鏡ごし その1
王宮の一室に閉じ込められて一睡もできなかったその翌日、アレックスのもとには思わぬ来客が二度あった。
『オリエット伯爵夫人より、差し入れでございます』
そう言って渡された箱には、アレックスには渋い色味の、腹周りが緩い服が詰められていた。
王宮に泊まったのは自分だけではなかったと思い当たって、湯浴みを終えたアレックスは衝立の後ろで伯爵宛てと自分宛ての箱を間違えたことに気が付いた召使が戻ってくるのを待った。
意外と太っているのだなと、浴室着のままのアレックスが遠慮なく箱の中身を物色していたとき、思わぬものが混ざっているのに気が付いた。
『……げ』
箱の中には、服以外にも伯爵が執務室に置いているものがいくつも詰められていた。手帳、ペン、書類の入った筒、チーフが複数。それらは箱の中に入れられていた小さなカードに書かれたメモ書きの内容と一致していた。見覚えのある筆跡は伯爵自身のもので、夫人にむけて必要なものを書きつけたのだと推測できた。アレックスにも着替え一式を届けるよう書いてある。
アレックスは、そのメモに書かれておらず、しかし箱の中に入れられていたものに目を向けた。
ぐしゃぐしゃになった、むき出しの竜のタペストリー。
(……事故だろうけど、あっぶな)
アレックスは、伯爵も夫人も意図しないうちに手帳と冊子の間に挟まっていたタペストリーを回収した。召使がこの箱をさらに別の客人のもとに運んでしまったときに備えてだった。
それが、朝早くの出来事。青ざめた召使はほどなく戻ってきた。
次の客人は、アレックスが身を整えて無言の食事を終えた後にやってきた。
『フレイン公爵夫人が、あなたとお兄様を殺しかけたそうですね。何があったのか、教えてくれますか?』
そう言った女はノートン家の現当主、フレンディア伯爵ルクレシアと名乗った。
優し気な声音に、アレックスは眠気も忘れ、却って警戒心を芽生えさせた。この話を知っているのは当事者と王妃だけであり、王妃は隠したがっていた話だからだ。
だから慎重に、当たり障りのないことを答えた。
『恐ろしい目に遭ったことはありますが、いったいどれのことでしょう。公爵夫人に直接何かされたことはほとんどありませんが』
セシルも一緒に殺されかけたといえば、強盗の一件か、つい昨晩のケルピー騒動のどちらかだと見当がついた。ローズに直接殺されかけた覚えはアレックスにのみあったが、余計なことを言って事態を一層ややこしくする気はなかった。
『……理由に心当たりは?』
『夫人に恨まれる理由ですか? もしかすると、夫人と俺が親しくしていることを、セシルに二人そろって詰られたことが、何か関係しているのかも』
アレックスはすっとぼけた。女伯爵は一瞬目を見開いたが、疑ったわけでは無く、“なんて愚かな若者たち”と呆れたのだろうことは明白だった。
女伯爵はすぐに話を切り上げ、いかにも罪の告白をしたとばかりに萎れるアレックスに『若気の至りもほどほどになさい』ともっともらしく釘を刺して去っていった。
(オリエット伯爵が王家に強く出られないこのタイミングなのに、俺への聞き方がずいぶん優しいじゃん)
ローズとアレックスたちの間に、具体的に何があったのかはまだ分かっていないのだと察せられた。
(俺付きとはいえ、ラスターはろくに事情を知らないから、聞かれても何も話せないだろうけど)
アレックスは自分付きとは別の、栗色の髪のもう一人の従者のことを考えた。
後ろ暗いことが多い彼が、まだ目覚めていないと良いと思った。
それが、舞踏会翌日のこと。
明け方の密告に、魔法使いの子孫と王族が忙しなく情報を集め、消えた公爵夫人と伯爵子息の行方を追って隠し通路が開かれた日のことだった。
アレックスは、その夜も考え込んで、やはりろくに眠れなかった。
***
そして翌朝。
