結婚の真実
知れば後悔すると言われたことを、セシルは勿論覚えている。
女が言ったことを、セシルはほとんど忘れることができないでいる。
***
雇い主の好みなのか、夏だというのに温かな湯気のたつカップを運んできた従者が、応接室から静かに出ていく。それを待って、公爵は重たげな口を開いた。
「調べはついているのかな。我が母の祖先が、国王陛下の祖先とは父のみを同じにし、母は異なるということも」
多くの公爵家は、もとをたどれば王家につながる。
ブランデン建国の王の弟もまた、領地と共に爵位を授かった。
母方の血筋に魔法の力が宿っていた彼の子孫は、それを外部に隠し、エスカティード家と名乗って生きてきた。
精霊を操らず、妖精と話さず、奇怪な薬などつくらず。
目の前の魔法使いの末裔は、ひっそりと“そういう魔法使いの子孫たち”を王の陰から眺めて生きてきた。
「それで、私の結婚、とは。このたびの、後妻の起こした騒ぎの件でよろしいか」
「……結婚そのものについてです」
カップとは真逆の冷たさを纏ってゆったりと座る相手を前に、セシルは膝の上で握った拳の中が汗で濡れていることを自覚せずにいられなかった。
かつて国境沿いで――あるいは国境の向こうで諜報活動に従事したと言われる男の醸し出す空気に、セシルは感じたことのない圧迫感を受けた。その輝かしい威光で圧倒する王家とは違う、中を見通せない不気味さでありながら、こちら側のすべてを見通すような空恐ろしさがあった。
部屋のすみには、数こそ伯爵家ほどではないが、ピクシーやバンシーがちらほらと歩いている。そこから漏れ聞こえてくるひそやかなざわめきまで、セシルは自分へ向く敵意を敏感に感じ取っていた。家に憑く妖精は、家主の敵をよく思わない。
もとから置かれていたグラスの中の茶で喉を濡らしてから、セシルは相手の視線を受け止めて、問い直した。
「なぜ、ローズ様と結婚されたのですか」
「……単純な話だ、王家から、殿下のことを頼まれたからだよ」
「王妃陛下から、頼まれたことだけが理由ですか」
セシルは、誰から、という言葉を強調した。公爵は、それに特別な反応は何も返さなかった。依然、冷淡さを隠さない態度であるが、その白い眉毛はちらとも揺らぎはしない。
「みたところ、貴殿は我が妻に何か特別な思いを抱いておられるようだ。当時、ロッドフォード家の名が降嫁先に上がらなかったことを恨んでおいでかな」
「…………そ、それもまぁ、恨むというか、悔しい気持ちはなくもないのですが……今回は、そういうお話をききに参ったわけでは無く……」
モノクルをかけていない方の目で、セシルの潜在的な下心を読み取ったか、それともヘンリックから聞いていたのか。一言も話していない個人的な事情が筒抜けなのも、覚悟していたとはいえ、セシルは喉を掻きむしりたくなる歯がゆさに耐える時間を必要とした。
今になってそれを考えてみると、悔しくない、と言うのは嘘になる。身分として、全くあり得ない話ではないはずだった。
「……でも、当時の僕がどんなに優秀であったとしても、絶対にお声はかからなかったんですよね?」
公爵は、セシルの自嘲のように聞こえる言葉に慰めの言葉を寄越さなかった。
セシルも、それを求めて言った言葉ではない。のしかかってくる空気の重みを逃がすように、息を細く長く吐いた。
「閣下。ギルベット修道院をご存知ですか」
「妻が言っていたな。お気に入りの少年を、君の弟を見つけた場所だと」
「そうです。ローズ様は、そこでアレックスを見つけてくれました。かつて、悪魔祓いで名を馳せた修道院で」
「ほう。古い修道院なのだな」
平然とした公爵の態度に、セシルは自分がまるっきり的はずれなことを話している気分になった。
公爵がそう思わせたいだけだ、と、セシルは己に言い聞かせた。どんなすかした態度でも、追い出さないのは、セシルがどこまで知っているのかを相手も知りたいからだ、と。
「修道院内部の、当時のことを覚えている者に聞きました。王妃陛下が、ローズ様を伴って訪れたそうですね」
もちろんリャナンシーのことだった。そこまで話して、セシルは次の言葉までに少し間を持たせた。
読めない相手の機嫌を、さらに損ねることになると、見越していたからだ。
「悪魔憑きではないかと疑って」
「……ほう。それは初耳だ」
公爵の表情は変わらなかった。ただ、応えが返るのにも、わずかな間があった。
部屋のすみからの囁きに、変化の兆しは感じ取れなかった。
「アレックスは、魔法の名残を知らない実の母親に、同じ様に疑われて、結果あそこに置き去りにされたそうです」
セシルは続けた。王妃と娘が修道院へ向かった理由を知らなかったというのは、嘘でないようだと確かめながら。
「王妃陛下は、事情が違います。神様や悪魔よりもっと近いところ、同じ大地に妖精や精霊がいることをご存知です。なんせ王子のおひとりは取り換え子にまで遭いかけていますから。……もし、王女様の様子でおかしなところがあれば、臣下に命じて原因を突き止めるものではないでしょうか」
「さあ、どうなのかな。私は、結局自ら臣下として出仕できたことがほとんどないもので」
目の奥の鋭さを隠すように苦笑した老人のはぐらかしに、セシルは僅かに目を見張ったが、頓着することはなかった。ただひたすら、自分の口が止まってしまうことを恐れて言葉を続けた。
「王妃陛下は、ローズ様の様子で思うところがあっても、何らかの魔法の名残が作用している可能性を誰かに相談することができなかったと僕は考えています」
