幕間:夕食のメニュー
アラビア海を航行する極東支部の移動拠点——洋上ヘリ空母。
その船体深部に位置する大食堂は、昼夜を問わず稼働する財団職員たちの胃袋を満たすため、常に肉の焼ける匂いと食器の触れ合う音に満ちていた。
時刻は深夜二時を回っていたが、食堂にはまばらに人がいた。
世界が崩壊し、陸地から逃れてきたばかりの職員たちは、眠るよりも温かい食事とコーヒーを求めていた。
ジャックはプラスチック製のトレイに山盛りのマッシュポテトと、正体不明の肉の煮込み、そしてブラックコーヒーを乗せ、部屋の隅にある円卓へと向かった。
そこにはすでに二人の先客がいた。
一人は、軍服の上にコートを羽織った極東支部長、ヴィクター・ヴァンス。彼は葉巻を咥えたまま、タブレット端末で報告書に目を通している。
食堂は禁煙だが、彼に注意できる人間はこの船にはいない。
もう一人は、ジャックと共に中東の地獄から帰還した本部直轄の強襲班員、クロエ・ナギだった。彼女はトレイに乗せたサラダを、フォークの先で気怠そうにつついている。
そして——クロエの隣には、銀色に近い淡い青髪の少女が、所在なげに座っていた。
「お疲れさん」
ジャックが席に着くと、クロエがわずかに視線を上げた。
「遅かったわね。その山盛りのマッシュポテト、本気で食べる気?」
「本気だとも。あの地獄を走り抜けたんだ、カロリーを摂取しないと死ぬ」
ジャックはスプーンを手に取り、ポテトを口に運んだ。味はしないが、温かさだけは胃の腑に落ちていく。
ジャックは隣の少女——セレンに目を向けた。彼女のトレイには、薄いコンソメスープと小さなパンが乗っているが、手はつけられていなかった。
「食わないのか?」
ジャックが尋ねると、セレンは無言のまま、首を横に振った。
「無理もないわよ」
クロエがため息をついた。
「隔離室から出されたと思ったら、こんな騒がしい場所に連れてこられたんだから。医療班の報告書を見た? この子、固形物を受け付けないらしいわ」
「だからって、水だけじゃ持たないだろ」
ジャックは自分のトレイから、手をつけていないクラッカーを一つ取り、セレンの皿に置いた。
「食え。世界が終わっても、腹は減る」
セレンはクラッカーとジャックの顔を交互に見比べたが、やはり手を伸ばそうとはしなかった。
その様子を、タブレット越しにヴィクターが静かに観察していた。
「ジャック」
ヴィクターが葉巻を灰皿に押し付け、口を開いた。
「管理部からの報告書を読んだ。お前、対象に『名前』を付けたそうだな」
その言葉に、クロエのフォークが止まった。
「……名前? Artifactに?」
クロエは信じられないという顔でジャックを見た。
「あなた、規則違反を平気でやるタイプ? 財団の人間は『保護対象への感情移入』を一番嫌うはずでしょ」
「いつも通りさ」
ジャックは煮込み肉を噛み砕きながら、平然と答えた。
「あんなに小さくて震えてる相手を、『Artifact-1865-b』なんて舌を噛みそうな番号で呼ぶのは、俺の性分じゃない。それに、戦闘中に番号で呼んでたら指示が遅れる」
「言い訳だな」
ヴィクターが低く笑った。
「お前は昔からそうだ。十年前、施設の裏で野良犬を拾ってきた時も、すぐに名前をつけた。アリシアが随分と喜んでいたな」
「……犬とセレンは違いますよ、ボス」
「同じだ。お前は、自分が管理するものを『道具』として割り切れない。それは財団の警備班長としては致命的な欠陥だ」
ヴィクターの言葉は厳しかったが、その声色にはどこか、息子を窘める父親のような響きがあった。
クロエは少しだけ表情を緩め、セレンの髪に目をやった。
「……セレン、か。月の女神。悪くない名前じゃない」
クロエは自分のトレイから、未開封のフルーツゼリーのカップを取り出し、セレンの前に置いた。
「甘いものはどう? これなら食べられるんじゃない?」
