EP 1
消えた空と、金曜日のカレーライス
海上自衛隊、出雲艦隊打撃軍・旗艦『いずも』CIC(戦闘指揮所)。
電子機器の明滅が照らし出す薄暗い室内に、似つかわしくないスパイシーな香りが漂っていた。
「総司令。私の分の福神漬け、勝手に取らないでください。時給引きますよ」
オーバーサイズのパーカーに身を包んだ特A級AIエンジニア、早乙女蘭が、不満げにプラスチックのスプーンを揺らした。彼女のデスク周りには、機密機器の隙間を縫うように高級チョコレートの包み紙が散乱している。
「うるせえ。脳みそばかり使ってないで、少しは塩分も摂れ」
出雲艦隊総司令官、坂上真一海将補は、悪びれる様子もなく自身のプレートに赤い漬物を移した。
時刻は金曜日の正午過ぎ。海上自衛隊の魂とも言える「金曜カレー」の時間だ。暴走族の総長から提督へと上り詰めたこの男にとって、海の上で食うカレーは絶対のルーティンだった。
「……そもそも、月給3億の契約に『むさいオッサンと薄暗い部屋でカレーを食べる義務』は含まれてないんですけど」
「文句があるなら降りろ。東京湾の海水を泳いでな」
真一はポケットからコーヒーキャンディを取り出し、蘭のデスクへ乱暴に放り投げた。蘭はチッと舌打ちしながらも、それを受け取って口に放り込む。
同じ頃、陸上自衛隊・練馬駐屯地の食堂。
第1師団所属の1等陸尉、坂上信長は、山盛りの白米にこれでもかと豚肉が乗った特製肉カレーを掻き込んでいた。
「くぅ〜っ、やっぱ金曜はこれに限るな!」
周囲の隊員たちがドン引きするほどの食べっぷりだ。父である真一に叩き込まれた北辰一刀流の剣術と、甲子園4番打者の規格外の筋肉は、莫大なカロリーを要求する。
(海自なんかに行かなくて大正解だったぜ。今頃、あの親父の艦に乗ってたら、食後ソッコーで木刀でボコボコにされてるからな……)
信長は恐怖の提督の顔を脳裏から振り払い、美味い肉に全集中した。
そして、永田町の議員会館。
与党幹事長にして政界のフィクサー、若林幸隆の執務室にも、カレーの匂いが満ちていた。
「若林先生、午後の予算委員会の資料ですが」
「後にしてくれ。今はカレーと……こいつの時間だ」
若林はスプーンを置き、胸ポケットから『ピース』を取り出して火を点けた。紫煙を深く吸い込み、東京のビル群を見下ろす。
防衛大臣時代に海自の風習に感化されて以来、彼もまた金曜の昼はカレーと決めている。政治という先の見えない盤面を動かすには、こうした日常の楔が必要だった。
「さて、午後は少し野党を突っついてやるか……」
若林がニヤリと笑った、その瞬間だった。
——グラァッ!!!
かつて誰も経験したことのない、次元の底から突き上げるような異質な揺れが日本を襲った。
ガラスが鳴り、警報が鳴り響く。
「なんだ!? 地震か!?」
練馬の食堂で信長が立ち上がり、永田町で若林が葉巻を落とした。
いずものCICでは、真一が即座に手すりを掴み、蘭がキーボードにしがみつく。
だが、それはただの地震ではなかった。
次の瞬間、窓の外の景色が、いや、世界そのものが**「眩いほどの白光」**に飲み込まれたのだ。
音も、重力も、時間さえもが一瞬消失したかのような、圧倒的な空白。
それが数秒続いた後、ふっと光が収まった。
「……被害状況を報告しろ!!」
真一の怒声がCICに響き渡る。非常用電源の赤いランプが、不気味に室内を照らし出していた。
「通信システム、全ダウン! 市ヶ谷(防衛省)とのリンク、ロストしました!」
「GPS信号、消失! レーダー網に一切の反応なし! 何も映っていません!」
「艦外カメラ、復旧……これは……ッ!?」
オペレーターたちが次々と悲鳴に近い報告を上げる。
モニターに映し出されたのは、見慣れた東京湾の工業地帯や高層ビル群ではなかった。
どこまでも続く、鬱蒼とした見たこともない巨大な樹海のパノラマと、空を覆う異様な紫色の雲海だった。
「静かにしろ」
真一の低い声が、パニックになりかけたCICを制圧する。
彼は振り返り、デスクで猛烈な勢いでキーボードを叩いている特A級の天才を見た。
「蘭。状況は」
蘭はディスプレイに映る天体図、大気成分の解析データ、そして重力波の乱れを示すグラフを冷たい目で見つめていた。カチャカチャというタイピング音が止まり、彼女は口にくわえていたコーヒーキャンディをガリッと噛み砕く。
彼女は椅子をくるりと回し、無表情のまま真一を見上げた。
「総司令。人工衛星のシグナルはゼロ。空の星の配置も、大気の魔力……いえ、未知のエネルギー成分も、私のAIのデータベースには一切存在しません。それに、関東一円の地殻ごと『くり抜かれた』痕跡があります」
蘭は大きく息を吐き、決定的な絶望を口にした。
「歓迎しましょう。どうやらここは、地球ではありません」
1400万の命を乗せた日本の首都が、丸ごと未知の世界へ漂流した瞬間だった。