夏のはじめの宴の夜、王太子レナードもそうだった。あのとき、レナードは思い違いとはいえ、後ろめたさからセシル以外の誰にも妃の置かれた状況を打ち明けられなかった。
「ローズ様が人と違うところがあること、それが妖精の仕業でも、精霊の仕業でもないと判明してしまうことを、恐れたのではないでしょうか。――“いっそ悪魔の仕業であってほしいと願っていた”、当時を知る者の話しぶりから、そんな風に思うのです」
『連れてきた娘が、悪魔とやらに憑かれているかを確認しにきたのよ。レイバンが否定すると、本当に違うのか、もっと娘の様子をちゃんと確かめてくれと、鬼気迫る顔で詰め寄ってたわねぇ。そう、まるで』
記憶の中の、妖精乙女の笑う姿に痛ましさは無かった。人間の必死さなど、妖精には暇潰しでしかなかった。
「……どうだろうか。話した人間の思い込みではないのか」
底の見えない笑みをとどめる男を前に、セシルは緊張の中で、はじめて相手へかすかな憎しみを感じた。まだとぼけるつもりなのか、と。
紫の瞳の女のことを、目の前の男は笑って済ませられるわけがないのに。
「僕だってそう思うのですから、公爵、あなただってそう思うのではありませんか」
リャナンシーは顎先に指をあてて言った。
『――そう、まるで、明言してほしそうだったわ』
「人の心を読めるのは、悪魔が与えた力であって、決して生まれつきの力なんかではないと」
沈黙が、質量を持っているかのように重かった。
「……フレイン公爵、僕は先ほど、ライオネル殿下にお会いしました」
表情の削げ落ちた相手の冷たい貌に、セシルは己の背を己自身で支える心持ちで声を発した。
黙する公爵への畏れは消えない。
しかし、その黙秘がセシルに確信を与えた。
「そのとき、閣下が軍で働いておられた頃、いつリンデンにお帰りになっていたかを教えていただきました」
ただの偶然かもしれないという一抹の不安は、完全に拭い去られていた。
「トロイ殿下の取り換え子の件で、先代……僕の祖父のことを調べるときにも、当時既に高齢だった前公爵を手伝うよう召喚があって、戻っていらしたそうですね。ちょうど、二十一年ほど前」
「……セシル殿」
声にも、視線にも、指先どころかその髪の先にまで、動揺のひとつも見て取れなかった。感情の見えないその声には、続こうとしたセシルの言葉を、喉に縫い止める圧があった。
「王家と公爵家を侮辱するようなことを言うつもりなら、こちらも黙ってはいられないのだが」
セシルは自分のからからに渇いた口内を自覚していた。しかし、今相手から目を一時でもそらせば、もうこの話を続けることはできないという予感があった。グラスに手は伸びなかった。
「それは、マグノリア殿下を国外におくったようにですか」
肯定も否定も返ってこなくても、構わなかった。
「マグノリア殿下は、あなたと王妃陛下の、昔の親しげな様子をからかいの種にしていたとお聞きしました。レナード殿下は笑っていらっしゃいましたが、ローズ殿下はそれを聞いて人前に出なくなり、そして結果的にマグノリア殿下は国外に嫁がれたそうですね」
プラチナブロンドの女が、具体的に何を言ったのか、セシルは知らない。
誰も具体的な文句を教えてはくれなかったが、状況がセシルに指し示していた。
「あの方は、図らずも核心をついてしまったのではないでしょうか」
だから、セシルはマグノリアが具体的になんと言ったかは口に出さない。予想はいくらでも出来た。
きっと相手も同様であろう、そう思えていたから、明言する必要性も感じていなかった。
(それでも、何も話してくれないというのなら)
「僕の考えていることが、お分かりですか。それが事実と異なるとおっしゃるなら教えてください。……公爵夫人とも、王女殿下とも呼ばれたくないと言って泣いたあの人の真意を」
セシルの周りでは、沈黙するのはいつも人間だけだ。
それでも、目の前に集中するそのときのセシルには、妖精の声が壁の向こうからのように遠かった。
「……泣いたのか、ローズが」
静寂は、その呟きで散逸した。
「あの子は、優雅で、美しく、足りないものなど何もない、完璧な淑女のように見えるだろうか」
そうですね、と応じるのは控えた。相手の反応を待つ物言いでは無かったからだ。
「……いくつになっても、思わぬところで取り乱してしまうところが、……それで周囲に放っておけないと思わせてしまうところが、母と娘でそっくりだな」
静かに独り言ちた老人の目には、懐かしさと苦々しさが入り交じっている。セシルはそこに、まんまと振り回されている目の前の若者を労うような響きすら感じた。
「……そして、先代と言い、ご子息殿といい、オリエット伯爵の家の人間とは、つくづく相性が悪いようだなぁ」
そうだねぇ、とのんきな声が、部屋のすみからセシルの耳へ届く。小さな針で刺されたかのような居たたまれなさに伏しがちになる緑の目に力を込めて、じっと相手を見つめた。
「ああ、そうだ」
かつて国境沿いで――あるいは国境の向こうで諜報活動に従事していたとき、きっと男は諦めていたはずだ。記憶の中の、優雅で、美しく、足りないものなど何もない、完璧な淑女のことを。
セシルの予想通りなら、この人の運命を狂わせたのは、祖父の失態だ。
だけど、本当にセシルが罪悪感を覚えているのはそこではない。
「ローズは、妻ではない」
結局、それが今のセシルにとって重要な始まりだったからだ。
「……私の、娘だ」
紫の目に、諦念と後悔が見え隠れしていた。
この男の罪が紫の目の女を生み出したなら、それはセシルにとっては必要な過ちだったわけなのだから。




