夢
これは夢だと、わかる感覚というものがある。
その感覚に気がついたとき、アレックスは起きるのを躊躇ってしまう。
疲れているからだとか、寝たりないだとか、そういうことではない。
ただ、とどまっていたいからだ。
笑う顔をふちどる黒い髪、長い睫毛の奥の、青い目。目の前に浮かぶ母の顔は、よく覚えているようで、少し美化されているかもしれない。
優しい記憶だから、ずっと見ていたいのか。
『アレックス、だめよ』
それとも。
『そこには何もいないでしょ。大人をからかうのは、ふざけるのは、もうおしまいにして』
忘れないようにするためかもしれない。
『おねがい、もうやめて』
母に後悔させたことを。何も知らずに産ませてしまったことを。父のいない場所で生まれてきてしまったことを。
『もうやめて、もう、妖精なんていないったら!』
女の顔が歪む。渦を巻いて、収縮して、一つの点に巻き込まれて消えていく。
――やり直せるなら、今度はちゃんと、普通の子どものふりをするよ。
そうしたらきっと、もう少し長く、一緒にいてくれたんだよね。
終わりは容赦なく訪れた。
突然開けた視界を占めるのは、黒い髪に青い目の、細面の女ではなく、金の髪に金の目の、ふっくらとした丸顔の幼子である。
「起きて、アレックス。こんなとこで寝るなんて、お行儀悪いよ」
背中はごつごつとした固い筒状のものに預けられている。わずかに傾き始めた太陽光が、木陰からはみ出た膝から先を灼いていた。
アレックスは、自分が宮殿の中庭の木立に背中を預け、その根元に座り込んで眠りに落ちていたことを自覚した。
「……母さんはそんなふうに言わなかった」
下腹部に乗り上げた妖精の、小さな手のひらにぺちぺちと頬を叩かれながら灰色の目を開けたアレックス・ロッドフォードは、さすがに大層寝覚めが悪かった。
***
竜はセシルと一緒にいったと小妖精が言うので、アレックスは後ろ髪を引かれることなく塀を超えた。正面から出て誰何されるのを避けるためである。
見張りの目は、衛兵の制服の裾が気になって仕方ないキーラが勝手に逸らしてくれた。
「アレックスったら、王宮は王様とその家族が住むところだよ? 二日もお泊りして、その上お庭でお昼寝だなんて」
妖精が怒ったように詰る。上からの物言いは、人間の少女のおしゃまさによく似ていた。
人通りの少ない裏道をたどって屋敷に向かいながら、苦々しい思いが胸に去来するのを押さえられなかった。アレックスはこの二日まともに取れなかった休息を、好き好んで王宮の庭で取っていたわけではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
ローズの部屋から逃げるように出てきたアレックスは、混乱しつつも自分の初心を見失わなかった。
動揺を呑み込んだすまし顔で、地下牢へ続く階段を下りる。松明の灯りが揺れる石室の前に立つ見張りに怪我の様子見だと伝えれば、包帯を重ねた姿のエリックに難なく会うことができた。
『アレックス様!?』
『静かに。……あんた何余計なこと言ってんだよ、聴取で聞かれたのは夜盗のことだったんだぞ、町で警吏に聞かれた時と同じように、“襲われて無我夢中で身を守ってた”ってだけ言えばよかったのに』
地下牢といえども、平和な時代に建てられた、比較的新しい王宮の地下である。排水も換気も設計され、最低限の衛生環境は保たれた薄暗い個室で、エリックは白い寝具の寝台に寝かされていた。
『骨にひび入ってたって? どんくらいかかんの』
『……安静にしていれば、完治まではひと月ほどだそうで。薬のおかげで痛みはないのですが』
セシルの様子を気にするエリックに、アレックスは、元気いっぱいでせいぜい寝不足ぐらいしか心配することはないと言い捨てた。会ってないからわからないなどと、正直に言って心配させる必要はないと判断してのことだった。
