鏡ごし その2
扉が静かに開けられた。
わずかな間の後、白く丈の長い上着を羽織った男は中に踏み入った。宮廷に詰める医療従事者の姿である。
その手には、揺れる濃緑の液体が入ったガラスの水差しと、小さなグラスが置かれた盆が乗っている。
「失礼いたします。ええっと……薬のお時間、ということです」
扉の取っ手を持つ兵の言葉に、囚人は何の反応も返さなかった。明り取りのための窓は壁の高い位置につく部屋で、天蓋のついた寝台の上に座り込み、出入り口に背を向けていた。
静かに扉がしめられると、部屋には囚人と医師助手が残された。
「……置いて、出て行って」
囚人はひとりごちるように言い捨てるのみで、振り返らなかった。
硬質な音が小さく響いた。盆がテーブルに置かれた音だ。
それでも薬の届け人が立ち去らないことに気が付いた囚人が振り返る。はらりと、金糸が細い背中で揺れた。
途端、囚人の口は男の筋張った右手によってふさがれる。
驚きに、囚人の目は大きく見開かれた。
「……まったく、なんでこうなるかな……」
簡素ながら清潔で高級感のある、しかしながら窓の遠い、外に見張りのいる塔の部屋。
驚愕に叫びかけたローズを抑え込んで、アレックスは遠い目をした。
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時間は少し遡る。
「おい、妖精。傘の、そこのあんた」
騎士を脅したアレックスは王宮の廊下のはしで、傘を引き摺る妖精に背後からひっそりと声をかけた。
妖精はちらとアレックスの声に振り返ってから、興味なさげにまた歩き出した。
「待てじじい、あんたに聞きたいことがあるんだ。ここ最近、俺とは別に、王太子が閉じ込めた人間がいるだろ。そいつのいる部屋を教えて欲しいんだ」
妖精は、アレックスの声に足を止めて振り返ると、不愉快気に鼻息を鳴らした。
「そんなこと、なんで教えてやらなきゃならん。わしは子どもの安眠のためにしか動かんよ」
アレックスは視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。厚い瞼に潰されそうな金色の目に苦笑して、さらに言い募った。
「もちろん、ただとは言わない。妖精とのやりとりに、ちゃんと対価がいるってことくらいは知って」
「黄金は駄目だぞ。ろくでもない詐欺にあったばかりで、信用できないんでな」
アレックスは唖然とした。父からもセシルからも、妖精との取引でもっとも相手が食いつきやすいものとして金の名前が挙がっていたからだ。
(……だれだよ、妖精相手に詐欺なんか働きやがった不届き者は!)
まさか兄だとは知らないアレックスは目の下を震わせて苛立ちに耐えた。――セシルは妖精の口数少なさに命拾いしていた。
「……な、何ならいいんだ?」
「しつこい男だな」
オーレルゲイエはむすっと言い返してきたが、アレックスの必死さに思うところがあったのか、あごに小さな手をあてて考え始めた。
「……まぁ、そうさな。あんたの持つ物のなかで、一番希少価値の高いものと引き換えにならいいぞ」
アレックスはす、と頭の端が冷えていくのを感じた。口の端を上げて言われた言葉に、竜との取引を思い出した。
アレックスがどうにかできる物の中で、一番希少なもの、とは。
「この宮殿の東の塔、最上階の部屋だ。……さて、対価を貰おうか。おまえの」
とめる間もなく言い渡されて、アレックスは瞠目し、顔から血の気が引くのを感じていた。
妖精が、傘を持っていない方の手で、指で、アレックスの左胸を指し示してきた。
「おいっ、ま……」
竜は、絶対に履行できない取引を持ち掛ける。
人間にとって最も価値のあるものとは、――誰にでもあるものならば、それは生命そのものだ。
まだ承諾していないだろうがと、アレックスが状況も忘れて叫びかけた、そのときだった。
「その、ポケットに入っているものを」
「…………は?」
ポケット? アレックスはどくどくと大きな音を立てる心臓を落ち着かせるように、左胸を撫でた。
「あんた、何言って……」
ひとまず死ななくて済むならばと、アレックスは呼吸を整えながら懐を探り、手に当たったものを引っ張り出した。
そしてそれが何だったかと認識するなり、今度は自分の呼吸がひゅっと止まるのを感じた。
「いや、これは……」
口ごもるアレックスがそれを懐に戻すより早く、妖精の手がそれをひったくった。
「まだ竜がこっちの地上にも多くいた時代に、生粋の魔法使いが魔力を込めて織ったタペストリーだ。そうそう手に入らない一級品をこんなにぼろぼろにしおって、この価値がわからん奴にはもったいないものよ」
「ま、まて! 俺は承諾していない!」
妖精は慌てふためくアレックスが取り返そうと伸ばす腕を掻い潜って、舌打ちした。
「やかましい。ならわしが教えた情報を今すぐ忘れろ。そうしたら取引中止で返してやるさ」
