四十六話
車から降り、栗鼠森邸の敷地に足を踏み入れた。手を洗い、寄り道せず自室に向かう。音を立てないよう注意を払って開閉した。荷物を放り、ベッドに身を沈める。切りのいい時間、七分後まで体は休ませると決めた。丁寧に掃除された天井を見つめる。
(殺される心配は必要ない。危害が加えられることもないだろう。俺の進学費用を出す話も反故にはされないはず。ただ、狐姫様は俺が好きで婚約したわけでない。それを胆に銘じろ。敵ではないが味方でもない。彼女は俺を疑っている。ただの孤児でないことを嗅ぎ取ってる。どの段階までかはわからないけど)
光姫から貰った香水を取り出す。千里は自身の不調の原因をこれに求めた。体調の悪化が起こっても不思議でない物。直前に起こった今までと違う出来事。この二つに当てはまるのが光姫の香水だった。
色恋ではないが、千里は光姫のことを憎からず思っている。頭の回転が速く見惚れるような美貌の持ち主で威厳と度胸もある、才色兼備と呼ばれるに相応しい少女。それが現時点で千里の下す評価だ。千里としては最上級の誉め言葉といっても差し支えない。しかし、信頼はしていない。千里は光姫の能力に全幅の信用を置いているが常に裏をかかれる事態を警戒している。
(多分、狐姫様も同じ事思ってるだろうな。能力は認めてるけど、信頼してない。警戒の方は前から付き合いのある護衛がいる分俺よりマシだろうけど)
驕りでないと思う。能力や意識の低い婿では光姫の審美眼が疑われる。幼いともいえる年齢の当主に反旗を翻すことを企む輩は多いはずだ。狐の神獣が一枚岩だったとしても外部が虎視眈々と失脚の機会を窺っているに違いない。婿に指名してきた以上、光姫は千里に才能を感じている。
(普段は使用しないで、デートとか勉強以外の用事で一日潰れるような日につけよう。何か思っても直接言ってくることはないだろうし)
スマホで保管方法を調べる。起き上がり、瓶を勉強机から離れた戸棚の中に収納した。メモアプリを開き、簡潔に保管場所を入力した。一連の動作で五分の時が経っていた。
千里は書棚から分厚い参考書を手に取る。輝園大学経済学部の過去問題が掲載されている一冊だ。輝園大学法学部は偏差値が高い。輝園大学医学部に次いで二位である。輝園大学法学部出身の重鎮は多い。現総理、犬神繁もその一人だ。財務省事務次官に関しては例外なく輝園大学法学部出身である。




