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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第九章 渦巻く思惑動き出す夜
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嫌な夜

 セシルは背後で閉まった荘厳な模様の扉を振り返った。


『……公爵夫人のご様子は、いかがですか』


 礼拝堂から出る直前、思い切って尋ねたことに、見送りに近づいてきていたクリステはきょとんとしていたが、祭壇近くに立っていたレナードが苦笑しながら答えてくれた。


『宴の途中で姿が見えなくなったから、帰ったのかもしれないな。あの子は、姉上とはもちろん、ヘンリックともあまり仲がよくないみたいだから』


 セシルがローズを気にしていることを、レナードは分かっている。その本当の理由には思い当たらなくとも。――少し前までは、レナードの読み通りだったから、あながち間違いでもない。


 そうですか、とセシルが返した時には、もうレナードはセシルに背を向けていた。怪訝な顔をしつつも外へ出るよう促すクリステの誘導するまま、セシルは礼拝堂から追い出された。この中に秘密の会議場につながる入り口があるのだろうが、今はそれを考える時ではない。


 公爵夫人の居場所にレナードが無関心なのは、ローズがこの騒ぎに巻き込まれていないことを示していた。公爵夫人自らが身を隠し涼しい顔で帰ったのだとしたら、それはそれで予想の範疇だった。

 しかし、気がかりもあった。ユニコーンだ。


 ケルピー以上に希少で、さらに森や岩場など、人の気配のないところに棲みつく妖精が、なぜここに現れたのか。そして、なぜ王宮敷地内に入れたのか。

 終始アレックスとセシルのしたことばかりを問われているが、あのユニコーンの被害者は出ていないということか。

 開かない扉を見つめるのをやめ、セシルはクリステに指示された道順で王宮の出口に向かおうと一歩踏み出した。頭の中は、アレックスと伯爵家の未来に関する不安と、妖精とローズの行方に関する疑問で満たされていた。


 しかし、その足をすぐに止めるような光景を、廊下の先に見つけた。


「……セ、セシル従兄様……」


 礼拝堂から居住館へとつながる廊下、その端に、困り顔のブルネットの少女と、その横に疲れ切った顔の眼鏡の貴公子、そして、すみれ色のドレスに身を包み、扇で表情を隠した貴婦人が立っていた。


「な!? ス、スカーレットがどうかしましたかっ?」


 思わぬ迎えの顔ぶれに、セシルは気が動転して慌てて走り寄った。なぜ彼女が帰っていないのかより、なぜこの人間たちに連れられているのかという衝撃の方が勝った。


「……まず、お加減はいかがですか、セシル殿」


 不機嫌ともとれる低い声で、息を深く吐くのと同時に訊ねたのはヘンリックだった。セシルは「だ、大丈夫ですが、これは一体なんですか」と説明を求める。


「従兄様、あの」

「あらまぁ、あなたが言ったのでしょう。わたくしに会いたい、と。それでこちらから王宮の中を探して歩いていたところだったのに。……それとも、目的の相手を妹の方と勘違いしていたのかしら」


 スカーレットの声を遮るように、扇の向こうから声がした。ヘンリックとは対照的に、その声は上機嫌な響きを伴っている。


「リリーがお望みなら、明日もう一度王宮に会いにいらっしゃい。今日は、少し飲みすぎたみたいだから」


 セシルは戸惑いつつも、扇の貴婦人に対し、挨拶の姿勢をとった。――貴婦人より一歩下がった場所にいたスカーレットが『挨拶して』と口の動きだけで従兄を急かしたからでもある。