アレックスはぐ、と奥歯を噛みしめた。なぜ王宮に出入りできる妖精がこんなにも敵意をむき出しにしてくるのかも、こんな強引なやり口が取引と言えるわけがないだろうことも、すぐには頭の中で整理できなかった。
加えて、近づいてくる足音が、アレックスの焦燥をさらに追い立てた。
「……くっそ!」
アレックスは立ち上がった。ここで捕まったら忍び込んだ意味がなくなるし、伯爵家も自身も今度こそただでは済まないからだ。
ほつれた竜のタペストリーが、こざかしい老妖精の懐に仕舞われるのを、アレックスは忌々し気に目に焼き付けてその場を離れた。
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「……王太子の客人って……新しい虜囚って、そっか、あんたか……」
冷静さを取り戻したローズからゆっくり手を放すと、アレックスは苦虫を噛み潰したような顔でひとりごちた。
アレックスはエリックのつもりで聞いたのだが、妖精はわざとか否か、別人の部屋を教えたのだ。アレックスの方も目的の相手の名前を言わなかったのだから仕方ない。
見張りの兵士が、アレックスの時と異なり部屋の外にいたのは、何をするかわからない魔法使いの子孫と、事情を知っているだけの一般人の違いだと思っていた。実際には、身分高い女性が囚人だったことが大きな要因だと思われた。
「……なにしに来たの」
「うるせぇな、来たくて来たわけじゃない」
アレックスは寝台の上から降りながらローズの方を睨んだ。第三王子に連行された後、王太子によってここに閉じ込められていた女は、思わぬ侵入者に警戒心もあらわだった。紫の瞳がすばやくアレックスの全身と、サイドテーブルにおかれた盆に向けられる。
「その白衣、医務局から盗ってきたのでしょう。ばれるのは時間の問題よ」
「長居なんかしないし、そもそもあんたに用はないって言ってんだろ。エリック・ジョナの部屋探してたんだよ、こっちは」
アレックスはエリックに、聴取でいったい何を言ったのか確認し、場合によっては裁判前にこれ以上余計なことを言わないよう伝えにきたつもりだった。もちろん容態の確認も兼ねていた。医務局で棚の外に置かれていた強い酒が気付けに使われるものだとわかったとき、エリックが強制的に意識を浮上させられたのだと察せられたのだ。
ローズについても、どこにいたのか、真相についてなど気になることはあったが、ここで話し込むのはアレックスには危険過ぎた。すぐにここを離れて、エリックの部屋を探しなおすか、諦めて帰るかを決めるべきだ。
「……あの薬は」
ローズの問いかけに、アレックスは寝台から離れながら投げやりに返す。
「鍵のかかってない棚に入ってたから、そう劇薬でもないだろ。なんだか知らないけど、飲みたきゃどうぞ」
「毒じゃないの?」
オーレルゲイエを捕まえる算段を考えようとしていたアレックスは、ローズの疑念に満ちた言葉に振り返り、思わず暗い嘲笑で答えた。怪我を負ったエリックの部屋に入るための小道具だったが、どうも深読みされたようだなと。
「俺に殺されるほど恨まれてるっていう自覚はあるんだ?」
ローズはアレックスを横目で見返したが、その顔に怯えは現れていなかった。
両者互いに冴え冴えとした目で睨むとも見つめるともいえない視線を送りあう。
「その言い様だと、ここで殺す気はないのね。好機だとおもうけど」
「あいにくというか、あんたにとって幸いというか、俺はここで罪人としてつかまる気が無いからな。あんたはどうする気だ? 俺たちを狙った咎で、非公開裁判が始まるそうじゃないか」
その言葉に、ぶつかり合っていた視線は一方的にそらされた。
俯いたローズは、伏せた睫毛にも、閉じた唇にも悲壮感はなく、静かに運命の沙汰を待つ横顔を見せていた。何を考えているのかまでは、アレックスには読みとれなかった。
「夜盗の一件はあんたじゃないんだろう。仲間ともいえないような奴の罪まで被る気か」
「……セシルと意見共有してるのね」
笑みを含んだその言葉に、アレックスはセシルがローズにある程度話していることを悟った。
(脅迫されてるってこと、否定しないのか)
「よかったじゃない、兄弟仲直りできて。私の反対を押し切って名乗り出たかいもあったということね」
その言葉に、アレックスは目の下にしわをつくって不快感を示すにとどめた。
「そうやって、わざと怒らせて、真相から目を逸らさせたいかよ」
窓からの光に、無言の女の髪が照らされる。王妃やレナードと同じ、輝くような金の髪だ。
その内側、俯いてできた金の帳で、横顔は暗い影に覆われていた。垣間見える瞳の色が、色濃く見える。
「……密告の封書のことは聞いたのか」
ややあって、金色の頭が小さく上下する。
ならどうしてと、アレックスに戸惑いと苛立ちが沸き上がった。
「脅迫者は明確にあんたを切り捨てにきた。この期に及んで、まだ真相を隠してどうなると? それとも、新たな計画の指示でも受けたのか」
「……」