血筋が貴族の直系を汲んでいても、アレックスは貴族として生まれていないし、貴族として育てられていない。ローズを別にすれば、王族と二人きりで話すことはありえない僥倖であるはずだった。
その幸運に、アレックスは気まずさと緊張感を伴って向き合っていた。
「昨日はどうも、ルクレシアに協力してくれてありがとう。……ええっと。まず、セシルとローズの居場所がわかった。……ああ、ごめん、順を追って話そうか。実は舞踏会の深夜から、きみのお兄さんが行方不明だったんだよ。フレイン公爵夫人と同時に、ね」
言い直さなくても、アレックスはローズが消えたことも、セシルがそれを探しに出たことも知っていたのだが、そんな情報がどこからどんな意図でもたらされたのかを教えるわけにいかないので、大仰に驚いたふりをする。
それよりも、目の前の肘掛け椅子に座った王太子の様子に、アレックスは目を瞠っていた。
いつも溌剌とした美丈夫のいで立ちで公に出ていたレナードだが、今の彼は目の下のくまも濃く、オールバックに撫でつけている髪が乱れていく筋か額に落ちてきている。組んだ膝に片肘をついて手元の紙を眺めながら話す言葉は、その内容に反してどこか苛立っているように聞こえた。
「昨日の明け方、妙な封書が届けられた。ローズが君たち兄弟を害そうとしたという内容でね。それで事情を確認しようとしたらまぁローズはどこにもいないし、セシルもいないし、セシルを連れてこの部屋を出たという母上は何が何だかわからないというし」
アレックスは何も言わずに聞いていた。封書の出所について考えながら。
「きみたち兄弟の銃持ち込み・発砲と侯爵の大けがのタイミングということも踏まえ、消えた二人がよからぬことを考えているのかと、仕事中のライオネルにも連絡して……、まぁそのへんの忙しさはいい、アルバートにでも聞いてくれ。で、さっきライオネル以下三家の当主がローズを捕まえてきてくれたところだ。結果的に、セシルは共犯ではなく、どうも一人でローズを追って逆に人質になってたらしい。……まだ彼は王都に帰ってないが、けがはなかったという報告がきたから、そこは安心してほしい」
疲れ切った様子のレナードに、アレックスはなんと言葉をかけるべきかわからなかった。
舞踏会の夜に大騒ぎを引き起こしたのは自分とセシルだ。その後の密告とローズの失踪だけでも大ごとなのに、大目に見たセシルにさらにひっかき回され、その上共犯の可能性まで浮上していたなら、ロッドフォード家を強引に庇ったレナードの立つ瀬がない。二日前の発砲騒動から、アレックス同様ろくに寝ていられなかったのだろう。
(人質なぁ……)
女と一対一で向き合って人質になったと思われても疑われない青年の情けなさに、アレックスは片手で額を覆った。
「……きみ、セシルとダンリールへ視察に行った帰りのエデの町で、強盗事件に巻き込まれていただろう。オリエット伯爵家の名前は出てこなかったが、バーティミオン商会の名前が出てきた」
「それが、公爵夫人の差し金だったのですか。たまたまごろつきに狙われたのかとばかり」
「その盗賊の行方が分からなくなっている。目撃した警吏や共犯の店主の証言が支離滅裂ということだが……」
レナードの青い目が、睨みつけるようにアレックスに向けられる。
もはや遠回しに疑うという気力もない王太子に同情しながら、アレックスはしれっと「行方は分かりません」と言った。
「……」
「本当です。誓って、嘘はついていません」
言葉のとおり、嘘ではない。引きずられていった血まみれの強盗団が、その後どうなったのか、アレックスもセシルも、スカーレットも知らないのだ。“おそらく死んだだろうな”と推測できるだけで。
「エリックとかいう従者は、いろいろ叩くと出てきそうだけどね?」
低い声に、アレックスは「彼は兄の従者ですから、俺にはよく」とはぐらかした。予想の範疇だったが、どうも余計なことを言ったらしい。エデの件は、エリックも殺されかけたのに。
