善きことと幸せなこと
『私は、この城にだけは、入る権利があったのだから』
――王家の城に入る権利はなくとも、エスカティード家の痕跡が色濃いこの城だけは。
(……やっぱり勝手な人だな。もうずっと前に、その権利だってうちに移ったって言うのに)
城への入り方をどう知ったか、ローズは言わなかった。
セシルとアレックスがダンリールの村に到着する前、ディフレッドとログスターが話す傍らに立って一言も発さずに去っていったという。
その不可解さも、この男の血を引いているという認識によって意味が通るものとなった。小うるさい役人と話しながら考える管理人の目をじっと見れば、ローズはわざわざ教えてもらわなくても分かったのだ。
だから、絶対に口を割ることは出来ないといっていたのだ。エネクタリア家の魔法酒の使い方も、同じように知ったのだ。今度は口止めと足止めまでした。
(でも、最初から、あなたはそうやって僕には全部伝えてきてたんですね)
公爵家の血筋が人の心を暴く力を秘めているなら、その血を宿して生きてきた女に、周囲から何が聞こえてきていたのか。口にしない真実を抱える人々は、どう映っていたのか。
いつだったか、馬車の中でアレックスが言っていたことを、セシルは思い返した。
子は、親を選べないと。
(あなたは、ずっと抱え込んでいたんですね)
アレックスの言葉には幾重もの意味が孕まれていた。
夫以外の子どもを産んだ母親のもとで生まれたこと。
普通の人間ではない父親の血を引いてしまったこと。
よりによって、無知のままでは周囲の人間と一緒に生きていけない力を、受け継いでしまったこと。
アレックスに妖精が見えていたように、ローズはずっと周りの人間の心の声が筒抜けだった。
きっと、どうか悪魔の仕業であってくれと願う、母親の声も。
「……貴殿は、なぜあの娘と結婚したか、と訊いたな」
クライス・エスカティードの低い声から、既に動揺は消えている。しかし、セシルはもうそれを相手の平静の表れだとは思っていなかった。
言うまでもなく、親子婚は禁忌とされている。たとえ肉体的な夫婦生活の事実が無くとも、その噂は公爵家をも潰し得る醜聞となる。近親婚を明確に禁じる教会の動きを待つ必要もないだろう。
結婚前に王妃の顔を見ることがあったなら、知らなかったからとは言えないはずだった。知っていて、あえて自分の娘を娶る理由は、推測でもそう多くは浮かばない。
「……真実を、隠すためですか」
ローズが誰かと結婚して子供を産めば、異質な子どもの能力が、どこかで明るみになるだろう。それを防ぐには、生涯独身を貫くことだが、王女の身分でそれは難しい。ならば、真実を知っている人間と結婚の儀式だけ済ませてしまうのが一番安全だ。
「貴殿には、それが私と王妃の利己的な罪の隠蔽に見えているだろう」
「……」
違うのか、とセシルは訝しむ。
「では、逆に問おう。あの娘が王の子どもでないと知られたとき、この国で何が起きると思う?」
セシルは暫し言葉に窮した。二十年以上隠された王妃の不貞、その衝撃は言葉では言い表しがたい。
混乱は避けられない。大貴族フレイン公爵が実の娘と結婚したという知らせと、どちらがより実害が大きいだろうかと悩むくらいに。アルバート・ロッドフォードの隠し子の話題など、些末もいいところだ。
公爵も、王妃も、ローズ自身も無事では済まされないことは、あらためて口にする必要もない。
「……確かに、これは罪のないローズ様を巻き込む最悪の展開なのかもしれませんが」
しかし、嘆息した公爵から出た言葉は、セシルに自分の予想の甘さを突きつける物だった。
「誰が、ほかの子どもたちは国王の血筋で間違いないと、証明できる? ……王妃様と同じ特徴を受け継ぐレナード殿下の正統性を、断罪される私と王妃以外の、誰が」
俯いていたセシルの顔が跳ね上がった。薄いレンズに遮られた向こうから、苦しげな色を浮かべた右目がセシルに向けられている。
まさか。浮かびあがる可能性に、セシルの背筋に悪寒が走る。
「……でも、王太子殿下はじめ、他の方は国王陛下のお子様で間違いないのなら、なにも恐れるものなどないのでは?」
「貴殿は随分やさしい世界で育ったのだな。誰かが、この国を自分に有利なように作り変えようとするとき、既存の王太子よりも新しく、そしてより確固たる正当性を主張できる王太子を担ぎ出したほうが、都合がいいのは分かるだろう。幸い、この国には不貞を働いた王妃と関わりのない王の子もいるのだから」
何を言っているのかと戸惑った次の瞬間、セシルの脳裏に、プラチナブロンドの美しい女の顔が浮かんだ。生まれ持った特権など、たやすく奪われるのだと、自分になぞらえてセシルに忠告した女の顔が。
「マ、マグノリア様?」
「魔法使いの存在を知らない者からは、そういう声も出るだろうし、事情を知るものや別の思惑があるものは妹方を推すだろう。それに対し、レナード殿下の正統性を信じる者もいるだろう。そうやって混迷を極めるだけでも国の一大事だというのに、こういう時を逃さないのが恐るべき隣国だ。……そうやって、国を揺るがす可能性は際限なく湧いて出てくるもの」
東の山脈の向こうは、ほんの数年前まで怪しい動きをしていたと、グラッドは言っていた。
それこそ、南国コルメルサは王子妃マグノリアの血筋を盾に権利を主張してくる可能性もある。
セシルは、いつの間にか震えていた己の膝の上の拳を、もう一方の手で抑えるように握りこんだ。
そっか、と、声にならないつぶやきが唇に浮かぶ。
(……こういう意味だったんだ)
