二十四話、懐妊
私はその後、春仁様に頼み込んで実家にいる期間を延長してもらった。
先に春仁様は内裏に戻って行ったが。その際に彼の大事にしている横笛を預かった。「これを俺だと思って持っていてほしい」と言っていた。私は楽はさっぱり駄目なので部屋のインテリアと化している。それでも離れ離れになっている間、思い出のよすがにできる物を貸してもらえたのだ。嬉しくはあった。
さて、姉さんが滝瀬宮様と結婚してもう一ヶ月が過ぎた。私はお宿下がりをして一か月と少しが経っている。春仁様との約束で後四ヶ月はいる事になっていた。理由は髪が伸びていないからだが。仕方ないので髪を普通以上に伸ばすことができるというお薬--育毛剤を毎日使っていた。表向きは私が大病を患ったのでお宿下がりをしたという事になっている。さすがに春仁様は大物だと思ったのだった。
私は今日もお部屋に閉じこもり手習いをしていた。といってもお習字を周防に見てもらいながらやっていたのだが。和歌--歌も一日に一首は詠んで特訓をしていた。お裁縫をやったりもしている。今は簡単な物で横笛を入れる用の袋を作っていた。次は刺繍をやる予定だ。こういう風に過ごすようになって一か月と数日。さすがに暇を持て余すようになっていた。
「……周防。姉さんが羨ましく思うわ」
「……そうですね。香屋子様はやっとご結婚ができたわけですしね」
そう言いつつもお習字をする手は止めない。今は「参」の文字を練習中だ。部屋に墨の匂いが漂っている。独特の匂いにはもう慣れた。一回だけでなくとめはねを何回か練習するが。うまくいかない。周防に教えられながら二枚目に入る。もう壊滅的に字が汚いのだ。せめてお宿下がりをしている間にちょっとでも綺麗な字を書けるようにならないと。世間の良い笑い物だ。その後も一所懸命にやったのだった。
次の日はお裁縫に勤しんだ。春仁様から預かった横笛用の袋をちくちくと縫っていく。部屋の隅に四人程の女房が控えている。それは気にせずに没頭した。気がついたら夕方になっていて周防に凄く心配された。
「女御様。あまりこんを詰めても駄目ですよ」
「……そうね。今後は気をつけるわ」
「……あの。姉君様より御文を預かっています。お読みになりますか?」
「え。姉さんから?」
「ええ。早めにお返事をいただきたいとの事です」
周防から細く折り畳まれた文を受け取る。開いて内容を確認した。
<風香へ
元気にしていますか? あたしはそれなりに元気にしているわ。
ちょっとあんたの事が気になって文を書いたんだけど。東宮様はもうお戻りになったと聞いたの。
寂しい思いはしていないかしら。まだ、あたしは会いに行けないけど。
もうちょっとして落ち着いたらあんたの様子を見に行くから。待っててね。
香屋子>
姉さんらしいなと思う。簡潔に書いてあるが。和歌を詠むのではなく敢えて普通の手紙風に書いてくれているので有り難い。私は周防に言ってお返事を書いた。
<姉さんへ
御文をありがとうございます。私は元気にしています。
東宮様はお戻りになったけど代わりに横笛を貸してくださったの。それのおかげで寂しくはないです。
心配をかけてごめんなさい。姉さんの都合のいい時に来てくれたらそれでいいですよ。
いつでも来てくださいね。
風香>
そうしたためて細く折り畳む。ちなみに白の檀紙だが。姉さんも同じようなご料紙だったのでまあいいか。そう思いつつも姉さんに届けてくれるように言ったのだった。
さらに一ヶ月が過ぎた。髪は腰に近い丈まで伸びた。春仁様の横笛を袋から出して眺めた。吹いてもいいが。それは畏れ多くてできない。側にいる周防も微笑ましいと言わんばかりに笑っていた。
「……女御様。そういえば、香屋子様から言伝がありまして。お身体の調子が良くないとか」
「……それ。本当なの?」
「ええ。その。食欲がなかったり吐き気が酷いとか。食べ物の匂いを嗅いだだけで気分が悪くなったとも聞きました」
私は驚く。あの根っから明るくて元気な姉さんがダウンしているとは。周防は小声で私にさらに言った。
「……後で薬師を呼んで診てもらったそうです。それによると。どうやらご懐妊したのではないかとの事です」
「……そ、そう。けど姉さんが結婚してからまだ二月程よ。早くないかしら」
「でしょうね。背の君の滝瀬宮様も驚いていらしたと聞きます」
私は成る程と思った。まあ、おめでたい話ではある。お祝いの文でも送ってあげようか。そう思いながらもふうと息をついた。
「周防。姉さんに御文を書くわ。用意をお願いね」
「……わかりました。少々お待ちくださいませ」
周防は立ち上がると用意をしに部屋を出ていく。私は文に書く文章を考えるのだった。
翌日に姉さんからお返事が来た。「お祝いの言葉をありがとう」という簡潔な内容だった。それでも体調が優れない中で早めにくれたのだ。私は姉さんの具合が良くなるようにと柑子の実や食べやすい果物などを見繕って贈った。春仁様には内緒でだが。実は男装して山の中へと分け入り採ってきたのだが。めぼしい物はなかった。仕方ないので近くの農家さんに頼んで干し柿を分けてもらった。それと台盤所へも行き、偶然にもあった牛乳を鍋で温めてもみた。甘葛の汁を垂らしてホットミルクを作ったのだが。後で周防に叱られた。それでも頼み込んで姉さんの元に持って行ってもらう。後で「美味しかったわ。わざわざごめんね」と言伝で感想を言ってくれた。干し柿と柑子の実も姉さんは食べてくれたらしい。ほっと胸を撫で下ろしたのだった。