表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/17

幕間:夕食のメニュー


 アラビア海を航行する極東支部の移動拠点——洋上ヘリ空母。


 その船体深部に位置する大食堂は、昼夜を問わず稼働する財団職員たちの胃袋を満たすため、常に肉の焼ける匂いと食器の触れ合う音に満ちていた。


 時刻は深夜二時を回っていたが、食堂にはまばらに人がいた。


 世界が崩壊し、陸地から逃れてきたばかりの職員たちは、眠るよりも温かい食事とコーヒーを求めていた。


 ジャックはプラスチック製のトレイに山盛りのマッシュポテトと、正体不明の肉の煮込み、そしてブラックコーヒーを乗せ、部屋の隅にある円卓へと向かった。


 そこにはすでに二人の先客がいた。


 一人は、軍服の上にコートを羽織った極東支部長、ヴィクター・ヴァンス。彼は葉巻を咥えたまま、タブレット端末で報告書に目を通している。


 食堂は禁煙だが、彼に注意できる人間はこの船にはいない。


 もう一人は、ジャックと共に中東の地獄から帰還した本部直轄の強襲班員、クロエ・ナギだった。彼女はトレイに乗せたサラダを、フォークの先で気怠そうにつついている。


 そして——クロエの隣には、銀色に近い淡い青髪の少女が、所在なげに座っていた。


「お疲れさん」


 ジャックが席に着くと、クロエがわずかに視線を上げた。


「遅かったわね。その山盛りのマッシュポテト、本気で食べる気?」


「本気だとも。あの地獄を走り抜けたんだ、カロリーを摂取しないと死ぬ」


 ジャックはスプーンを手に取り、ポテトを口に運んだ。味はしないが、温かさだけは胃の腑に落ちていく。



 ジャックは隣の少女——セレンに目を向けた。彼女のトレイには、薄いコンソメスープと小さなパンが乗っているが、手はつけられていなかった。


 「食わないのか?」


 ジャックが尋ねると、セレンは無言のまま、首を横に振った。


 「無理もないわよ」


 クロエがため息をついた。


 「隔離室から出されたと思ったら、こんな騒がしい場所に連れてこられたんだから。医療班の報告書を見た? この子、固形物を受け付けないらしいわ」


 「だからって、水だけじゃ持たないだろ」


 ジャックは自分のトレイから、手をつけていないクラッカーを一つ取り、セレンの皿に置いた。


 「食え。世界が終わっても、腹は減る」



 セレンはクラッカーとジャックの顔を交互に見比べたが、やはり手を伸ばそうとはしなかった。


 その様子を、タブレット越しにヴィクターが静かに観察していた。


 「ジャック」


 ヴィクターが葉巻を灰皿に押し付け、口を開いた。


 「管理部からの報告書を読んだ。お前、対象に『名前』を付けたそうだな」


 その言葉に、クロエのフォークが止まった。


 「……名前? Artifactに?」


 クロエは信じられないという顔でジャックを見た。


 「あなた、規則違反を平気でやるタイプ? 財団の人間は『保護対象への感情移入』を一番嫌うはずでしょ」


 「いつも通りさ」


 ジャックは煮込み肉を噛み砕きながら、平然と答えた。


 「あんなに小さくて震えてる相手を、『Artifact-1865-b』なんて舌を噛みそうな番号で呼ぶのは、俺の性分じゃない。それに、戦闘中に番号で呼んでたら指示が遅れる」


