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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第九章 渦巻く思惑動き出す夜

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馬鹿な男

 誕生日祝の夜と同じように、人気の無い廊下を進む。

 前を向いたまま、クリステはセシルに声をかけてきた。


「あの人の取り計らいが、気に入らなかった?」


 前振りのない言葉だったが、セシルは正しくその意味を捉えた。


「気に入らないだなんて。……僕には、大いに、困るのです」


 結局同じではないの、と王太子妃が鼻で嗤う。

 セシルは口をつぐんだが、僅かにそれを尖らせた。困るのだ。気に入らないどころの話では済まないのだと。


 クリステが進む先に大きな両開きの扉が見えてきた。礼拝堂だった。


「……話す相手は、殿下でよろしいのね」

「……ええ、今回は殿下のお決めになったことなのでしょう」


 クリステは振り向いてセシルを一瞥した後、また笑った。今度はかすかに同情するような笑みだった。

 王太子妃の手で、礼拝堂の扉が開けられる。ひと際高い天井の空間が闇と共に広がっていた。


「交渉する気なら、幸運を祈ってあげましょう。前も言った通り、あの人、あまり優しい人間ではありませんことよ」

「……お妃様がそのようなことを言っては……」


 なまじその通りだと思っているだけに、声には気まずさが乗っかった。


「妻が話す夫の悪口を聞くのは、大抵浮気相手と相場が決まっているものだが、これも当てはまっているかい?」


 セシルは飛び上がった。暗い礼拝堂に踏み入ってすぐ、腰掛けから不機嫌なレナードの声がしたからだ。


「まぁ初耳。さすが、浮気には詳しいお方」

「……冗談に決まっているだろう」


 王太子妃がつんと返すと、少しの間をもってから、不貞腐れたような声音で応答があった。壁に掛けられた燭台のろうそくは、どこに何があるかをわからせる最小限に絞られていて、セシルはレナードが立ち上がってようやくその位置を把握できた。

 背後で扉がゆっくり締まっていき、闇が深くなる。セシルはここに来た意図を思い返し、動揺から脱して冷静になっていく自分を感じていた。


「で。なぜ彼を連れてきた? 一応、議場には各家の当主と王族しか入れないことになっているはずだったが」


 もしや、アルバートの容態が急変したのかな。そんな揶揄と共に、王太子がクリステとセシルに歩み寄る。

 セシルはそれを待ちきれないとばかりに、自ら腰掛けの間の道を通って王太子に近寄った。クリステが道を開けるように腰掛けの前にそれたので、セシルはレナードと直接対峙する運びとなった。


「殿下、僕がお連れいただいたのは他でもなく、アレックスを解放して頂くためです」

「……何かと思えば。それは私が決めるわけには」

「建前はご容赦ください」


 暗がりに慣れ始めた緑の目に、見上げる相手の眉尻がピクリと動いたのが映る。セシルが目上の人間の発言を遮ることは予想外だったことを示すような動きだった。


「殿下。今回、わざと僕に甘く、アレックスに厳しく処遇を決めましたね。あの夜の礼に、とクリステ殿下に伝言までされて」


 ――あの夜の礼は、これにて返した。

 クリステの白々しい言葉選びは、あの夜の出来事をセシルに思い起こさせるものだと簡単に気が付いた。同時に、『余計なことを言うな』と釘を刺すためのものであることにも。


 だからこそ、アレックスと整合性が取れないユニコーンの一件にクリステは頓着しなかったのだ。セシルが何を言おうと、大ごとにはしないことが、王太子夫妻の間で決まっていた。最初からレナードかクリステが聞き取りに来なかったのは、方針の検討時間があったせいかと予想できる。

 セシルは自分がいつになく厳しい顔になっているのを知らずにつづけた。


「これは大いに困ります。僕の望みではない」

「……なぜ。ローズを巻き込まず、アレックス君を退けられるのに」


 レナードの青い瞳が煩わしげに細められた。

 王太子なりに、セシルに気を回してくれたのだとわかる。セシルは奥歯を噛み締めた。自分がアレックスを失脚させたがっているふりをしたことが、こんな形で実現されると思わなかった。 


「そもそも、セシル。此度の件、君の家の誰も罰しないなんて結果になるわけないだろう」

「……それでも、アレックスが、僕も発砲したことをフィックマロー子爵に話したのなら。あいつ、……彼だけ罰して僕を見逃すなんて、他の家が納得しないのでは」

「発砲は自分の命を守ろうとした行動だ。他の家と言ったが、魔法使いの末裔ならケルピーの危険性は皆分かるのだろう、むしろ、私よりも。身の安全を守るための行動は必然であり、王家への悪意ではない。だが、禁止されている銃の持ち込みは別問題だよ。王家への悪意がないと言い切ることができない。……それを不問にしろだなんて」


 レナードは、そこでひとつため息を吐いた。


「それこそ、特別扱いだ」


 クリステが扇を開いたのか、緩く空気が動く気配があった。


「それとも、君は自分のことも弟と同じだけの厳罰を、と望むのかい。君の過ちと弟の過ち、さらに父親の監督責任を真正面から議論すると、この国から“オリエット伯爵”という存在が消し飛ぶ可能性すら、あるのだがね。……さすがに、それは私も父も望むところではないのだが」


 正直も過ぎると愚かだよと、無情な声が礼拝堂に落とされる。

 セシルはさらに眉間の皺を深くした。暗がりということもあってか、権力者の圧に屈する気はしなかった。

 目の前の男が、セシルのことを正直者だと思っているのも、見当違いで腹立たしかった。そんなつもりでここに来たわけではない。


「エネクタリア家のお世話になるかもしれない、という件ですか。そもそも、かの”薬の侯爵”が一体この件についてどうお出ましになられるのかも、存じ上げないのですが」


 セシルの言葉に、場の空気が変わった。

 しかしセシルからすれば、言いたかったのはこのような、煽るようなことではない。――実際、エネクタリア家の名前は、咄嗟にアルター子爵の言った『ヴィレイ侯爵に出てきていただく案件』という言葉から使っただけで、セシルは薬術に秀でた一族が貴族の失態にどう関係してくるのかは全く知らなかった。


