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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第八章 疑惑咲く

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書庫

 群青の空が白み始めた明け方、目が冴えてしまったアレックスは、自室の窓からなんともなしに庭を見下ろしていた。


(……ピクシーは馬に乗るのが好き、なんだっけ)


 そう言ったのは緑の目の兄だった。眼下では金色の頭の幼子が、その小さな体に似つかわしくない栗毛の駿馬に、馬具も無しに跨がって駆けずり回っている。


 アレックスは書庫で読んだ資料の記述をぼんやりと思い出した。


(洗礼前に死んだ子どもの魂から、長い長い時間をかけて生まれる)


 『一説には』と前置きされていたピクシーに関する一文の、真偽のほどはわからない。

 ただ、と、とりとめもない考えはアレックスの頭の中をゆらゆらと揺蕩っていた。


(……この家の“次男”も、いつかこの屋敷に戻ってくるつもりなのかな)


 永遠の、子どもの姿を得て。


 ***


「キーラ、最近エリックに対して大人しくなったね」


 セシルは朝食のあと、ミルクのついた小さな口元をナプキンで拭ってやりながら、その頭を誉めるように撫でた。


「エリック、今はいい子だからね」


 手のひらが心地いいのか、妖精はもっと撫でろと言わんばかりにぐりぐりと、自ら頭を押し付けてきた。

 しかし、セシルはその言葉に顔を歪めた。キーラがエリックにしつこく悪戯をするようになったのはずいぶん前だ。その頃から、エリックは外部の誰かと繋がっていて、それをセシルに隠していたということか、と。


「……エリックが、この家の人間以外と会っているの、見たことある?」

「いっぱいあるよ? アランとか、ウィリアムたちとか、新聞屋さんとか、仕立て屋さんとか、おっぱいおっきい女とか」


 最後の女は誰だろう、とセシルは少し首をかしげた。


(全く、エリックも何考えてんだか……)


 従者エリックの複雑な内面は、今はもうセシルには推し量りきれない。セシルと妖精を恐れながら、完全に離れることもままならないと言ったところか。


(このまま、だんまりを続ける気なのかな)


 昨日、靴裏をぬぐった後、王女マグノリアからの招待状は父伯爵あてに来ていると伝えにきたエリックの顔に、動揺は見られなかった。セシルはふと、王女と会ったことがあるか、と確認した。


『……お見かけしたことはあります。昔、セシル様のお供で王宮に行きました時に』


 後ろめたいことがあるのか、疑われたことがわかったからか、答える前にほんの少しの間があった。

 一方、キーラはベタついた手のひらを若草色のカーテンに擦り付けることに夢中だった。


 マグノリアは、今は国外に身を移している。仮に王女が黒幕だとしても、遣いの人間を通していたら、エリックは個人的に本人と会ったことがないのかもしれないとセシルは思い当たった。


『じゃあ、マグノリア様の指示を受けたことはある?』

『……セシル様』

『ん?』

『以前もお伝えしました通り、私は何もお話することができません。誰が私に指示を出していたか、については、何も』

 

 それきり暗い顔で黙ってしまったエリックに、セシルも閉口してしまい、もう何も聞かなかった。

 万事こんな調子だった。自分から言うことはできない、気に入らないなら罰してくれて構わない、と。


 当然だが、この様子にアレックスは大層業を煮やしている。セシルも弟の気持ちはよく分かるのだが、エリックを死なせるわけにはいかないのはもちろん、今は遠ざけるのも得策ではないだろうとなだめているところだった。情を抜きにしても、ローズの罪を暴くにあたって唯一の手がかりなのだから、と。


(でも、こんなに何にも言ってもらえないんじゃ、限界があるよな)

 

 セシルは妖精のくしゃくしゃになった金髪を軽く梳かしてやりながら、うーんと唸って脳内の絡まった糸を解さんと引っ張った。


 裏切りが明るみになったエリックが、なぜここまで真実を隠そうとするのか。セシルの甘さに漬け込んで開き直っているのか。


 それとも何か、セシルより強い圧力が、彼に加えられているのではないか、と。



 ***



「その“圧力”が、マグノリア王女じゃないかって?」


 書庫の奥、鍵のかかった扉の先には魔法と妖精に関わる記述の資料が所蔵されている。

 場所こそ客人や使用人を排除するかのように隠されて窓もないが、そこにはおおきなリング型の集合ろうそく立てが吊るされているので、灯りをともせば室内は明るい。


 キーラを抱えてアレックスを探しにきたセシルは、そこでかつて自分が使っていた読書机そのものを椅子代わりに、ページに目を落とす弟を見つけた。子供用に設えられた椅子は、男の足には小さかったのだろうと伺える。


