれすれ。
波が見えた。
助かった。
そう思ったのも束の間だった。
エンジンの音がおかしい。
プロペラの回転も落ちている。
このままでは飛び続けられない。
左前方に、小さな島が見えた。
中央に草地がある。
あそこしかない。
俺は零戦の機首を島へ向けた。
脚を下ろす余裕はなかった。
速度を落とす。
機首をわずかに上げる。
機体の腹が草地へ触れた。
激しい振動。
轟音。
零戦が跳ねた。
地面へ叩きつけられる。
視界が大きく傾いた。
そこで。
記憶は途切れている。
◇
「おぎゃああああっ!」
また、あの声が出た。
どうやら夢ではないらしい。
俺は島へ不時着した。
その衝撃で、頭を打ったのかもしれない。
だが、それにしてもおかしい。
油の匂いがない。
焼けた金属の臭いもない。
炎の音も、軋む機体の音も聞こえない。
代わりに、誰かの声が聞こえる。
女の声だった。
何を言っているのか分からない。
英語ではない。
聞いたことのない言葉だ。
捕虜になったのか。
いや。
それなら、なぜ俺は泣いている。
身体を起こそうとした。
首に力を入れる。
持ち上がらない。
右肩の傷だけではない。
左腕も、両脚も、まともに動かなかった。
全身をやられたのか。
俺はもう一度、右手へ力を込めた。
視界の端で、何かが小さく動いた。
手だった。
丸く、柔らかく、信じられないほど小さい。
俺の手ではない。
そう思った。
だが、指を動かそうとすると、その小さな手の指がゆっくりと曲がった。
待て。
俺は目を凝らした。
視界がぼやけている。
それでも分かる。
五本の指。
小さな掌。
手首には、皺が寄っている。
どう見ても、大人の手ではなかった。
何だ、これは。
もう片方の手も動かした。
同じだった。
嫌な予感がした。
自分の身体を見ようと、懸命に顎を引く。
見えたのは、丸い腹と、短い脚。
そのとき。
身体が、ふわりと浮いた。
一瞬、機体が持ち上がったのかと思った。
だが違う。
誰かに抱き上げられている。
大きな手が、俺の身体を支えていた。
大きいのではない。
俺が小さいのだ。
ぼやけた視界の向こうに、女の顔が近づいてきた。
汗で濡れた髪。
白い肌。
涙を浮かべた瞳。
女は俺を見つめ、安心したように微笑んでいる。
知らない女だった。
髪の色も違う。
瞳の色も違う。
それなのに。
その目元が。
微笑み方が。
あまりにも、母に似ていた。
母さん。
そう呼ぼうとした。
「おぎゃあ……」
また、泣き声になった。
女は嬉しそうに笑い、俺を胸へ抱き寄せた。
柔らかな温もり。
懐かしい匂い。
その腕の中で、俺はようやく理解した。
ここは操縦席ではない。
野戦病院でもない。
俺の手足は小さく、声は赤ん坊のものになっている。
何が起きたのかは分からない。
なぜ、こんなことになったのかも分からない。
ただ一つ。
零戦の操縦桿を握っていたはずの俺が、今は知らない女の腕の中で産声を上げている。
それだけは、認めるしかなかった。