「言い訳だな」


 ヴィクターが低く笑った。


 「お前は昔からそうだ。十年前、施設の裏で野良犬を拾ってきた時も、すぐに名前をつけた。アリシアが随分と喜んでいたな」


 「……犬とセレンは違いますよ、ボス」


 「同じだ。お前は、自分が管理するものを『道具』として割り切れない。それは財団の警備班長としては致命的な欠陥だ」


 ヴィクターの言葉は厳しかったが、その声色にはどこか、息子を窘める父親のような響きがあった。


 クロエは少しだけ表情を緩め、セレンの髪に目をやった。


 「……セレン、か。月の女神。悪くない名前じゃない」


 クロエは自分のトレイから、未開封のフルーツゼリーのカップを取り出し、セレンの前に置いた。

「甘いものはどう? これなら食べられるんじゃない?」


 セレンはフルーツゼリーを見つめた。


 そして、ゆっくりと手を伸ばし、カップを手に取った。しかし、開け方が分からないのか、蓋のフィルムを指先でなぞるだけだった。


 ジャックが手を伸ばし、フィルムを剥がしてやる。


 「ほら。スプーンで食うんだ」


 セレンはジャックからスプーンを受け取り、おずおずとゼリーをすくい、口に運んだ。


 その瞬間、彼女の瞳がわずかに見開かれた。


 無表情だった顔に、ほんの微かな——本当に微かな——驚きのようなものが浮かんだ。彼女はもう一口、そしてもう一口と、ゼリーを口に運んでいく。


 「……食べるじゃない」


 クロエが少しだけ得意げに笑った。


 「記録課の連中にも見せてやりたいわね。この子が『Artifact』じゃなくて、ただの腹を空かせた子供だってことを」


 「余計なことは言うなよ、クロエ」


 ジャックはコーヒーをすすった。

 

 「あいつらは、この子が泣こうが笑おうが、番号でしか呼ばない。それが財団だ」


 「お前たちは、財団という組織をどう思っている?」


 不意に、ヴィクターが問いかけた。


 ジャックとクロエは顔を見合わせた。


 「どうって……俺の家みたいなもんです」


 ジャックが答える。


 「狂ってるし、冷酷だし、ろくでもない組織ですが、俺とアリシアを拾って育ててくれた。だから、俺は財団の命令に従う。それだけです」


 「私は違うわ」


 クロエは即座に言った。


 「私は、財団のやり方が正しいとは思っていない。民間人を見捨てて、遺物だけを保護するなんて狂ってる。でも、今の世界で生き残るには、この船に乗るしかなかった。だから従っているだけよ」



 ヴィクターは二人の答えを聞き、再び葉巻に火を点けた。


 「……それでいい」


 紫煙を吐き出しながら、ヴィクターは静かに言った。


 「組織を信じすぎるな。だが、組織を利用することは覚えろ。お前たちが守りたいものを守るためには、財団という『殻』が必要になる時が必ず来る」


 「ボス?」


 ジャックが怪訝そうな顔をした。ヴィクターの言葉は、まるで財団そのものを外部から見ているような、奇妙な響きがあった。



 「なんでもない。ただの年寄りの独り言だ」


 ヴィクターはタブレットを閉じ、立ち上がった。


 「私は艦橋に戻る。お前たちは、少しでも寝ておけ。孤島(Artifact-1453)に着けば、また忙しくなるぞ」


 ヴィクターは踵を返し、食堂の出口へと向かっていった。


 残された円卓には、わずかな沈黙が降りた。


 ジャックは残りのマッシュポテトを平らげ、クロエはコーヒーを口に運んだ。


 ふと、ジャックは視線を感じて顔を上げた。


 セレンが、空になったゼリーのカップを持ったまま、じっとジャックを見つめていた。その瞳は、暗闇の中でわずかに青く光っているように見えた。



 「なんだ? 足りなかったか?」


 ジャックが尋ねると、セレンは小さく首を横に振った。


 そして、彼女は初めて——本当に初めて——その唇を動かした。


 「……ジャック」


 かすれた、鈴の音のような声だった。


 ジャックの手からスプーンが滑り落ち、カチンと音を立ててトレイに転がった。クロエも驚いたようにセレンを見つめている。


 「……お前、喋れるのか?」


 ジャックが身を乗り出すと、セレンはもう一度、はっきりとその名を口にした。


 「ジャック。……セレン」


 彼女は自分の胸に手を当て、次にジャックを指差した。



 それは、彼女が「名前」という概念を理解し、自分と他者を認識した瞬間だった。


 ジャックはしばらく呆然としていたが、やがて小さく息を吐き、笑みをこぼした。


 「ああ。俺がジャックで、お前がセレンだ。……よろしくな」



 セレンは何も答えなかった。ただ、スプーンを置いて、静かに頷いた。


 それだけのことだったが、ジャックは「あいつが人間を見る目になった」と感じた。


 世界が終わった夜の海で、彼らは確かに、一つの「繋がり」を持ったのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