「……あんたひとりで罪被って贖罪ごっこか? こっちの従者の処遇もかかってんだけど」
アレックスは再び寝台に近寄った。ローズの肩に手を置く。宥めるためでなく、逃がさないためだった。
「あんたの背後にいるやつが、そんなに恐ろしいか? いや違うな、怖いのは、そいつに握られた秘密の方だろう。だから、自分より身分の低い者の脅しに屈したんだろうが」
ローズは、強張った顔で固く口を閉ざしたままだった。しかし、否定は出てこない。
もしかしてと思い当たり、アレックスは厳しい視線で再び問い詰めた。
「逃走中に、そいつと会ったのか」
「っ、まさか」
不思議なことに、言い当てられたときに肯定はしづらくても、的外れな内容に対する否定は即座にできる。余裕がない女には、それも思い当たらないようだった。
新たな指示は受けていないと、アレックスはすこし胸をなでおろした。その逆に、その一つ前の問いへの無言は肯定とみて間違いないと、思考の片隅に付け加える。裏打ちされる脅迫者の予想に、アレックスの表情には苦いものが一瞬走った。
同時に、ますます異様な話だと思った。生まれと立場によって形作られた傲慢なローズが、他人との打ち合わせなしに、一方的に冤罪をかぶることに甘んじようとしている。何を掴まれたら、ここまでこの女を従順に出来るというのか。
「……エリック、あの従者はこの塔ではなくて、別の場所にとらえられているわ」
考え事に耽っていたアレックスは、突然もたらされた情報に驚いて眉を上げた。ローズが続けた場所に、アレックスは瞬時に宮殿内の抜け道を使った最短経路を描く。
しかし、疑う気持ちも隠しようがなかった。
「本当よ、少なくとも、私をここに収容すると決めたときは、そこだった。お兄様はライオネルと私を前にして、どこの部屋を使うか随分悩んで、……側近の家を使おうにも、ヘンリック殿が信用できなくなったせいで、口にはできなくてもちょっと疑心暗鬼になってるみたい」
アレックスは眉根を寄せたまま「なんで知ってる」と確認した。
「……なんでか、当ててみて。魔法使いでしょ、ロッドフォードの」
俯いたままだったローズが顔を上げた。金の帳の狭間をすり抜けた光が瞳に反射してアレックスの目に映る。
その光に、アレックスはぞっと背筋が粟立つのを感じた。
悪寒だった。
アレックスは立ち上がった。長居はできないと、自分で言った言葉を言い訳に、今度はアレックスがここから逃げようとしていた。どうせ直接問いただしても、知りたい答えはろくに得られないのだ。
しかし、さっきまで肩を押さえられていたローズは、今度は逆にアレックスの手首を掴んできた。振り払う前に、「大声出してもいいのよ」と言われてしまえば、アレックスは動きを止めざるを得なかった。
「……セシルが言ってた。妖精と魔法使いの関係は、対価を交換し合う取引によって成立するって」
嫌な予感がひたひたと背筋を這い上ってくる。ついさっき、オーレルゲイエの前で感じた焦燥と同じ感覚が皮膚の下を駆け巡るのを、アレックスは感じた。
勝手に対価を押しつけてお前も対価を払えとは、強盗とそうかわらないだろうと嫌悪に塗れた目で睨みつける。
ローズは、さっきまでの冷やかさとは異なる、どこか固い意志を感じさせる目の輝きを返してきた。
場違いなそれが、アレックスには言い様もなく不気味だった。
「エリック・ジョナの居場所、ただで教えてもらえると思わないで。私の話をここできいていって」
「……きくだけだな」
早く言えと急かす。自分の利益にならないなら、記憶にとどめないつもりだった。
「セシルに、お酒の残りを渡したの」
「……酒?」
なのに、予想外の言葉の羅列が出てきて、アレックスは訝し気に繰り返してしまった。
そして、口に出した瞬間、それがヴィレイ侯爵の魔法薬のことだと思い当たった。
「それを、飲ませてきて。……何を忘れさせるか、準備はできてる。飲ませるだけでいいの」
誰に、ということを告げられたとき、アレックスは今度こそ手を振り払い、そして相手の胸倉を掴んだ。
瞬間的に沸き上がった怒りと混乱が大声に変わるのを、間一髪、喉元近くで押しとどめ、代わりにごく抑えた声音で吐き捨てた。
「……ふざけるな、なんだそれ。実行したら、俺の方こそただじゃ済まないだろうが。自分の没落に、本気で俺まで道づれにする気か」
胸元を引っ張られて僅かに上体を反らし相手を見上げるローズは、間近に迫る殺意にも似た怒気にも表情ひとつ変えなかった。
「……私だって、こんなところに閉じ込められてなければ、どんな手段を使ってでも自分でやり遂げたわ。アレックス、あなただってきっとそう」
「何を」
「あなたも、立場が逆なら、同じことをする。ちゃんときいて、考えてみて。――もし、生みの母の記憶を消せる方法があるなら、どうするかと」
アレックスの沸騰した頭に、静かなローズの言葉がしんと沈み込んできた。女の白い手は、男の拘束を緩めるためではなく、重ねるために添えられた。
(……母親?)