「……まさか、このようにご挨拶する機会を得られて光栄に思います。……マグノリア殿下」


 満足げに薄青の瞳が細められる。相手が慣れた調子で手の甲を差し出してきたので、セシルは慣例に従ってその手を取り、軽く唇で触れた。


「こちらこそ。では、ヘンリック、引き留めてわるかったわね。お仕事でも逢引きでも、お好きにどうぞ」


 気まずそうに視線を逸らしていたスカーレットと、仏頂面を隠さないでいたヘンリックが驚きの顔で王女を見る。


「……いえ、殿下。わたしも共に話を聞きましょう」


 ヘンリックの申し出を「あらあら」と笑い、王女は愉しげな余裕を崩さずに拒絶した。


「心配しなくても二人っきりにはならないわ。そのためにわざわざこのお嬢さんをここまで引っ張ってきたのだもの。さ、何やら急いでいたではないの、はやくお行き」


 セシルは急いで頭を稼働させた。すっかり頭の中は先程の騒動一色だったのだが、マグノリアと直接話せるまたとない機会である。

 どれくらい事情を知っているか定かではないが、次がないかもしれない尋問を邪魔をされたくないので、セシルもここはヘンリックには引き下がってもらいたかった。


「……その前に少々、セシル殿にお伝えすべきことが」


 にわかに緊張し始めたセシルの肩を強くつかんで、ヘンリックは二人の淑女から離れた。引きずられたセシルは何事かとその眼鏡の奥の瞳を見返す。


「……何が目的かは問いませんが」


 王女とスカーレットには、絶対に聞かれたくないとわかる、限界まで絞られた声量に、セシルも必死に耳を澄ます。


「決して、王女に魔法や妖精のこと、『六家』のことを尋ねないで頂きたい。……というか、聞いたところであなたが変人扱いされるだけです。あの方は、もう何も覚えていらっしゃらないのだから」


 セシルは「は?」と思わず声に出して聞き返してしまった。

 しかし、言いたいことだけ言って気が済んだのか、公爵子息はセシルの肩から手を放し、王女とスカーレットに一礼すると、先程セシルが通ってきた渡り廊下へと去っていった。


「……は?」


 再び、セシルは答えてくれない背中に戸惑いを投げかけたが、無駄だった。

 そのセシルの腕に、ドレスと同じ色の手袋に包まれた手がするりと絡みつく。


「さ、歩きながら話しましょう。長男の方はあまり印象にないと思っていたけれど、存外かわいらしい顔立ちをしているではないの」


 ヘンリックに出鼻をくじかれ、セシルは混乱していた。助けを求めるように背後からついてくるスカーレットの方を見やる。

 しかし、彼女もまた途方に暮れたような顔をしていた。あくまで父親の客であり、スカーレット個人が親しく口を利ける相手ではないというように。

 そもそも、セシルはマグノリアへの疑いをスカーレットには話していないから、スカーレット自身、セシルがマグノリアと会いたがっているときいたときからずっと混乱の渦中にいたのだと、セシルは思い当たった。


 慌てる若者二人の様子に頓着せずに、王女はセシルをやんわりと引っ張るように歩き始めた。王女には人目を避けるつもりが無いのを示すように、途中何人もの侍女と行き合い、膝を折って礼をするのを肩身の狭い思いをしながら見つめた。


「で、殿下……あの、どこに」

「……そうねぇ。おまえの喜びそうなところ、とでも言っておくわ」


 セシルに身を寄せる王女の顔に、蠱惑的な表情が宿る。

 セシルは再び振り返った。今度は別の助けを求めるように。

 スカーレットは青い顔で首を振った。観念するしかないとでもいうように。



 ***



 階段を上り、しばらく廊下を進み、角を曲がることを繰り返していると、セシルは廊下に侍女や護衛が立っていないことに気が付いた。


「……ここは、人払いがなされているのですか」

「そのようね。よかったではないの、わたくしと話したいことがあるのでしょう?」


 セシルは自分とほとんど変わらない背丈の王女の横顔を見た。王女は揶揄うように口角を上げて、視線だけでセシルを見返した。


「一度も話したことのないおまえが、突然わたくしに会いたい、お近づきになりたいだなんて、不自然も良いところね。わたくしには、この国の次期伯爵を決定する力などないというのに」