「随分突飛じゃないか。コルメルサだかなんだかの客人がローズの協力者だったっていう確証もないにしては。それとも、この家には第一王女に恨まれる心当たりでもあんのか」


 いつもと同じようにくくられ、背に流れる黒い髪はぴくりとも動かない。セシルは懐かしい樫の椅子を弟の正面に置いて腰かけ、膝の上にキーラを座らせる。さすがに足が余る感覚がした。


「心当たりなんかないけど、ローズと接触出来て、コルメルサに関係があって、マンドレイクが手に入りそうで、ロッドフォードの秘密を知っているかもしれない人って言える。最後の条件は憶測だけど、僕らが魔法使いの一族だってことは確実に知っているだろうし……平民のエリックが逆らえないと言えば、逆らえないし」


 ようやく、灰色の目が書物から動いた。顔を上げる過程で、のんきな笑みを浮かべた妖精と目が合ったのか、表情は一瞬脱力したように苦み走ったが、そのまま緑の目と視線を合わせてきた。


「ローズが俺を殺そうとしたのはローズ自身の意志によるものだろう。なんでそれにマグノリア王女が絡む? 俺が王宮にいたころ、ほとんど帰国したことがなかった人だぞ」


「……いったん動機は置いておこうって、そっちも言ってたじゃないか。それとも何、ほかに怪しい人いる?」


 セシルに問い詰められると、アレックスの方は視線を横に逸らし、何事かを思い悩むように口元を手で覆った。


「……動機を取っ払えば、一番可能性が高いのは伯爵か」

「……本気で言ってんの?」

「エリックへの影響力も、それが一番しっくりくる。ジョナ親子の雇用を握ってるんだから。……叔父のアランもクー・シーを操れるという意味で可能性はあるが、エリックが隠す理由がないし、この一件のもとになった噂を『客先で聞いた』って話に嘘がないんだよな」


 セシルは黙った。確かに、帰途でクー・シーをけしかけるのも、『無知な第三者』よりは身内の方が可能性が高いと頭をかすめたからだ。

 だが、こればかりは動機によって可能性が排除される。


「叔父さんのことどころか、父さんだって自分の息子二人ともを殺しかけるなんて、たとえ鍛えるつもりだとしてもやり方が異常だろ。口は悪いけど、あの人だってそこまで変じゃないさ」

「……そうだな。“二人とも”ってのは、しっくりこないな」

「ん?」


 手のひらの奥で低く呟かれた言葉は、セシルの耳にははっきりとは届かなかった。セシルが聞き返すつもりで口を開けたが、それを遮るようにアレックスが声を発した。


「しかし、この家では当主しか知らないことを、世継ぎじゃないマグノリア王女が知ってるってことか? しかも結果的にとはいえ、国外に嫁いでるんだぞ」

「……世継ぎじゃなくなったのはレナード殿下が生まれてからだし、それまでは暫定で第一子だったマグノリア様が王位継承順位第一位だよ。優先的に色々教えられてたのかもしれない」


 アレックスが来る前のセシルのように。


「あとから男子が生まれる可能性はなくなってないのに、そんな判断するもんかね?」


 セシルは考えながら言葉を紡いだ。正直なところ、セシル自身にはローズとコルメルサを結ぶものがマグノリアだとしか思えないのだ。


「……だから例えばこういうとき、お嫁に行くにあたって、エリックと同じように口止めの誓いをしてるのかもしれないじゃん。魔法のことをむやみに話さない、とか」


 自分で言った言葉に天啓を得たかのように、セシルはぱっと顔を輝かせた。


「そうだよ、それで夫に秘密を持ち続けなきゃいけないのが苦になり、そんな誓いをさせたロッドフォードを恨んで、アレックスに執心してる公爵夫人と共謀する気になったのかもしれない!」


 セシルには、これで材料がそろったように思えた。

 対して、向かいの男は顔をゆがめただけだった。

 

「自分で遠ざけた動機の話を都合よくこじつけんな。全部憶測じゃないか」


 否定ばかりのアレックスに、セシルはきっとまなじりを吊り上げ「でも筋は通ると思わない?」と口を尖らせた。

 アレックスは視線を資料に戻し、口元を覆っていた手でページをめくり、数行眺めてからゆっくりと話し始めた。


「……それなら確かに、ローズは伯爵家の人間から城や鍵の情報をもらう必要がないが」


 もう一度、灰色の目が緑の目に焦点を合わせてきた。言葉の上では納得するようなそぶりを見せたが、しかしその眉は顰められ、口角は下がっている。


「それだとこの家は随分王家に対して情報を開いてるってことになるぞ。ほかの貴族も、当主しか知らないことが国王やら王太子どころか、その候補にまで筒抜けなのか?」


 胡乱げに見つめてくる弟に、今度はセシルが目を逸らした。考えるためにだ。


「……案外、そんなもんかも。だって考えてみたら、権力は国王にあるけど、魔法の力はかつてより限定的とはいえ、僕たち一部の臣下が独占してるんだから。国王側は魔法以外で僕たち魔法使いの子孫をいざというときは抑えなきゃいけないんだし」


