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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第十一章 罪と秘密

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いつか後悔する日のために

 噛み締めた奥歯から漏れ出たような声が、相手の耳に届いているかが定かでなくとも、セシルは構わなかった。


「あの人、羨ましかったんだ、アレックスが。堂々と親の名前を名乗って、世間に自分の居場所を認めさせようとした、それが結果的に許されるのが、羨ましくて、憎たらしかったんだ」


 ローズにとってはまさしく、アレックスは“自分自身”だった。

 鏡に映したような境遇なのに、相手にだけ許されていることを、自分には許されていない、その閉塞感に対する絶望が、暗い悪意に形を変えた。――かつてのセシルが、アレックスに深い執念を植え付けたように。


 だが、アレックスとローズの違いが、ここで浮き彫りになった。完全な孤独であったアレックスと違い、ローズには母親が、兄妹がいた。家族のことを、育ての父が背負う国のことをまともに考えれば、女は窒息しそうな影の中に身を潜め続けるしかなかった。

 そこに希望はなくとも、少なくとも安寧があるはずだったから。


「……でもあの人、本当は、変えたかったんだ。誰かに脅されて、どうしようもなくなるような現実を」


 だからあのとき、連れて逃げてほしいと言ったのだ。真実が暴かれるか、自分が罪を犯すかの二択しかない現実から。


「本当は、たぶん、ちゃんと外に出たかったんだ」


 夜空を見たいと言ったのは、もしかしたら、それが許されない身の上になると予感していたからか。


「きっと、恋も結婚も、人生まるごとなかったことになんて、したくなかったはずなんだ……」


 だって、あのとき、あの人は――。


「――ほかに、何が出来たと?」


 俯いた頭の先、向かい合う席から聴こえてきた、這うような低い呟きに、セシルは顔をあげた。

 公爵の顔に、当初の冷たさとも、途中見せた痛ましさとも異なる表情がじわじわと浮かび上がってきていた。皺のよる両手が白くなるほどに、肘置きを強く握りしめている。

 怒りだった。


「他の魔法使いの子孫の裏切りをいち早く王に知らせる、そのために隠された我々だ。だというのに私は、私は陛下を最悪な形で裏切ってしまった。誇り高い女性を、王妃を裏切らせてしまった……。爵位の望めない男が釣り合う方ではないと、終えたはずだったのに……」


 セシルに、目の前の貴族がかつては全く異なる立場にいたことを教えたのは、王妃の栄光の象徴ともいえる王太子だった。


「……これを公にしろと言うのか、罪を償うからと、貴族たちの悪意に、ローズも、王子たちも、ヘンリックも巻き込むべきだったとでも言うのか!」


 椅子に立てかけていた杖が音を立ててテーブルにぶつかり、絨毯の上に倒れて転がった。


「何も知らない小童が、勝手なことを、勝手なことをっ……!」


 公爵クライスは手が白くなるほどに強く肘置きを掴んでいた。自分の脚が悪いことも忘れて、立って掴みかかろうとするかのような気迫があった。


「……脅迫者がいるんだろうことも、君が、今、声なき声で教えてくれた。だが、もうどうすることもできない、私は、あの娘と、それ以外のすべて、どちらかを選ばなければならないんだ。あの娘は君よりずっと賢いさ、今日の今日までそんなことになっていると私に全く悟らせなかったのだから! ああ、そうだ今さらどうすることもできない、あの子のためにも、あの方(王妃)のためにも……!」


 そう言った後には言葉が続かなかった。見開かれた紫の瞳はまっすぐセシルに据えられている。

 しかし、その怒りの矛先は緑の目に映りこむ自分自身に向かっていた。 


 その痛ましさは二人の男の心を抉った。目の当たりにしたセシルはおろか、言った本人もまた、自分の言葉に蒼白になっていた。

 つまり、今このとき、ローズのためには動けないことを、明言したも同然だった。

 断言することで自分の無力感をまざまざと自覚した男を前に、セシルの口からもう非難する言葉は出てこなかった。


 突然の怒鳴り声に、妖精が家主と客人の顔を交互に見つめる。


「なになに? おじい怒ってんの?」

「誰が悪いの?」


 誰が悪いのか。誰が咎を負うべきなのか。

 応える声はなかった。

 二人が黙っていたのは長いようで、短い時間だった。


「……僕は今日、あなたとローズ様の結婚の真実と、なぜあの人に助けが入らないのかを知りたくて、ここに来ました」


 よくわかりました、とセシルは低く抑えた声で言った。


「……でも最後にひとつ、お聞きしますね」


 眉間の深い皺をもとに戻さないまま、クライスは俯いていた。


「今でも、あの人を隠したことが、本当に最も善き判断だったとお思いか」


 返ってくる声はなかった。セシルには、唇の向こうで男が噛み殺した言葉が何だったのか、知るすべはない。

 何を思っていようと、どうすることもできない。どう言い換えても、どうせそう言うしかできない立場の人間だと思い知っていたから、問い詰めるような気持ちにはならなかった。グラスとカップの中身は、どちらもすっかりぬるくなっていた。 