レナードは視線を紙の上に戻すと、長い溜息をついて「そうか」とそれ以上の詮索をしてこなかった。
「……ヘンリック殿は義母君の件で、なんと?」
迷惑をかけているという罪悪感を棚にあげて、アレックスはしゃあしゃあと訊いてみた。レナードは椅子の背もたれに体を預けて眉間に深く皺を寄せた。
「なんにも。今は自宅謹慎中だ。十月裁判でローズの処遇が決まるまではね」
そう言ったときのレナードの顔の苦々しさに、アレックスは王太子の焦燥の理由の一端を垣間見た。
アレックスは、ローズの抱える秘密に、ヘンリックは協力していなかったと思っている。つまり、ろくに事情を知らなかったと。
ローズの不可解な行動について、王太子はヘンリックにも事情を聞いたことだろう。それでろくに情報が出てこないとなれば、かえって疑いは深くなる。レナードからすれば、妹にも側近にも裏切られた気分だろうと推測するに難くない。
「裁判には、公爵やヘンリック殿も証人として呼ばれるので?」
「……知らないのなら教えておくけど、十月裁判はよほどのことが無ければ、魔法使いの子孫とその関係者以外を召喚することはない」
あくまで、ヘンリックやその父親が魔法の名残の関係者だということは伏せるようだった。アレックスは「そうでしたね、失礼しました」と大人しく引き下がる。
王太子は、アレックスの揺さぶりには気づいていないようだった。あまりの余裕のなさに、すこし寝た方がいいと思いますよとは、アレックスは口に出さない。
「エリック・ジョナは裁判前日まで治療もかねて宮殿で見張らせてもらうけど、君には、父からもう帰宅許可が出ている。銃は追って伯爵に返すが、今後似たようなことがあっても同じ対応はできないということを、伯爵と兄上と君自身、よく覚えていてくれたまえ」
そう言って立ち上がったレナードに、アレックスも立ち上がって謝罪と礼を言った。アレックスが見せる生真面目な様子に緊張感を感じとってか、そこでようやくレナードの目元が幾分和らいだ。
「……ま、私の言えたことではないが、痴情のもつれもほどほどにな」
若干の間を挟んでから、アレックスは「肝に銘じます」と唸るように呟いた。
嘘の種類を選べばよかった。腹立ちまぎれに、すこし後悔した。
(……エリック、意識が戻ったのか)
彼はセシルに忠誠を誓っているが、同時にアレックスに対しても誠実でなければならなくなった。
ダンリールでのことを思えば多少の痛い目に遭ってもなんとも思わないつもりでいたが、さすがに心配が頭をもたげた。
彼が死にかけたのは、アレックスとの契約が理由ではないとはいえ。
「アレックス様、こちらへ」
兵の先導で部屋を出たあと、アレックスは人気の無い廊下を暫く歩いた。そのうち、アレックスはまっすぐ正面の門に向かうのではなく、わざと人の通らない道を進んでいると気が付いた。
西の塔に直通する空中廊下を通り、螺旋階段を下る。途中、畳んだ傘を引き摺るように歩く、老人のような容姿の、小さな妖精とすれ違った。
(……夜に忍び込んでくる奴)
傘を持つ妖精は、修道院にいたころはよくよく夜中に見かけていた。当時は悪魔が忍び込んできたと震えたものだが、いつの間にか見かけなくなっていた。
「……おや、どこかで見たような顔だが、これも大人か。まったく、王太子の客人は子連れが全然いないからつまらないな」
アレックスの方を見てぼやいた妖精は、そのまま去っていった。王宮に入れるとは、気性の良い種類なのか。アレックスは意外に思いながら地上階で兵士から別の男に引き渡された。
騎士姿の男に兵が敬礼をして去っていく。
ふと、彼らはいったいどのような命令を受けて、自分を送るのだろうとアレックスは疑問に思った。舞踏会の夜のことを忘れたまま、機械的に動いているのか、それともこのあとすべて忘れさせられるのか。もしくは、厳重に口止めされた特別な兵や騎士たちなのか。