聞き流そうとした言葉は、アレックスが奥底に沈めた記憶を引きずり出した。
長い、黒い髪。一緒にいると、誰もが親子だと、そっくりだと笑っていた。
小さな子どもを抱え上げる女自身、笑っていた。
『駄目よ、アレックス』
仕事場の裏で待っていた小さな息子に、たしなめるように言われた言葉。悪戯しないで。嘘つかないで。周りの子を虐めないで。
悪魔と話さないで。
「アレックス、こんなこと、あなたにしか頼めない」
ローズが言葉をつづける。アレックスは既に相手の服から手を放していた。
しかし、女が両手で縋るように、その右手を握っていた。
「母と子どもの間にだって、忘れた方がいい記憶があるって、世界で一番あなたがわかってる。愛されて生まれてきたのに、いるだけで母親を苦しめる子どもがいるってことを、あなただけが身を以てわかってる」
アレックスは言葉を遮ることも、聞き流すこともできないでいた。
ローズもまた、あふれ出る言葉を止めることができないでいた。
「大事な人には、幸せな記憶以外、忘れてほしいという気持ちを、世界で唯一、私とあなただけが共有してる」
途切れ途切れの言葉は告解だった。
「……何を……」
男の、呆然としたかすれ声に、ローズは答えなかった。身勝手さはどうあがいても治らない。
ただ唯一の目的のために、自分の人生も相手の人生も狂わせられる女の身勝手さは、そうそう治らない。
「瓶をなんで咄嗟にセシルに渡してしまったのか、無駄なことをしてしまったと思ったわ。でも、今日まで響いたあの日の失態が、今の私の絶望を救ってくれるんだって気が付いたの。全部巡り巡って、私の目的は果たされる。脅迫者なんて関係ないわ、これだけ達成されれば、あとはもうどうだっていい。一生閉じ込められることになっても……明日、死んでも仕方ない」
あなたを殺さなくて良かった。女は”あの日の失態“について、そう言ってかすかに口の端を上げた。嘲りでも冷笑でもない、小さな歓喜の笑みだった。
アレックスの脳裏ではずっと警鐘が鳴り響いていた。相手は本当の妖精ではないのだ。殴って気絶でもさせて、ここをすぐに出ればよかった。
そう思っても、紫の瞳に射すくめられたかのように、アレックスは動けなかった。
相手の言っていることの真意が、考えていることが、痛いほどにわかるからだ。理解ではなく、実感だ。
おそろしいほどに、悲しいほどに、――相手は、自分自身なのではないかと錯覚するほどに。
(もしも、あの人から、悪魔の子どもの記憶を、消せるなら)
アレックスは、母親を恨めなかった。同時に、その跡を追えなかった。今でも、行方を捜すことなんてできなかった。
自分から逃げきれたと思っているなら、それでよかった。煩わされなくてすんだのなら、それでよかった。
よく頑張ってくれたと思っていたからだ。
母に愛されていた時間を知っているからこそ、怪物を生んだ絶望に苛まれる姿はもう見たくなかった。
「お願いよ、アレックス・グレイ」
ローズの嘆願は、アレックスの魂に訴えかけてくる。彼女は王女であり、公爵夫人であり、アレックスとは偶然出会っただけの他人であるはずなのに。
その言葉は、無自覚だった願望と重なって、毒のように沈み込んでくる。
アレックス・グレイという、ある無知な女の息子の魂に。
「お酒を、お母様に飲ませて。私じゃなくて、お母様のために」
見つめあう二人の間には、鏡がある。
二人は互いに互いを映し出し、そこにある感情を互いにだけ自覚させている。
心の根底にある、重い自己嫌悪を。