「……ダンリールで、貴殿ら兄弟を襲ったことが、脅迫によるものなら、ほかのことは……」


 それを知ってどうするのかと、セシルは思うだけにとどめた。目を合わせない男に、淡々と答える。


「……密告された夜盗の件に、あの人は関わっていません。真実を隠されたらそれを証明しようもないけれど。……ヴィレイ侯爵の件、は」


 セシルは言葉に詰まった。セシルにも不可解なことに、これは本当にローズの独断のようなのだ。

 ローズのしたことを思い出して顔に苦いものが広がる。なんであんなことを、と、そこまで思ってから、セシルの思考がはたと立ち止まった。


「……」


 魔法酒を奪って、すぐに逃げなかった理由を聞くと、女は「母に用があったから」と言った。

 なぜという考えがぶり返した。あのあと、セシルはローズ本人や公爵、竜に渡す絵のことにかまけていて、深く考える暇がなかった。


(なんで忘れて……あ、絵を渡すことが、アレックスに後ろめたくて……)


 そういえば。

 ローズが捕まったあとのアレックスは、いやにセシルの上着に固執していた。絵という後ろめたいものを隠していたセシルに、どこか苛立って、そして――。


「……まさか」


 顔色を変えたセシルは立ちあがった。客人の突然の豹変に、家主は眉を上げた。


「どうした?」

「……僕、弟に会わなくちゃいけないのでもうお暇いたします」


 セシルは相手が公爵であることも先程までの怒りと歯がゆさも蹴散らすように、急いで部屋の外につながる扉へ向かった。それを、公爵が短い言葉で引き留める。


「……余計なことをすれば、貴殿も、後悔するぞ」


 セシルは扉の一歩手前で、椅子に掛けたままの老公爵に振り返った。眉間の深い皺と、苦し気に歪んだ目元に、男が過去に天秤にかけたものが、その結果置いてきたものが、セシルの目にも浮かぶような気がした。

 向こう見ずはおろか者のやることだ。セシルには生まれ持った立場がある。

 ここ一カ月ほどで知ったことのすべてに蓋をして、なるように任せたら、この国にとって最悪の結果は免れるのかもしれない。それどころか、案外ローズの身柄もそう危ぶまれはしないのかもしれない。少なくとも、命だけは。

 けれど、その先にセシルが望む未来はない。こればかりは、“かもしれない”すら付きはしない。


 大切なものはたくさんある。しかし、セシルの中にはそれらを比べるための天秤がそもそもなかった。 


「……いつかそのうちの後悔を恐れて、今の恋を見捨てることはできません」


 後のことなど、今のセシルには目の前の扉よりずっと軽い。


「先のことを考えて身分違いの恋から身を引いたのに、結局気持ちがぶり返してどうしようもなくなった人を知ってますので」


 かつて、ある貴族の後妻が生んだ末子と、王族への輿入れも視野に入るような姫君が出会っていた。

 男の方が、母親の血筋に光明を見出して、もっと早くに自分の立場を変えようと動いていたら、今頃この国は、王家は、公爵家はどうなっていたのか。そう考えると、今の彼女と出会えたのは男のどうしようもなさのおかげだともいえる。

 だが、その偶然に感謝するのは、今ではない。

 黙り込んだ男に、セシルは今度こそ背を向け、厚い扉に手をかけた。  

 

 ――比較して取捨選択するような秤はないが、今は裁判のこと以外にもう一つ、差し迫った喫緊の懸念がセシルの頭で警鐘を鳴らしていた。

 

(アレックスは、王妃様にあの酒を飲ませるつもりだ)


 セシルは、アレックスが王宮でローズと会っていたことを確信していた。その結果、ローズのやろうとしたことをアレックスが引き継いだことも。

 あんなにも毛嫌いしていたとはいえ、あの二人の絆はセシルには量り知れないところがある。

 だが、それでアレックスがやろうとしていることは、到底許されることではない。だいたい、そんなことが明るみになった時こそ、ローズを怪しむ人間が出てくるかもしれないし、何よりアレックスは今度こそ赦されない。


 王宮に向かい、すぐにアレックスを止めなければ。ぐずぐずしている暇はない。


 しかし、扉を開けた瞬間、セシルはその足を止めざるを得なかった。部屋から出ることすら叶わなかった。

 それどころか、踏み出すための片足が一歩退きさえした。それ自体は恐怖ではなく驚きによるものだったのだが、赤毛の下の頭が再稼働するや否や、顔から血の気がざぁっと引いた。


「……な、なぜ……」


 目を見開いて口ごもるセシルの背後で空気が変わった。椅子に掛けたままの公爵の目にも、セシルが開けた扉の前に思わぬ人物が佇んでいたことに気が付いたのだ。


「あら、もうお話は終わったの、()()()()()?」


 邸内のどこか遠くから、ヘンリックの焦る声といくつかの足音が響いていた。



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