 無論、セシルの頭にはヘンリックの念押しが色濃く残っていた。

 だが、セシルは自分がこの王女と会おうとした理由もまた、決して忘れていなかった。


「あの、殿下はフレイン公爵夫人と、親しくされていますよね?」

「していないけど?」


 セシルはまた出鼻をくじかれた。

 とはいえ、この王宮内には妖精があまり歩いていないから、嘘かどうかは判別しずらい。


「……親しくはなくとも、苗の贈りあいなどされたのでは。コルメルサは、ブランデンでは育たないような珍しい植物も育つでしょうから」

「おまえやはり、話す相手をリリーと間違えたのではなくて?」


 セシルは眉を寄せた。

 こんなにも堂々と誤魔化されては、それ以上は聞きずらかった。

 セシルは、慎重に言葉を選ぶ。ヘンリックの言うことは、都合の悪いことを王女の口から話させないためのはったりかもしれないと思いながら。


「…………コルメルサは暑い土地とお聞きしますが、避暑などにはどこに行かれるのですか。ブランデンの王領であれば、ダンリールなどは比較的涼しいと言いますが」

「あんな田舎で何をしろと。森で狩りでも? 晩餐に呼ぶ貴族もいないような場所で」


 セシルは三度振り返った。こんなにはぐらかされては、話が進まないと視線で泣きつく。

 スカーレットは戸惑ったような顔をしていたが、セシルが口の動きだけで『マンドレイク』と繰り返し伝えると、従兄が王女から何を聞き出したいのか合点がいったようだった。小さな声で「恐れながらマグノリア様」と声をかけた。


 たのしくない話をふられたせいか、マグノリアは歩みを止めないまま少々不機嫌気味に「申してみなさい」と発言の許可を出した。


「……差し出がましいことを申しますが、ローズ様は、マグノリア様とはあまり似ていらっしゃいませんね」


 マグノリアが呆れたように「当たり前でしょう」と返した。セシルもどういうつもりかと二人の顔を交互に見た。


「お母様が異なっていても、一緒に暮らす妹というのは姉の真似をしたがるものかと。ヴィオラ様は明朗なお方と聞いておりますが、どこか落ち着きのないご様子で、ローズ様は……すみません、あまりお見かけしないのでよく存じ上げないのですが。気品あってなおかつお知り合いが多くいらっしゃるマグノリア様やリリー様、マーガレット様とは、受け継いだ気質が異なるのでしょうか」


 マグノリアがふ、と鼻で嗤った。セシルは微妙な気持ちになった。この女、異母姉妹の悪口で機嫌を持ち直したのである。


「お嬢さんにそこまで言われてしまうとは、あの二人もずいぶんね。あまり人の耳のあるところで言ってはダメよ? まぁ、今の王妃の子育てはよく存じ上げないけれど、わたくしの母は娘の教育にも厳しい王妃でしたから。……特に、わたくしに対しては」

「下々からもお察しいたします。だからこそ、歴史あるコルメルサとの橋渡しとなってくださったのだろうと。……妹姫様方もきっとマグノリア様を頼りにされているのでしょうね。相談をするにしても心強いでしょうし、例えば南方王国のお花など、ローズ様はきっと見たこと無いようなものも、マグノリア様はお見せすることもできるでしょう。それこそローズ様、そういうときはどのような反応を?」


 セシルはマグノリアの様子を見守った。年若い女に手放しで称賛されるのに悪い気はしていなさそうだが、その勢いで『最近ローズ様に何か贈りましたよね?』と訊かれて何か反応はあるだろうかと。