気疲れもあってか、アレックスは普段はしないように、相手の顔をまじまじと凝視していた。
灰色の目にじっと――本人としてはぼんやりとだった――見つめられて、訝しげだった騎士の顔が、はっと目を見開いてから、徐々に固まっていく。
「……あ」
すまない、と、アレックスは自分の無作法に気が付いて謝ろうとした。
だがその時になって、目の前の男が異様に青ざめていることに違和感を覚えた。額に浮いた汗は、真に気候によるものだけかと疑う。
怪しんだアレックスは、騎士の揺れる目が一瞬自分の背後に向かったことを見逃さなかった。
アレックスは振り返った。しかし、そこにはふたつ、扉が並んだ壁があるだけだった。
アレックスは不可解さを隠さずにもう一度騎士の方に向き直った。騎士は相変わらず青ざめ、汗をかき、さらには小刻みに震えていた。
そのときアレックスは、ヴィレイ侯爵は西の塔につながる空中通路で襲われたということを思い出した。
(もしかしてこいつ、何か、舞踏会の夜のことを知っているのか)
「……二日前の夜、あんたここにいたのか」
アレックスの低い声に、騎士は一度大きく震えたが、それから強く目を閉じ、息を吐いて、観念したようにぽつりとこぼした。
「……申し訳、ございません……」
アレックスは逸る鼓動を落ち着かせ、真剣な顔で騎士の口から続いた懺悔に耳を傾け――直後、期待したことを後悔した。
「……」
「ど、どうかこのことは……! 業務時間中に抜け出したのは、あの夜が初めてで、そして最後であると神に、この身に誓います……!」
「…………」
アレックスはそのとき、疲れ切って相手を力なく眺めていただけだった。女恋しさにさぼった騎士のことなぞ心底どうでもよかった。
ただ、彼の切れ長な灰色の目は、半眼で光もなく一点を見つめているとき、自身が思っている以上に酷薄な印象を与えるものだった。
よほど後ろめたかったのか、騎士は断頭台に上った罪人のような顔でアレックスの言葉を待っていた。
「……」
あんたの誓いなんぞしらねえよと言いかけたアレックスは、ふと、その場に自分とその騎士しかいないことに気が付いた。
アレックスは騎士の青い顔を黙って眺めた。男は今後の自分の仕事のことを考えてか、顔からどんどん生気がなくなっていく。
「……正直感心しないよな。あんな事件があったのに、持ち場を離れてるってのは」
「はいっ、もうしわけ……え、事件?」
きょとんとした相手に焦ったのはアレックスの方だった。アレックスは自分の動揺を押し込めるためにわざときつく相手を睨んで誤魔化した。
どうやら、怯えて目を逸らした相手は発砲騒動のことを忘れたままアレックスの送り出しに従事しているらしい。
「マグノリア殿下も帰ってきてるってときに、だよ」
「お、仰る通りです……!」
縮こまる騎士に、まぁ、でも、とアレックスは声を潜めた。騎士の絶望しきった目がアレックスの方に向く。
「反省しているようだし、黙っててやってもいい」
ただ。
続けられた言葉に、哀れな騎士は頷くしかない。
人に言えないことはするもんじゃないな。自分を棚に上げて、去っていく騎士の背中に、アレックスはしみじみ思ったあと、ついさっき下りてきた階段を今度は上り始めた。
***
残念ながら、血筋が貴族の直系を汲んでいても、アレックスは貴族として生まれていないし、貴族として育てられていない。
助けられたことには感謝していたが、敢えて言うなら、王家はもっと早くアレックスを助けるべきだった。
彼が、王家に深い恩を感じ、固い忠誠を心の底から誓えるような、素直な時期に。
記憶の中の王太子の疲れ切った顔に申し訳ないと思いながら、帰れと言われた王宮内を闊歩するのに、アレックスはあまり躊躇しなかった。




