モニター越しの約束と、父の命令
太平洋の孤島(Artifact-1453)の地下深く、極東支部の通信室。
分厚い防音扉で閉ざされた薄暗い部屋の中で、ジャックはパイプ椅子に腰掛け、正面の大型モニターをじっと見つめていた。
モニターの画面には、幾重にもかけられた大西洋本部の暗号化プロトコルが解除されていく緑色の文字列が、滝のように流れている。やがてノイズが晴れ、一つの映像が浮かび上がった。
『——お兄ちゃん? 聞こえる?』
スピーカーから、少しノイズ混じりの、しかし鈴を転がすような澄んだ声が響いた。
画面に映し出されたのは、真っ白な壁と無機質な医療機器に囲まれた「無菌室」だった。その中央に置かれたベッドに、淡い金糸のような髪を長く伸ばした少女が座っている。
ジャックのたった一人の家族であり、大西洋本部の医療施設に保護という名目で軟禁されている妹——アリシア・ヴァンスだった。
「ああ、聞こえてるよ。映像もクリアだ」
ジャックは無意識に姿勢を正し、マイクに向かってできるだけ明るい声を作った。
「顔色、少し良くなったんじゃないか?」
『うん。最近、新しい栄養剤の点滴に変わったから。……でも、お兄ちゃんは少し痩せた? それに、なんだか顔が泥んこみたい』
アリシアがモニター越しに、心配そうに首を傾げる。
ジャックは慌てて自分の頬を袖で擦った。ハルのラボで埃まみれの石板を片付けていたせいで、顔に汚れがこびりついていたのだ。
「ああ、これはただの土埃だよ。最近、遺跡の発掘作業を手伝わされててな。スコップ片手に宝探しさ」
『前線(FOB)の指揮官から、発掘作業員に配置転換? またボスの言うことを聞かずに、無茶なことしたんでしょ』
アリシアはクスクスと笑った。彼女は昔から、ジャックの嘘や誤魔化しを見抜くのが得意だった。
「人聞きの悪いことを言うな。俺はいつだって財団の優等生だぞ」
『嘘ばっかり。昔、中東の施設にいた時だってそうだったじゃない。ボスに内緒で野良犬を拾ってきて、私のベッドの下に隠してたこと、忘れたの?』
「……おいおい、何年前の話だよ」
ジャックは思わず頭を掻いた。
『あの時、ボスに見つかって大目玉を食らったのに、お兄ちゃん、「この犬はArtifactの警備に必要不可欠な戦力だ」なんて適当な言い訳をしてたわよね。ボス、呆れて葉巻を落としてたわ』
「結果的に、あの犬は立派な番犬になっただろ。俺の先見の明だ」
『ふふっ、そうね。……お兄ちゃんは昔から、自分のことより、自分より弱いもののために無茶をするから』
アリシアの笑顔が、ふと寂しそうなものに変わった。
『……ねえ、お兄ちゃん。本当は、すごく危険な場所にいるんじゃないの?』
彼女の視線が、モニター越しにジャックの心の奥を見透かそうとする。
パンデミックで世界が崩壊し、極東支部が未知の異世界(帝国世界)へ進出していることは、本部にいるアリシアの耳にも断片的に入っているはずだ。
大西洋のパトロン会議が、極東支部の動向を彼女に意図的に漏らしている可能性すらある。
ジャックの脳裏に、ジェイソンの首を貫いたクロスボウの矢や、シェリダンの砲撃で挽肉に変わった帝国兵の姿、そしてアリアの無邪気な笑顔がフラッシュバックする。
だが、彼はそのすべてを心の奥底に押し込め、いつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、アリシア。お兄ちゃんは大丈夫だ」
ジャックはモニターに向かって、ゆっくりと、力強く頷いた。
「今は本当に、安全な後方で遺跡の掃除をしてるだけだ。前線の連中は優秀だし、危ない橋は渡ってない。……お前が安心して外の世界に出られるように、俺が必ず安全な場所(新天地)を確保する。だから、お前は自分の治療のことだけを考えていればいい」
『……うん。わかった』
アリシアは少しだけ目を伏せ、そして再び顔を上げた。
