第17章 温泉の湯気と、ふたりの時間
旅行当日、朝早くLunetteの前で拓也と落ち合った。
真澄は小さめの旅行バッグを持ち、薄手のニットにスカートという動きやすい服装だった。拓也もカジュアルなジャケット姿で、二人とも少し緊張した笑顔を浮かべていた。
「本当に大丈夫? 急に誘って」
「大丈夫よ。……楽しみにしてたんだから」
電車に揺られること二時間。少し離れた山あいの温泉街に着いた。紅葉が少しずつ色づき始め、秋の風が心地よい。
宿は小さな老舗旅館で、露天風呂付きの部屋を予約してくれていた。部屋に入ると、真澄は窓の外の山の景色に思わず息を飲んだ。
「綺麗……」
「君が喜んでくれてよかった」
荷物を置いた後、二人は旅館の散策をしてから、近くの川沿いをゆっくり歩いた。拓也が時折手を繋いでくる。真澄も自然とその手に指を絡めた。
夕方、食事の時間になった。
部屋で出される懐石料理は、旬の秋の味覚が並んでいた。松茸、銀杏、鮎、栗……。真澄は一口食べるごとに目を細め、拓也と感想を交わした。
「お酒、飲む?」
「今日は少しだけね」
日本酒を少しずつ傾けながら、話は自然と深くなった。
真澄は離婚の頃の辛さ、仕事に逃げていた自分、祖母の死をきっかけに人生をリセットしたこと。拓也は出版社を辞めた理由、離婚で失ったもの、そして今この静かな書店での暮らしを話した。
「正直、君と出会うまで、また誰かと深く関わるなんて考えていなかった」
「私も同じよ。でも、Lunetteに来てくれた君を見て……変わり始めた」
食事が終わり、浴衣に着替えて露天風呂に入った後、二人は部屋の縁側で夜風に当たった。
山の夜は静かで、虫の声だけが聞こえる。拓也がそっと真澄の肩を抱いた。真澄は抵抗せず、その温もりに身を預けた。
「真澄さん」
「ん?」
「好きだよ」
静かで、まっすぐな告白だった。
真澄は少しの間、黙ってから、拓也の胸に額を預けた。
「……私も、好きになりかけてる」
その夜、二人はただ寄り添って過ごした。
キス以上のことはまだしなかった。真澄のペースを、拓也は優しく尊重してくれた。
翌朝、朝陽が山を照らす中、真澄は縁側でコーヒーを淹れていた。拓也が後ろからそっと抱きしめてくる。
「いい朝だね」
「ええ……本当に」
真澄は心の中で思った。
——この秋は、確かに新しい季節だ。
Lunetteに戻る電車の中で、真澄は窓の外の景色を眺めながら、小さく微笑んでいた。




