疑わしきは罰せず
「……いや、いやいやいや」
セシルは、己のくせ毛に指を差し込み、髪をかきあげるような仕草をした。
赤毛はかえって無造作に乱れたが、本人はそれに気が付かなかった。
「父さんが浮気する暇なかった、だって? そんなの、夫婦で文字通り四六時中一緒にいるわけじゃないんだから、断言できないはずだろ」
混乱しつつもひねり出した息子の反論を、腕を組んだアンナはフンッと鼻息ひとつで退けた。
「断言できますよ。あの頃、こんな目立つ容姿の女は伯爵の近くにはいませんでした。女中にも、下働きにも、出入りしていた商人にも。何より、この女と関係があったなら……出会っていたなら、アルバート本人が王家に嘘を吐く必要がありません」
冷たさを漂わせながらも落ち着き払っている母とは対照的に、セシルは「嘘?」と、上ずった声で相手の言葉を繰り返した。
「あなたがアレックスとリンデンを離れている間に、王太子とその側近の方……ええと、何と言ったかしら、あの眼鏡の、……ヘンリー殿が、アレックスの出生に関する話の聞き取りにいらしたのです。そのとき、アルバートは黒髪に青灰色の目の商売女と、一回きりの関係で、と答えました」
セシルは大きな緑の目を泳がせた。そんな話をこの母の前で聞かないでほしかったと恨みながら。
「……殿下も人が悪いんだから……」
「セシル、何か言いましたか。……あなたもごらんなさい、この絵、この目の色を。これを青灰色だなんて言えますか。ええ、あの人の書斎でこれを見つけて確信しましたとも。伯爵は、この絵を見るより前にはアレックスの母となった女を見たことがなく、とっさにアレックス本人と同じ特徴を口にしたに過ぎないのだと!」
今まで抑え込まれていた苛立ちがふつふつと表出してきたかのように、徐々に伯爵夫人の声には熱がこもっていった。セシルは「ちょ、ちょっと!」と慌てて母を宥め、誰かに聞かれてはいないかとあたりを見渡した。
幸い、妖精たちは物陰からじっと親子のやりとりを眺めていたが、人影はない。瞳に強い炎を灯していたアンナも、人払いした意味を思い出したのか、ふうと一息ついてセシルに背を向けると、自分を落ち着かせるように部屋の中を歩き始めた。
「……母さん、目の色が違うくらいで、そこまで言い切るのはどうなの。記憶違いとか、塗り間違えたとかだってありそうだし、その、暗がりでみたら青い目も灰色っぽくみえたのかも……そ、それに何より! あいつに妖精が見えるのはゆるぎない事実なんだよ!」
暗がり、という言葉で母の眉が吊りあがったのを見て、今度はセシルの声が途中から大きくなった。
「セシル、声を落としなさい。確かにあなたの言う通りかもしれません。しかし、そうだと言い切ることもまた出来ないでしょう。……そもそも、あなたの父が商売女相手に隠し子を設けて、それをこの年まで気が付かなかったなんてことと、何か理由があって一族内の他の誰かの子どもを引き取ったということ、どちらがより可能性が高いと思いますか」
セシルが返事に窮したのは、じろりと睨まれたからではない。一般的には前者の方があり得る気がするが、あの父に限っては、後者の方がまだしっくり来ると、そう思ってしまったからだ。
押し黙ったセシルから顔を背け、アンナは眉をひそめて、呆れの滲んだため息をついた。
「アレックスの出自がはっきりしない以上……『もしかしたら』の可能性がある以上、これまでにも増してあなたは嫡子の立場を守らねばなりませんよ。いいとか嫌だとかじゃありません。幸い、跡を実際に継ぐのはあの伯爵の健康ぶりからして、ずっと先のはずですから、その間に自覚を持ちなおしなさい」
「……アレックスにうちの血が入ってるのは事実なんだから、そんなにぴりぴりしなくても……」
「やめてちょうだい。生まれながらの特権という理不尽なものだからこそ、その継承には厳格なルールがあるのです。それこそ、伯爵とアラン殿だって……」