「……まさか。わたくしから花だなんて、贈りあうような仲ではないわ」


 答える声が、心持ち低くなった。スカーレットがセシルにばつの悪そうな目を向けた。

 スカーレットが謝ることは何もない。そう伝えるつもりで空いた方の手の指先を軽く振った。


「さっきからなんのつもりかしら。弟君もローズとわたくしのことを訊いてきたわ。ローズが何か言いふらしているの? わたくしにかわいがってもらっているとでも」


 ため息交じりの声に、セシルは慌てた。アレックスが既に訊いていたとなると、これはかなり警戒されていると見える。ヘンリックのように咄嗟のぼろは出てきそうになかった。


「い、いえ、ただ……」


 既に警戒されているなら遠回りは無駄だと思った。


「……マグノリア様とローズ様が、我が家を目の敵にする理由を知りたくて」


 王女の足が止まった。セシルの鼓動が大きく跳ねる。

 マグノリアは薄青の目でセシルを睥睨することを隠さなかった。


「何の話? ローズのことなど知りませんけど、わたくしが、おまえやお前の父親になにをしたと……もしや、此度のおまえの弟の拘束騒ぎにわたくしが絡んでいるとでも?」


 苛立った様子で淡々と詰られ、セシルは怯みながらもどうにか応じた。


「今夜のことは僕と弟の問題です。それより、僕が腑に落ちないのはローズ様の僕らに対する敵対心です。なぜ、ローズ様がアレックスを殺そうとしたのか、あの城に入れたのか、あなたはご存じなのではありませんか」

「……ローズが、殺そうとした?」


 立ち止まり、絡めていた腕をほどき、王女が瞬きをした。セシルはその顔を見て、それまでとは異なる焦燥感に見舞われた。


(これは……)


 スカーレットが困惑した顔をセシルに向ける。


「それはいったい、どういうことなの」


 王女の腕は、今度はセシルの肘の付近ではなく二の腕を掴んだ。両手で、捕まえるように、――縋るように。


「……マ、」


 スカーレットが開きかけた口を、セシルは手で制した。そのまま一度ゆっくり呼吸をして、次の言葉が震えないよう、胸に力を込める。


「……失礼いたしました、殿下。ちょっとしたごっこ遊びでした。アレックスとローズ様の間でかつて行われていたという。……て、てっきり王女様方は皆さま参加したことがあるゲームだったのかと思ったのですが、僕の思い違いです」

「え?」

「ゲーム?」


 困ったような笑みであっけらかんと放られたセシルの言葉に、スカーレットとマグノリアがそれぞれ当惑したように首をかしげる。ひとり場違いなから笑いを浮かべるセシルは、内心の緊張を押し隠し、口から流れ落ちる出まかせに任せた。


「お気になさらないでください。アレックスはローズ様と親しい間柄だった期間があるので、その時に教えてもらったと。突然変なことを言って申し訳ございませんでした。……これに関しては、ローズ様のためにも、どうかご内密に」


 セシルはこれで話を切り上げようとばかりに王女の手を二の腕から外した。王女がセシルの腕を掴む力は痛いほどだったのに、そっと、確実に引き剥がすと、その両手は抵抗しなかった。

 されるがままに腕を中空に漂わせてセシルを呆然と見つめる王女に、さっきまでの底知れない威圧感はない。


「……嘘よ。おまえ、わたくしに何か隠しているわね」


 セシルは身を固くした。今度は自分が問いただされる番だった。


「おかしいと思っていたわ。自分だけ、妹たちと、リリーと何か知っていることが違うのよ。あの子たちだけが知っていて、わたくしは知らない何かがある。――きっとローズも、レナードも知っているのね」


 細い、すみれ色の布に覆われた指先が、セシルのクラバットを掴んだ。腕よりなお尋常でないつかみどころに、咄嗟にセシルは動揺を隠せなくなり、スカーレットも息を呑んだ。


「なぜ? ここはわたくしの家、わたくしの生まれたところ。父と、母と、妹たちと過ごしたところ。いつかわたくしの国になるはずだったところなのに、時々何かがわたくしから隠されているような気がする」


 セシルは言葉につまりながらも、どうにか相手を鎮めるきっかけを見つけようと、向き合う目を見返した。


 冷やかな氷かと思われた瞳は、波立つ湖面のように揺らいでいた。そこに映るのは怒りではない、不安と焦燥だった。

 開けた口のまま、セシルは一言も発することができなかった。


「――何か、大きなものを、取りこぼして生きているような、そんな気がするの。いつからか、……結婚してからか、この国を離れたときからか、ずっと」


 忙しないセシルの頭に、ヘンリックの言葉がよみがえる。


『あの方は、もう何も覚えていらっしゃらないのだから』


(……もう、覚えてない?)