『逃げおおせてくれた方がましだった、何も話さないでいてくれたほうがずっと良かったと、思うときが来るわよ』
第四王女が罪の子であるという事実。
息を呑むようなそれは、開けてはいけない災厄の箱の鍵だったのだ。
(このことを、あなたは言っていたのですね)
セシルは目を閉じた。瞼の裏に、国王の、王妃の、レナードの、ライオネルの、マグノリアの、王家の顔が順々に浮かんだ。
いつもより近い星の下で、誰も自分を助けられないと昏く笑ったローズの声が、耳の奥から聞こえた気がした。
セシルの思考を、「だから」と続く公爵の言葉が止めた。
「私はローズの言葉に、あの子を王宮から引き離すことに、同意した」
視線を合わせることで心を読むのは、逆に言えばそれ以外のときに不必要に心を暴かないようにと、訓練した結果でもある、と男は話した。望まない雑音は心を病むだけであるからと。
だが、王宮で母親とともに過ごしてきたローズは、制御もできずになだれ込んでくる周囲の“声”に溺れかけていた。人と会うことを避けたのは、真実に気付くものを警戒するためだったが、結果的に本人の正気を守ったのだという。
「ローズ一人に対処法を教えても、王宮でひとり、それを隠して生きていくことがどんなに大変か。ましてだれかと結婚などしたら、その孤独と辛苦はどこまで受け継がれていくのか。アレックス殿を知る、貴殿なら多少は想像できるだろう」
「……」
セシルは俯いた。
「おろかな私の知らないところで、王妃陛下とローズは二十年近い歳月を、己の重罪に耐えながら過ごした。これから先は、実父である自分が責任をもってあの子を養うと決めた。静かで、穏やかな、罪に脅かされない日々を約束しようと。
婚約前、あの子がひとつだけ、と言って申し出たわがままも、私はあの子の望むようにしてやろうと……若い男を囲っても、子さえ生まれないよう気を付けるなら、と……」
「…………」
俯いたまま、どうしよう誤解されたまんまだ、とセシルは僅かに悩んだ。
うすうす感じていた通り、アレックスは直接公爵と会ったことがないのだと思われた。
「……だが、自分のもとから去った愛人を、自ら殺しに行ったとしたら、話は別だ」
黙っていたセシルは、続けられたその言葉でグラスの結露に向けられていた視線を上げた。
「あれほど離れたがっていたリンデンに、わざわざ戻りたいと言うから不思議に思っていたのだが。よもや私の目から隠れて動くためだったとは」
そう語った表情はどこか遠くを、この国のどこかに囚われているであろう娘を見つめているようだった。
対してセシルは、瞬きも忘れて相対する老貴族の顔を凝視した。
閣下、と、わななく唇から言葉を漏らす。
「……読心術は、もしかしてその魔法を受け継ぐ身内同士の場合、全く働かない、ということはありますか」
公爵は突然の問いかけに表情を変えることなく、「いかにも」と応じた。
裸眼で視線を合わせても、血を分けた親子や兄弟間では、互いに何も聞こえないのだという。
だがセシルの目には、その事実を確認するやいなや言い様のない熱が灯った。震える唇には緊張と、相手への怒りが込められていた。
いかにも、って。
「……そう、そうですか。道理で、何もわかっていらっしゃらないわけです」
「……なに?」
面食らったような公爵から自分の意思を隠そうとするように、セシルは目をそらし、黙った。
今、自分が相手にしている相手の立場を、セシルは知らないわけではない。
自分が大きな口を叩けるほど、清廉潔白な人間であるという覚えもない。
それでも、それらを踏まえても、セシルは我慢ならなかった。俯く視線の先で握りしめた拳の震えが抑えられなかった。
「閣下は何にもわかってない、と申し上げました。あの人のことを、ローズ様のことをです。それどころか目を見てもわからないからって、知ろうともしていない。閣下の頭にあるのは、ご自分と王妃陛下のことだけでしょう」
セシルから湧き出る憤りを真正面から受け止めた公爵クライスは眉を顰めて、己の子どもより年若い客人を見返した。
「……結婚前のローズ様の世界は、自分と、扉の外の恐るべき他人と、すべてを知っている王妃陛下だけで構成されていたんだ。限られた世界でしか生きられなかったあの人が、母親にどんな思いを抱いていたか、どんな気持ちで父親と偽装結婚するなんて考え出したのか。それを、“誰も傷付かない最良の方法”だなんて、自分を丸ごと隠すような生き方、喜んで提案したわけないのに!」
言葉遣いに頓着する余裕はなかった。セシルの言葉は考えるより先に声に出ていて、目の前の男も予期することのできない砲火に唖然とするしかなかった。
あるいは、目をそらしてきた現実を突きつけられて、打ちのめされたのか。
「……この結婚を、あの人も、あの人の母親も、最善と言った」
セシルは、溢れ出る感情をもて余すように自分の額をその両手でおおった。俯く顔に、口惜しさが滲み出た。
「……でも、幸せだとは、一度も言わなかった」
公爵の考えは間違えてはいないと、セシルにもわかる。
母親が生きる世界を守るために、ローズは身を隠した。それは世間を恐れるローズにとっても楽な方法だっただろう。セシルにも、それはわかる。
わかるのだが、それが全てであるはずがないのも、痛いくらいわかるのだ。
「……隠れて生きることが、本当にあの人が望んだことだったなら、アレックスを殺したいだなんて思うはずないのに」
絞り出した呟きが耳に入って、言った本人に怒りと悔しさと悲しみが押し寄せた。




