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 こもりくの はつかわの 

 

 上つ瀬に くいを打ち 


 下つ瀬に くいを打ち 


 斎杭には 鏡を懸け  真杭には 真玉を懸け 


 真玉まだまなす あが思ういも鏡なす


 あが思う妻 ありと言はばこそよ 


 家にも行かめ 国をもしのはめ





 軽大郎女は、この歌を送られた時、不思議と恐ろしさを感じなかった。


「おあにぃ様」

「軽大郎女よ、我にはもう帰る場所はない」


 遙か遠い飛鳥の地を見ているのだろうか。

 軽大郎女はじっと兄を見つめた。


「吾は怖いものはありませぬ。おあにぃ様が共にいらっしゃられるのであれば、どこへでも参りまする」

「お前がいなければ、我はずっとこの世に囚われていたであろう。我を自由にしてくれるのは、お前だけだ」


 軽大郎女の手を取り軽太子は、立ち上がった。


「ついて参れ」

「はい」


 手を取り合って二人で邸を出た。



 夜は満ちていた。


 暗い闇が、歓迎しているようであった。


「おあにぃ様、灯りを」

「よい」


 軽太子は素足になり、軽大郎女も同じように履物を脱いだ。


「参るか」

「はい」


 深い森に向かって歩き出す。

 あかるい月が影を作り、互いの顔が見えた。

 軽大郎女は黙ったままであった。

 突然、軽太子が立ち止まった。


「軽大郎女よ」


 妹は答えられなかった。

 声を出せば、心が壊れそうであった。


「怖くはないか」


 軽大郎女はかすかに首を小さく振った。


「我は怖い。だが、お前の方が小さくて弱い。怖いのではないだろうか」

「吾は、おあにぃ様がいらっしゃられる限り、怖いものなどないのです」


 にこりとほほ笑む。


「そうか」


 再び歩き出す。

 月の光も届かないほど奥深い場所へ入った。この先がどこへ繋がっているかは、知らない。


 かつて、イザナギという男神が、恋しい妹のイザナミを追って黄泉の国まで追いかけたという神話があるが、もしかすると、この先は黄泉の国へと繋がっているのかも知れない。


「この辺りで休もう」

「はい」


 かろうじて互いの顔が見える場所があり、二人は太い木に寄り添うように座った。


「目を閉じよ」


 軽大郎女は目を閉じる。唇に軽太子の熱い息がかかった。


 軽太子の唇は冷たく、軽く押し付けられた後、強く唇を吸われた。


 身を委ね、目を閉じていた軽大郎女は、下腹部に鋭い違和感を覚えて目を開いた。



「おあにぃさま――」



 手を当てると生あたたかいものが太ももを伝って流れていく。

 兄がどのような顔をしていたかは月が陰って、見ることができない。


「そこに――おられるのですね」

「ああ、我はお前が眠るまでそばを離れない。お前はただ、眠ることだけを考えたらいい」

「嫌…です…」


 軽大郎女は力をしぼって声を出した。


「吾に……、お渡しくださいませ…」


 うろうろと手をさまよわせると、冷たく硬いものが触れた。

 軽大郎女がそれを握ろうとしたが、手がすべってうまく握れない。すると、濡れた手の軽太子が手を重ねてきた。


「手伝おう」


 軽大郎女の意識はほとんどうつろであった。


 力が入らない。


 目を開けていることも辛く、ついに体が傾いだ。


 軽太子はしばらく軽大郎女の長い髪を撫でていたが、やがて、息をすることができなくなって、息絶えた。



 こもりくの はつかわの 

 かみつ瀬に くいを打ち 

 しもつ瀬に くいを打ち 

 斎杭には 鏡を懸け  真杭には 真玉を懸け 

 真玉まだまなす あが思ういも鏡なす

 あが思う妻 ありと言はばこそよ 

 家にも行かめ 国をもしのはめ




 この句の意は、



 斎杭に懸けた鏡のように、真玉に懸けた玉のように、


 美しい妹よ、


 お前がやまとに居ればこそ、


 国を想って、家を偲んで、恋しく思うけれども、


 もうわたしには、帰る場所はない。









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