小柄な熊のようにうろうろと歩き回っていた伯爵夫人の足は、言葉と共に止まった。それを特に深く考えずに、セシルは己に背を向ける母の正面に回り、――口元を手のひらで押さえる、その蒼白の表情に驚いた。
「母さん?」
何事かとセシルが詰め寄ろうとしたところで、アンナは「マグノリア様の宴会にむけて、準備をしなくては」と突然言い出した。
「な、なに、急に」
「セシル、あなたもですよ。マグノリア様は流行に敏感で、気が強くていらっしゃるから、いつにもましてぼうっとしていてはいけませんよ」
突然話を変えたのは、わざとだったのか、本当に準備を急がないといけないと気が付いたからなのか、戸惑うセシルは測りかねた。そのセシルを置いて、伯爵夫人は息子の脇をすり抜けて、部屋の出口へと向かっていく。伯爵夫人は自ら扉に手をおいたが、そこでまた「あ」と声を出し、ポカンとするセシルの方を振り返った。
「……さっき言った王太子殿下の側近の方、お名前はヘンリック殿でしたわ。ヘンリック・エスカティード殿。お父上の公爵同様、あまり人前に出ない方ですけど、次の宴会でお会いした時には、ちゃんとあなたの方からご挨拶に向かいなさい」
抑えた声で釘をさすと、息子からの返事も聞かぬまま部屋を出ていった。
残されたセシルは途方に暮れ、うなじを無意識に掻いて、どうしよう、と呟いた。
思えば、セシルの方こそ母に言うべきことを心のうちに抱えていたのだが、予想外の話で気が動転してしまい、タイミングを見失ってしまった。
妖精たちは、静かになった部屋の様子には興味を失ったようで、零れ落ちた小さな独り言に頓着する者は誰もいない。
(……あれ?)
ふと、部屋の窓枠にぱらぱらと砂をまく厄介な妖精を見たセシルは、母の凄みで押し流されていた竜のことを唐突に思い出した。
一階の廊下から二階の客間へと場所を移しても、竜の欠片の哀れな声はかすかにセシルの耳に届いていたが、今耳をすましても、何も聞こえてこない。そのことに、嫌な予感がした。
(もし、使用人や母さんがあの部屋の中に入って、何かのはずみで封印を解いたら危ないじゃん!)
もし封印を解くことがなくても、逆にそれが原因で竜に目をつけられてしまうのもまた危険だ。セシルは慌てて廊下に出て、階下を見下ろす手すりから身を乗り出した。すると、曲がり角の向こうに赤い尻尾が消えていくのが見えてひゅっと息をのんだ。
「うっそ!?」
セシルは階段を一目散に駆け下りると、件の部屋の前を通りすぎて角を曲がった。
そこで、しゅるりと水の中に潜り込んでいくかのように、床に落ちる影へ消えていく尾の先端を見たとき、セシルは一瞬安堵した。そこにいたのが使用人でも、母親でもなかったからだ。
「……よお、悪いな。さっきまで結構うるさくしてたみたいで」
ただ、撫で下ろした胸、その奥の心臓はすぐさま縮こまった。噂をしたから妖精が呼んできてしまったのか、アレックスがそこに立っていた。青灰色の瞳がセシルを射抜く。
セシルは、いまだ右手にキャンバスを持ったままだったことに気が付いて、さりげなく背に隠した。
「……いや、大丈夫。その、封印術、アレックスが?」
咄嗟に口から出た問いに、アレックスは「……まあ、ちょっと」と曖昧な答えを返すと、そのままセシルの横を通り過ぎていった。
セシルには、誤魔化されたことや、さっきまでとは進む方向が逆であることを考える余裕はなかった。それよりも、鉢合わせた一瞬の疑うような、見透かそうとするような眼差しに身がすくんでしまっていた。
アレックスのいなくなった視線の先に、遠ざかっていく母の背中が見えた。彼女はきっと無表情を貫いただろうと、セシルは母に似なかった自分を少し恨めしく思った。