 ヘンリックの言葉に違和感を覚え、そして愕然とした。

 セシルの脳裏に一つ、恐ろしい可能性が浮かんだからだ。


 ――だが、それをここで問いただす術はない。


 はりつめた沈黙を破るために、セシルはことさら穏やかに声を発した。


「……殿下にも、異国に嫁いで不安になることがあるとは」


 困惑を浮かべた王女に向かって、セシルはゆっくり、噛んで含めるようにそう切り出した。


「ブランデンはいつまでもマグノリア殿下の故郷でしょう。国内にとどまっておられるご弟妹(きょうだい)のことが、恋しくなることも、きっとあるのでしょうね」


 あなたの心に巣食う不安は、郷愁からくる疎外感だ。そう言外に匂わせて、セシルはマグノリアにクラバットを放させた。今度も抵抗はなかった。

 食らいついても無駄だと知っているかのような素直さだった。


「……そう」


 はぐらかそうとするセシルに呆然としたあと、マグノリアの瞳に悲しげな色が宿る。それまでの威勢を、虚勢を取り落してしまったかのように。

 セシルがこれ以上なにも話さないことを、諦念とともに飲み下したかのように。

 地位と生まれに形作られた高慢さをめくり剥がせば、明らかになるのは孤独と不安に苛まれる女の姿だった。


 それを目の当たりにしても、セシルはそれに気がついていない鈍感な男のふりをするしかない。


「さ、どこへ向かわれるのですか。僕もスカーレットも、王宮のこんな奥まで足を踏み入れたことがありません。どこか、僕の喜びそうなところに連れて行ってくださるのでしょう」


 ことさら明るく言ったセシルの様子に、マグノリアは瞬きを一度して諦めの表情になり、二度してそれまでの落ち着き払った様子を取り戻したようだった。


「そうね。ここなら、きっと喜んでくれると思ったわ」


 そう言って、マグノリアはすぐ後ろの壁に作りつけられていた扉に手をかけた。

 え、とセシルとスカーレットが訊ねる前に、扉はすばやく開いて中の様子を二人に示した。

 部屋の入り口に立って唖然とこちらを見つめる兵士が二人と、椅子に腰かけて同じように目を見開くアレックスの姿を。


「――――アっ!」


 大声で叫びそうになったセシルの口を、スカーレットの手が間一髪ふさいだ。


「……時々、思い出を誰かに切り貼りされたような気がするけれど……こういうとき、重要人物を閉じ込めるのにどこの部屋を使っていたかは、まだなんとなく覚えているのよねぇ」


 涼しい顔で、王女は青ざめる兵士に微笑みかけた。



 ***



 馬車のそばでひとり、スカーレットの帰りをまつラスターの目に、不可思議な落し物が映った。


「……馬具?」


 手綱と轡を両手に持ち、ラスターはあたりを見回す。伯爵家の馬車はいたずらされた気配がない。

 共に控室で時間が過ぎるのを待っていた同僚は、「塀の外に人型のケルピーがいる」と焦り顔でセシルに報告に行ったきり、帰ってこれなくなった。主人アレックスはその兄と共に騒動の中心人物として王宮の奥に引き留められている。見慣れない侍女の先導で戻ってきたのは伯爵夫人とスカーレットのみだったが、突然やってきたおっとりとした高慢な女と眼鏡の男が侍女とスカーレットを連れ去ってしまった。


 疲れ切った顔で先に帰った赤毛の伯爵夫人の様子を思い返す。


「……嫌な夜だ」

「本当ね」


 ラスターはおや、とあたりを見回したが、周囲には夏の虫の鳴き声しか響いていない。遠い大広間ではまだ喧騒が続いている。騒ぎは一瞬で、宴はまだ続いていた。


「……気のせいかな」


 ラスターはひとつため息を吐いて、落とし物を王宮の厩番に渡すために歩き出した。


 ――残されたキーラは、馬車につながれた大人しい馬の揺れる尻尾をじっと見つめていた。


「クロース、いなくなっちゃったね」


 尻尾を触られた馬が不満げにいなないた。


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