『それと、指示出してた人間のことだけど』
仰向けに寝たまま、エリックの顔色が変わったのが薄暗い地下でも分かった。
『名前が言えないんだな。言いたくないとか庇ってるとかでなくて』
髪と同じ色の目が落ち着かなさげに動く。アレックスは相手の口から答えが出るのを待たずに肯定と判断して、その後もいくつか質問した。エリックは『あ』だとか『う』などと意味のない言葉を繰り返していたが、アレックスの確認するような尋問に、弱々しく頷いた。
『……好きでいいように使われてたわけじゃないんだったら、これ以上、余計なこと言うなよ』
アレックスは青ざめたままのエリックに構わず、用は済んだとばかりに足早にその場を離れた。
その口は堅く引き結ばれ、目元には苦々しさが浮かび上がっていた。
白衣を洗濯場に紛れ込ませると、アレックスは宮殿の庭の中を、歩みを緩めずに進んだ。比較的木々が多い場所で人目を避けながら屋敷に戻るためである。
その中で、図らずも見つけてしまったのだ。
傘を持った、金色の目の小さな老人を。
『はぁ? 知らんわ。おまえ、“王太子が閉じ込めた人間がいる部屋”といったであろう。何か違ったか』
『……そうじゃなくて、俺はあんたが持ってったタペストリーを返せっつってんだよ。対価として承諾してない』
『もう取引は終わった。今さら何を言うか』
アレックスに両脇の下を掴まれて子どものように宙に足を揺らした状態で、オーレルゲイエは苛々と言い放った。アレックスも、さすがにどういえば取り返せるのか、集中できていないこともあり、うまく頭が回らないまま睨みつけるしかなかった。
『ふんっ! そんな目をしたところで、話し合う余地なぞ認めんぞ』
『何を、……!!』
このまま伯爵邸まで連れ帰ろうかとも考えたそのとき、妖精は老人の姿からは想像もできないような素早さで、傘をアレックスの額にぶつけた。アレックスはとっさに悲鳴は耐えたものの、両手を妖精から離して頭を抱え、苦悶の顔でしゃがみこんだ。
それでも、このまま妖精に逃げられてはかなわないと痛みに耐えながら顔を上げる。
うすらと広がる視界では妖精が目の前に立ち、その手には細い杖が背中に向けて握られている。妖精の背後は彩り鮮やかな花畑や輝く星空、虹のかかる青空等がかわるがわる切り替わる不可思議な世界が広がっていた。
それが、妖精が持っていた傘の内側をくるくると回しながら見せつけられているのだと気が付いたときには、アレックスはそこから目を逸らせなくなっていた。
『よくみれば、まだ十代なかばの子どもといえなくもない。ほれ、お昼寝の時間じゃよ』
まぁ、夜にちゃんと寝ない悪童の見る夢なんぞ、ろくなもんではなかろうな。
妖精のそんな笑いを含んだ声が、急速に遠くなっていく。
赤、青、黄、緑に紫。くるくるとまわる傘の柄が、渦を巻く。一つの黒い点に収縮していくのを、アレックスはなすすべもなく眺め、眠りに落ちた。
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宮殿内の人間に見つかる前に起こしてもらえたのは幸運だったと、アレックスは妖精の頭をそっと撫でた。人の目が向いていないのを確認するのは勿論忘れない。
「セシルのこと起こしてくれたら、今度はキーラがアレックスのこと起こすよって、約束したでしょ?」
そういえばそんなこともあったかと、アレックスは随分昔のことのように思い出した。まさしく、あの夜のことで今王宮は大揉めに揉めていたのだが、自分はあのとき、その場しのぎのごまかしで今命拾いをしたのかとひっそり嘆息した。
「でもどこでも寝ちゃうなんて、アレックスってば赤ちゃんみたい。男の子だから多少ママっ子なのは仕方ないとしても、もちょっと大人にならなきゃだめだよ」