セレンはフルーツゼリーを見つめた。
そして、ゆっくりと手を伸ばし、カップを手に取った。しかし、開け方が分からないのか、蓋のフィルムを指先でなぞるだけだった。
ジャックが手を伸ばし、フィルムを剥がしてやる。
「ほら。スプーンで食うんだ」
セレンはジャックからスプーンを受け取り、おずおずとゼリーをすくい、口に運んだ。
その瞬間、彼女の瞳がわずかに見開かれた。
無表情だった顔に、ほんの微かな——本当に微かな——驚きのようなものが浮かんだ。彼女はもう一口、そしてもう一口と、ゼリーを口に運んでいく。
「……食べるじゃない」
クロエが少しだけ得意げに笑った。
「記録課の連中にも見せてやりたいわね。この子が『Artifact』じゃなくて、ただの腹を空かせた子供だってことを」
「余計なことは言うなよ、クロエ」
ジャックはコーヒーをすすった。
「あいつらは、この子が泣こうが笑おうが、番号でしか呼ばない。それが財団だ」
「お前たちは、財団という組織をどう思っている?」
不意に、ヴィクターが問いかけた。
ジャックとクロエは顔を見合わせた。
「どうって……俺の家みたいなもんです」
ジャックが答える。
「狂ってるし、冷酷だし、ろくでもない組織ですが、俺とアリシアを拾って育ててくれた。だから、俺は財団の命令に従う。それだけです」
「私は違うわ」
クロエは即座に言った。
「私は、財団のやり方が正しいとは思っていない。民間人を見捨てて、遺物だけを保護するなんて狂ってる。でも、今の世界で生き残るには、この船に乗るしかなかった。だから従っているだけよ」
ヴィクターは二人の答えを聞き、再び葉巻に火を点けた。
「……それでいい」
紫煙を吐き出しながら、ヴィクターは静かに言った。
「組織を信じすぎるな。だが、組織を利用することは覚えろ。お前たちが守りたいものを守るためには、財団という『殻』が必要になる時が必ず来る」
「ボス?」
ジャックが怪訝そうな顔をした。ヴィクターの言葉は、まるで財団そのものを外部から見ているような、奇妙な響きがあった。
「なんでもない。ただの年寄りの独り言だ」
ヴィクターはタブレットを閉じ、立ち上がった。
「私は艦橋に戻る。お前たちは、少しでも寝ておけ。孤島(Artifact-1453)に着けば、また忙しくなるぞ」
ヴィクターは踵を返し、食堂の出口へと向かっていった。
残された円卓には、わずかな沈黙が降りた。
ジャックは残りのマッシュポテトを平らげ、クロエはコーヒーを口に運んだ。
ふと、ジャックは視線を感じて顔を上げた。
セレンが、空になったゼリーのカップを持ったまま、じっとジャックを見つめていた。その瞳は、暗闇の中でわずかに青く光っているように見えた。
「なんだ? 足りなかったか?」
ジャックが尋ねると、セレンは小さく首を横に振った。
そして、彼女は初めて——本当に初めて——その唇を動かした。
「……ジャック」
かすれた、鈴の音のような声だった。
ジャックの手からスプーンが滑り落ち、カチンと音を立ててトレイに転がった。クロエも驚いたようにセレンを見つめている。
「……お前、喋れるのか?」
ジャックが身を乗り出すと、セレンはもう一度、はっきりとその名を口にした。
「ジャック。……セレン」
彼女は自分の胸に手を当て、次にジャックを指差した。
それは、彼女が「名前」という概念を理解し、自分と他者を認識した瞬間だった。
ジャックはしばらく呆然としていたが、やがて小さく息を吐き、笑みをこぼした。
「ああ。俺がジャックで、お前がセレンだ。……よろしくな」
セレンは何も答えなかった。ただ、スプーンを置いて、静かに頷いた。
それだけのことだったが、ジャックは「あいつが人間を見る目になった」と感じた。
世界が終わった夜の海で、彼らは確かに、一つの「繋がり」を持ったのだった。