 だがこれは、セシルなりの助走だ。後に続く言葉をよどみなく言い切るための、勢い付けだった。


「……殿下、おそれながら、こう言わせていただきます」


 後になって、セシルはこの時の自分を思い出して何度も青ざめることになる。

 しかし、頭に血が上っているときは、自分を抑えることはとても難しいことである。特に、人と討論した経験にも交渉の場に出た経験にも乏しいセシルには。


「今回こそ、特別扱いしていただきたいのです。クリステ様のお目覚めに、微力ながらお力添えいたしましたことの褒賞に」


 空中を泳いでいた扇が、止まった。

 王太子は、優に十秒以上はセシルの顔を見つめてから、天井を仰いで長い長い息を吐いた。



 ***



「……わざとらしいこと。我が君は役者向きではありませんわね」 


 クリステはカンテラを片手に礼拝堂の地下に続く階段を下りながらそう言った。夫は同じくカンテラをもって、女の前を歩いていた。


「何のことかな」

「溜息なんて吐いて、もったいぶってから、この件は丸ごと不問にすると約束されたことです。最初から、こうするおつもりだったでしょう。まだアレックス殿を切るにも決め手に欠けると、悩んでらっしゃいましたの、知ってますのよ」


 レナードは答えなかった。代わりに、その口角が微かに上がっていたのだが、クリステからは視認できない。

 見えずとも、クリステは気にしなかった。


「……嫌ですものね。この先、思わぬところで、セシル殿に温存されていた切り札を使われたら」


 レナードは「ひどいな」と静かに苦笑した。


「これでも、私なりに彼のためを思って気を利かせたんだよ。本当にこのままアレックス・ロッドフォードを表舞台から消すのも致し方ないかなと。……多少家名に傷がつくとはいえ、セシルが確実にライバルを蹴落とせるチャンスだったのは事実だろうに、良心というのは難儀だね」


 これでも賭けだったよ、と困ったように笑った。


「まぁ、人並みの保身に走ってくれてよかった。あそこで馬鹿正直に自分や父親への厳罰を求めるようなら、この宮廷なんかよりよっぽど修道院にでも行ったほうがいい」


 クリステはそれには意見せず、目を閉じて静かに嘆息した。もとより『借り』は、クリステの浅慮に端を発すると思えば、これ以上なにも偉そうなことは言えなかった。


 馬鹿な男。

 緑の目の若者を思い出す。彼は既に礼拝堂から外へ送り出されている。


 ややあって、レナードの足が止まる。クリステも続いて立ち止まった。

 目の前の質素な木の扉には、十四の鍵穴が付いていた。自分の持つ鍵を正しい鍵穴に差し込まないと、扉は開かない仕組みになっている。どの鍵穴の主が入場済みか、レナードは鍵穴の向きを指先で触って確かめた。

 建国の魔法使いたちの子孫による秘密の会議は、この礼拝堂の地下で行われてきていた。


「……おや、まだ六人()()来ていないようだ」

「あの方でしょうか。お待ちになりますか」

「んん……。いや、これ以上各々方を待たせるのもね。隠し部屋に入ってくれば、いつも通り私にだけ合図をしてくれるだろうから、先に入って待とう。どうせ子爵方が荒れに荒れて、本題はなかなか進まないさ」

「本件をもみ消す、となると余計に、ですわね」


 王太子は会議の紛糾を予想してか、疲れたように肩をすくめてから、一番左の鍵穴に己の鍵を差し込む。

 ところで、と、クリステがなんともなしに話を変える。セシルの顔から連想したことだと言い添えて。


「今日、久方ぶりにエンバレッジ伯爵夫人をお見かけしましたわ。ご主人を急に亡くされたから心配しておりましたが、お元気そうで何より……」


 妃はそこで、扉に手をかけていた王太子の動きが止まっていることに気が付いた。


「……それと、セシルと、何か関係があるだろうか」

「……目の色が」

「……ああ、似ているね。そうだったね」


 止まっていた時が流れ始めたかのように、レナードの手が扉の取っ手を握る。議場はこの奥だった。


 しかし、扉は開かない。


「……今、セシル殿のどんな要素で伯爵夫人が連想されてきたと、あなた様はお考えに……?」


 カンテラを持った側とは逆の手で、クリステはレナードの手首を握りしめていた。

 握力はたかが知れている。

 問題は、その身に纏う怒気だった。


 別にと言った夫の顔を、横からクリステが見つめる。否、睨み付ける。


「……そういえば、セシル殿のお手を煩わせた一件、元の元はと言えば、我が君の()()()()()()()がきっかけでしたわね」


 夏といえども、地下室は熱気を閉じ込めないよう工夫されている。

 だと言うのに、レナードのすぐそばに、カンテラをも凌ぐ熱源が発生しかけていた。


「……セシルが、エネクタリアのことを言い出したのはなぜかな」


 先ほど肝を冷やしたことを、ここで敢えて問うてみた。

 しかし、話をそらす試みは、呆気なく失敗した。


「ついさっき、アルター子爵が少し口を滑らせただけで、彼は何も知りませんわ。……それより、殿下。この会議の後、どなたともお約束などございませんよね? 今夜はとても、とても長い話し合いの夜になることでしょうから……っ!」


 誤解だ、そう早く言わないと、セシルに返した借りをまた作るはめになりそうな夜だった。



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