アレックスは何も言わず、妖精の頭を撫でたその手で軽く小突いた。「ぷぇっ」と奇妙な悲鳴が上がったが、まばらな通行人の誰もその声に振り返らない。
王宮につながる大通りと並行する細い道を進みながら、アレックスは考える。思わず顔が険しくなるのは、睡眠不足だけが原因ではない。
ローズの言葉が、頭から離れなかった。
(……王妃に、ローズのことを忘れさせろと)
正確には、ローズに関わる特定の記憶なのかもしれない。
勢いに呑まれたが、アレックスはローズが何をそこまで必死になっているのかについて把握しきっているわけでは無い。ただ、ローズが言っていた“母親のために忘れさせるべき子どもの記憶”に、自分の場合は大いに心当たりがあっただけだ。
自分と同じ、もしくはよく似た痛みを、ローズも抱えている。
おそらく、それが脅迫者に握られた弱みだ。
(それが何なのかって言うのもあるが……)
脅迫者は、自分が想定している人間は、そんな秘密をどうやって手に入れたのか。
どうして、ローズはその記憶を王妃から奪おうとするのか。
(普通、忘れさせるなら脅迫者の方からじゃないのか)
だがローズは、王妃から奪いたいのだ。それを覚えていることが王妃にとって苦痛だから、と。
(王妃も了承しているのか? ローズを捕まえたがっていたのはそういう? いや王妃が協力していたなら、ローズはあんな方法で酒を手に入れないで済んだはず)
アレックスは眉間に深い皺を刻んだ。
国王や王子たちにも、勿論王妃本人にも気づかれないように飲ませろと言っているのだ、あの女は。
そこでふと、アレックスは自分の思考の方向性に気が付き、呆れたように小さく笑った。
(……いや、何をそこまで本気になって。あんなの、別に無視したって……)
『無視すんの?』
アレックスは、喉元にナイフを突きつけられたかのように音もなく息を止め、はたと目を見開いた。裏道を進んでいた足が止まる。
『無視して良いと思ってんの?』
「アレックス、どしたのー?」
ローズの嘆願を、記憶に苦しめられている王妃を見捨てることへの疑問が、アレックスの内側に冷たい楔となって打ち込まれた。その刺創から、見えない毒がぞわぞわと広がっていく。
アレックスの思考と意志をからめとっていく神経毒のように。
浮かんだのは、夢で見た母親の、最後の表情だった。
(できない)
アレックスは愕然とした。アレックスの身の内には得体のしれない義務感が焦燥感と共に湧き出てきていた。自分にそんな義務もなければ、それをすることによる旨味もなく、ただただ自分の身を危険にさらすだけだというのに。
それなのに、ローズができない以上、自分がやらなくてはならない、他の誰にも理解されない痛みなのだからと、アレックスの過去が、アレックス自身に迫ってくる。
自分の母親には別離という形でしか訪れなかった救済が、別の形で、おそらくは別離よりも完全な形で目の前にあるのにと、自分と同じ顔の脅迫者が強いてくる。
恐怖の対象がいなくなっても、自分がその母親だったという過去を変わらず抱えた女が、その後どうなったのかを、アレックスは知らない。
もし、生みの母の記憶を消せる方法があるなら、どうするか。
「……っ!」
こめかみを押さえたのは、打たれた額が痛むせいだけではない。
ローズの見立て通りだった。脅しも取引も必要なかった。アレックスに言葉をきかせるだけでよかったのだ。
それだけで、アレックスの行動は縛られてしまうのだと、ローズは知っていたのだ。
アレックスは思い知った。もし、ローズと同じように母が近くにいて、エネクタリアの薬の秘密を知っていたら、自分もきっと同じ選択をしたに違いないと。
それを、他人事として見過ごすことができないことまで、見通されていたのだ。
「あ!」