「……軍っていう、数の力はでかいけどな。まあ確かに、抑止力のひとつとして、貴族たちの秘密を全部握ってる、ていうのはおかしくないが」


 それでも完全には納得していないことを表すようにアレックスは首をかしげる。その拍子に、癖のない毛先がわずかに肩から落ちた。


 キーラは少し前から、話の内容に飽きているようで、セシルの膝に乗ったままぷらぷらと足を揺らしている。そろそろ下に降りたがる頃だろうと、セシルは小柄な胴を支えていた手を緩めた。


「……もしマグノリアが関係しているとして、そもそも、なんでローズ自身が動いてるんだろうな。ことが世にばれたとき、トカゲのしっぽとして切るにしても、それが公爵夫人じゃひと騒動だぞ。だったら互いに抱えの侍女なり従者なりを使えばいいのに」

「……執念じゃない?」

「執念?」


 セシルの膝から降りたキーラが、読書机をよじ登る。それを眺めるアレックスが、開いたままの資料を机上に置いた。ページには、水中を泳ぐ馬が描かれており、水棲馬の記録だとセシルはなんとなく見つめた。


『許されるわけがないでしょ』


 互いが互いによって命拾いした森での記憶が、陽炎のように揺れる。


「あの人の思い込みなのか、執着なのかわからないけど、アレックスを殺すのは自分の役目だと思ってるような、そんな気がした」


 妖精が、机を這いずるざらついた音がする。

 セシルには、妖精のつむじを眺めるアレックスの顔からはなんの感情も読み取れなかった。怒りも、悲しみも。


(……今更か)


 強盗の一件をもってセシルが見限った紫の瞳の女を、アレックスはもっと早くに切り捨てていたのだ。自分に向けられていた銃が、彼女の手に握られていたと知ったときに。


「……あれ?」


(そういえば)


 セシルが再び口を開こうとしたとき、アレックスがまたも先んじた。


「このちび、少し俺が借りててもいいか」


 えっ、と、緑の瞳が困惑に、金色の瞳が歓喜に見開かれる。

 それもそのはず、この男がいままでありとあらゆる手を使って妖精を遠ざけようとしてきたことを、セシルは知っていたからだ。


「……どうしたの、急に」


 セシルの声を無視して、妖精は素早くアレックスの膝に飛び乗った。勢い余って転げ落ちそうになったのを、弟自身が抱き止める。


「たまには、子守り交代も悪くないか、ってだけだけど?」


 そう言うと、アレックスは瞳を輝かせた妖精を抱えたまま立ち上がった。一抹の不安はよぎったが、白いシャツの胸元をしっかと握りしめるキーラの喜色満面の顔に、セシルもまあいいか、と思い始めたのだった。


(僕が恋をやめたからって、キーラまでやめる必要はないもんな)



 ***



 書庫を出たアレックスはしばらく廊下を進んでから、しがみついて離れようとしない妖精をどうにか床に降ろし、顔を近づけて囁いた。


「ちびちゃん、ちょっと道案内をお願いできるかな?」


 普段は全く自分を構おうとしない男から希望の行き先を告げられて、幼子は得意気に頷いた。男も母譲りの美貌に笑みを作る。


「でも、このことは、皆にはナイショにしような?」


 アレックスはそう言って、懐から手のひらに収まる大きさの紙包みを取り出し、中身をちらりと見せた。覗きこんだ方は、それがクッキーだと分かるなり「分かった、誰にも言わない!」と手を差し出した。


 妖精はつれない恋をしている。さんざん追いかけた美しい男から持ちかけられた話であれば、無償の案内依頼も、セシルに言わないという取引も、一も二もなく頷く。

 公平かどうかなど、己の欲望の前ではなんの障害にもならない。そんな妖精に、アレックスは苦笑してクッキーを一枚手渡した。


「えへへへ、半分あげる!」

「…………いや、いらない」


 幸福感で弾けそうな笑顔に、男はそっと断りを入れる。こういうときだけ、男は兄の忠告に素直に従っていた。


「えー……じゃあ、足元と上に気を付けてね?」


 うって変わって残念そうに見上げてくる妖精の、背と肩に手をかけ、アレックスは「はいはい」と言いながら相手の体の向きを前方へ向けさせる。夕立の心配には早いだろうに、と軽口を叩きながら。


 そんな様子だったのでもちろん、己の背後、足元から伸びた影のなかに音もなく落とされ、床に刺さるなり煙のように消えた銀色の鋲に、アレックスは気が付いていなかった。


 二階の手すりから声もなく見下ろしてくる、灰色の目にも。


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