(この前、レナード殿下は、僕には何も言ってこなかった。……父さんの言ったことを信じたんだろう。今はまだ、誰もアレックスの母親の顔を直接は知らないんだ)
しかし、それも今のうちかもしれなかった。それこそ、アレックスの母親が、青い目で名乗り出てきてしまったら、もしくは、ギルベット修道院の関係者が、子を預けた母の容姿を覚えていたら。
(……ききとりの場に一緒にいたのはヘンリック殿、か)
また、嫌な予感がした。その名前は、フレイン公爵家の人間で、ローズの義理の息子のものだ。
母の言う通りなら、あまり公の場に出てきていない貴公子。血は繋がっていないはずなのに、出不精らしいところが仮病で引きこもっていたローズに似ていると、セシルは皮肉に思った。――もはや、森のなかで自分を殴り倒した女が病弱だなどとは微塵も考えていなかった。
「ただいま、セシル」
考えに耽っていたセシルは背後からの声に我に帰った。振り向けば、膝の後ろに寄り添うように、先ほど別れた小妖精が見上げてきている。
キャンバスを落とさないよう小脇に抱えて、セシルは慣れた手つきで小さな体を抱えあげた。
「おかえり。二人で何してたの?」
「……」
なぜか、キーラは真顔になって口をつぐんだ。なにげなく聞いたセシルは、その様子に面食らいながら、あやすように幼子の背を叩いた。
「た、楽しかった?」
セシルがそう聞き直すと、妖精はぱっと顔を明るくして頷いた。セシルも安心して破顔する。と、同時に、予想外にも胸にずしりと重いものが落ちてくる感覚を味わった。
アレックスは意図して嘘をついてはいない。
彼はおそらく、父が自分の母の顔を知らないとは夢にも思っていない。
いっそ、王太子に自ら伝えた方が、隠して暴かれるよりは向こうの心証もましなのではないか。そんな考えがセシルに降りてくる。レナードだって、オリエット伯一族を中央から遠ざけるわけにはいかないはずなのだ。
内々には結果ありきでも、あくまで審査の結果として、後継をセシルに決める。これが社会的にも精神的にも一番波風がたたず、むしろ本来あるべき姿に戻るだけで、喜ばしいことのはずだ。幸い、それを要求できる見込みが、セシルにはある。
はずだ、はずだ、と、そんな思考が何重にも積み重なるが、セシルの気持ちは少しも前向きに動こうとはしなかった。
(……今さら、そんなこと言われても困るよ母さん)
言えなかった言葉がポツリと胸に取り残されている。
自室に向かう足取りは重く、自然と緑の眼は床を見つめることとなっていた。
「どうしたの、セシル」
「……」
きょとんと見つめてくる幼子の問いを笑って誤魔化し、セシルは階段半ばの窓から庭を見下ろした。そこに、話に出てきた叔父アランの姿を見つけ、知らぬ間に来訪していたのかと目を瞬かせる。
見つめる叔父の近くでは、初夏の花を既に散らした木が緑の葉だけを茂らせていた。
まるで、最初から花などつけていなかったかのように。
「バラの季節も終わっちゃったね」
「……うん」
子どものような高い体温も厭わず、セシルはガラス窓に身を乗り出す妖精を抱え直す。
男に向き直った妖精は、赤毛に覆われた頭を小さな手で慰めるように撫でた。苦笑いして、セシルも金糸の中に指を埋める。
ふと、さして長くない金髪を梳こうとしたセシルの指が、絡まった髪の中で止まった。
なんだか砂っぽい。土埃の立つところにでもいたのだろうか。
「……キーラ、アレックスにどこ連れてってもらったの?」
「……」
こんなときばっかり人間の真似をするなと、視線を逸らした妖精の頬を軽くつまんだ。
***
灰色の目の身内に、アレックスの父親でもおかしくない男に、心当たりがないわけでは、ない。
ない、が。
(……父さんが、何か理由あって誰かの子どもを引き取る、なんて……)
まさか。セシルは首を振って頭の中の考えを否定した。
胸を揺らした大きな鼓動を無視して。