暗い思考の沼に嵌り始めていたアレックスは、足元から上がった高い声に我に返った。
視線の先の十字路に、見知った顔の男が立ち尽くして自分の方を見ていた。
「あ、アレックス様……ご、……ご無事で、あっ額にこぶが!?」
アレックスは、汗だくになったラスターが駆け寄ってくるのを、驚きに次いで訪れた申し訳なさと共に受け止めた。
さすがに、脅された騎士がなんと言い繕っていようと、待てど暮らせど王宮から出てこず、さりとて屋敷にも戻ってきていないアレックスの行方を心配して、己の足で捜しまわっていたらしい。その顔には疲労と安堵が広がっていた。
「悪い、ちょっと色々あってな。ところで、セシル帰ってきたか?」
「あ、いえ。セシル様は、まだ……」
「ああ、そう。いや、いいんだ」
途端に表情をくもらせたラスターに、それ以上は聞かなかった。王太子からの一報は、まだ家人には伝わっていないらしい。
「アレックス、帰るの? セシルも帰ってくるの?」
大通りに停めた馬車へと案内されたアレックスは、妖精の問いかけに小さく「そうだぞ。ほれ、乗んな」と周囲を気にしながら呟いた。いつもなら止める間もなくアレックスが乗る馬車に飛び込んでくる妖精が、どこか渋々と踏み台に足を乗せる。
「キーラ、会いたくないなぁ」
金の頭のピクシーはむくれたように呟いた。足取りだけは重たげながら、当然のようにアレックスの膝によじ登ろうとしたのを、アレックスはそっと押しとどめて隣に座らせることに成功した。
「なんで。セシルが竜と一緒だからか」
アレックスはそれをキーラから聞いたときには諦念に襲われた。竜と二人で行動するうち、アレックスとの取引の詳細を知るかもしれない。
それも仕方ない。ここまで隠し通せたのは、相手の鈍感さに救われただけだ。今頃、アレックスのために王太子への貸しを消費したことを後悔しているかもしれないと、苦く笑った。
「……ケルピー」
小さな足で座席を蹴りながら、妖精はむずがる子どもそのままに、体をよじらせた。甘やかしてほしいというように、金色の頭がアレックスの腕に擦り付けられる。
アレックスは嘆息した。友人を遠ざけられてすねているのだろうと推測したが、あの状況でもう一度轡を噛ませることは不可能だったとたしなめた。
窓の外に見えてきた伯爵家の外観を見つめる一方で、片手でなだめるように金の髪を梳いてやる。
「俺も一発撃ってるし、セシルもエリックも死ぬとこだったんだから仕方ない、だ、ろ……」
言い聞かせるように吐いた言葉は、窓の外の空に浮かんだ異様な影に気を取られたことで切れ切れになった。最後は無言になって、アレックスは目の下にしわをつくって、小さな影が近づいてくるのを凝視していた。キーラも伯爵邸近くの異様な気配に気が付いたのか窓を一瞥して、身を竦ませるとクッションの山に隠れるように頭をねじ込み始めた。
「着きました、アレックス様。……セシル様のお帰りについて、王宮に今一度確認してまいりますか?」
停められた馬車の扉を開けて、ラスターが心配げに申し出たのを、アレックスは断った。
「……多分、そろそろ戻ってくるだろ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。ただ」
眉尻を下げて王宮の方を見つめる従者の背後の庭に、赤い大トカゲが蝙蝠に似た翼をはためかせて降り立つのを見つめて、アレックスはぼそっとつづけた。
「酔い止めの薬だけ、さがしてやって」
竜の背中から転がり落ちた青い顔の長男の姿に、居合わせた庭師が大きく肩をびくつかせていた。
***
あの夢は、アレックスの記憶そのものではなかった。
別のイメージが潜在意識に混ざっていたのだ。無意識にみた、夢だったから。
(……母さんは、『妖精』だなんて言わなかった)
あの夢は、自分の記憶ではなくて、きっと――