『無理だけはしないでね。お兄ちゃんに何かあったら、私……』
「馬鹿言え。俺を殺せる奴なんて、この世界にも、あの門の向こうにもいやしないさ。……時間だ。また連絡する」
『うん。またね、お兄ちゃん。ボスにもよろしく伝えて』
通信が切れ、モニターが黒く暗転する。
ジャックは無言のまま、自分の顔が映り込んでいる黒い画面を数秒間見つめ、そしてパイプ椅子の背もたれに深く体重を預けた。
「……嘘つきが板についてきたな、俺も」
自嘲気味に呟いた声は、防音室の壁に吸い込まれて消えた。
大西洋本部のパトロン会議は、アリシアの治療環境を人質にして、極東支部を意のままに操ろうとしている。
もしジャックが命令に背き、あるいは異世界で戦死すれば、莫大なコストのかかる彼女への医療支援は即座に打ち切られるだろう。
彼が財団の理不尽な命令に従い、血に塗れた戦場に立ち続ける理由は、人類の存続でも財団の理念でもない。あの無菌室で笑う妹の命を繋ぐためだけだった。
ジャックは小さく息を吐き、立ち上がって通信室を後にした。
* * *
通信室のある地下区画からエレベーターで上がり、ボスの執務室へと向かう。
分厚いマホガニーの扉をノックすると、「入れ」という低くしゃがれた声が返ってきた。
執務室の中は、相変わらずキューバ産葉巻の紫煙と、かすかなバーボンの香りに満ちていた。
ヴィクター・ヴァンスは巨大なマホガニーのデスクの奥、革張りの重役椅子に深く腰掛け、手元のタブレット端末に目を通していた。
「……通信は終わったか」
ヴィクターは画面から目を離さず、短く尋ねた。
「ええ。手配していただき、感謝します。親父殿」
ジャックはデスクの前に立ち、皮肉めいた敬礼をして見せた。
「アリシアの様子はどうだった? 相変わらず、お前の小言ばかり言っていたか」
ヴィクターがタブレットを置き、葉巻を灰皿に休ませながら、ふと「不器用な父親」の顔を覗かせた。
「俺の小言ならまだマシですよ。昔、俺が拾ってきた犬のことで、あんたが葉巻を落とした間抜けな顔を笑い話にしてましたよ」
「……ふん。あの犬のせいで、私の軍服がどれだけ毛だらけになったか、おまえらは分かっとらん」
ヴィクターは鼻を鳴らしたが、その目尻は微かに下がっていた。
「顔色は悪くなかった。点滴が変わったと言ってました。本部の連中も、俺たちが大人しく働いているうちは、生かさず殺さずで面倒を見てくれるらしい」
「そうか。……ならいい」
ヴィクターは短く頷き、グラスに残っていたバーボンを飲み干した。
そして、ふっと部屋の空気が変わった。
ヴィクターが「父親」の顔から、極東支部長としての「司令官」の顔へと戻ったのだ。
「さて、ジャック。お前の謹慎処分は今日で終わりだ。ハルのラボの片付けは十分に堪能しただろう」
「やっとですか。これ以上あいつのオタク話を聞かされたら、俺の脳みそが古代ラテン語に汚染されるところでしたよ」
ジャックは肩を回し、首の骨をポキリと鳴らした。
「で、いつFOB(前線)に戻ればいいんです? クロエの奴が、烏合の衆の相手でヒステリーを起こしてないか心配でね。そろそろ俺が顔を出して、たるんだ空気を引き締めてやらないと」
ジャックが軽口を叩きながら尋ねると、ヴィクターは静かに首を振った。
「お前をFOBには戻さない」
「……は?」
ジャックの肩を回す手が、ピタリと止まった。
「どういう意味です? 帝国の数万の討伐軍が、あと一ヶ月もすればFOBに到達するんですよ。クロエ一人にあの防衛線を任せる気ですか?」
「クロエには十分な指揮能力がある。それに、防衛戦の主力はあくまで旧軍の混成部隊とシェリダン戦車だ。帝国の大軍を正面から受け止める『金床』の役割は、彼女に任せる」
ヴィクターはデスクの引き出しから、極秘の赤いスタンプが押された一枚の紙のファイルを取り出し、ジャックの前に滑らせた。
「お前には、別の任務を与える」
ヴィクターの冷徹な声が、執務室に響いた。




