分不相応な宿
あくびをこらえる見張りの目には、街道脇に止まったきり、門に近づこうとしない一行は奇妙に映っていた。
町の入り口となる門から少し離れたところに、少し前から二台の小型の馬車と、従者に引かれた馬が二頭、停まっていた。馬を見ている男とは別の男が、先程からひっきりなしに馬車の間を往復している。
もうすぐ日も落ちるというのに、まるで町に入ることをためらっているかのように見えた。
(身元の証明がないとしても、握らせてくれる額によっちゃ通すんだがねぇ)
町長にばれたら即刻解雇されることを思いながら、見張りは今日の仕事が終わる瞬間を今か今かと待ちわびた。門の鍵をしめる時刻を知らせる鐘の音まで、もう間もなくだ。
その時、「もういいわラスター!」という凛とした声と共に、馬車のうちの一台から、鮮やかな青いドレスの若い娘が出てきたので、見張りの関心は一気にそちらへ引きずられた。
娘は石造りの道をカッカッカッカッと靴音高く鳴らしながら、もう一台の馬車に近づいていく。たくし上げられたスカートの裾から、足首どころかふくらはぎまで見えそうで、思わず見張りは意識を集中させた。少女はそのまま、立ちすくむ供の男を押しのけて馬車の扉を開けた。
「セシル従兄様! いくら急いでるって言っても、野宿なんて許さないわよ! まさか夜通し進めるとでも思ってる? 暑さで馬やみんなの体力だって落ちてるのに!」
見張りが唖然とする朗々とした非難が、夕暮れ時の街道に響いた。
やはり片方の馬車が町に入るのを渋っていたらしい。ドレス姿のブルネットの向こうに、手前に座っていた男の赤毛がちらりと見えた。その奥にもう一人いるのも伺えたが、対応したのは主にその赤毛であり、きっとあれが『セシルにいさま』だろうと、見張りは成り行きを見守った。
「…………」
『セシルにいさま』が何か言い返しているが、見張りの耳にまでは届かない。
「はぁっ? こんな街道で、夜盗に襲われでもしたらどうするのよ、いかにも『身分は明かせないけど金はあります』と言わんばかりの馬車に乗ってるくせに! は? アレックスが? ……当の本人は私に賛成みたいだけど?」
「……」
「だいたい、相手は丸1日近く早く出発してるんだから、早馬で追いかけでもしないと無理でしょ! 何より、あなたは自分が長旅にも野宿にも強行軍にも、耐性なんて微塵もないっていう自覚を持ちなさい! 休みも取らずに無駄に頑張って、結局体調崩すあなたが目に浮かぶようだわ!」
暫くすると、見張りの男の前には立派な黒塗りの馬車が並び、馬を引き連れた二人の若い男が町に入る手続きをしていた。
馬車の一つから、ずる、と、赤い髪の頭が出てくる。
「……エリック、宿は前に泊まったところからなるべく離れたところにして。客観的に、僕たちが泊まりそうにないところ」
けたたましい蹄と車輪の音が、町の中に消えていくのに合わせるように、教会の鐘が鳴った。
終業時刻が来た。見張りは、『セシルにいさま』に同情するのをやめて、門の施錠に向かった。
「この前といい今日といい、最近は変な客が多いぜ、まったく」
***
「だから気を遣うなって言ったのに」
階下の雑多な食堂でどうにも味の薄い夕食を終えると、あきらかに明かりの少ない客室で、しゃがみ込んだアレックスが荷物を解きながらそう零した。部屋に掛けられた燭台はろうそくを立てる突起が根元から折れていて、埃をぬぐったランプと月明かりだけが頼りという不便さだった。
確かにこの町に入ることを渋ったのはセシル自身で、宿を変えるよう言ったのもセシル自身だが、元はアレックスのためを思ってのことだったのだ。ダンリールの村からリンデンに向かうとき、最初に立ち寄るこの町には、ギルベット修道院出身の針子の娘たちがいるからと。
スカーレットとラスター越しに言い合っているときから「俺は良いからさっさと中に入ろう」と配慮しがいのないことを言ってはいたが。
「そっちだって、こうなることを予想してたわけじゃないくせに」
セシルは唸るように言い返した。こうなる、とはつまり、兄弟一緒の部屋という現状だった。
ここに至る発端は、遡るに2時間ほど前のことである。
宿屋も食堂も、たいていは町の中央付近に固まるものである。その一帯をすべて外し、残った中で高級宿を外し、その上夕暮れ時でも空きの残っている宿となると、数はかなり限られた。リンデンのような都市とは規模が違うのだと、セシルは失念していた。
村のはずれでようやく見つけた宿は、玄関の土汚れの掃除も甘く、一階の食堂は派手な化粧の娼婦や質素な身なりの旅人でごった返しており、活気はあったがとても伯爵家の子息や大商会の娘が利用するような場所とは思えなかった。
『希望どおりの宿があってよかったな』
窓の外を見ながらアレックスの放った皮肉に、セシルは閉口したし、スカーレットの侍女は抑えこんだ不満で眩暈でもおこしそうな風であった。
それでも所詮一晩の宿だと開き直ったセシルは、アレックスが近づいてきた娼婦を避けるために退いた窓の外に、旅装の男たちが立っていることに気が付いた。窓越しに見つめれば、くすんだマントの隙間から鮮やかな織物の編みベルトが印象的に覗いている。東方の砂漠の国の名産だと思い出せば、男たちは異国をめぐって安く手に入れたのだろうかとぼんやり思った。そう思うくらいには、男たちの格好は地味で質素だった。ブランデンでは砂漠の国の物は貴重だから高いのだ。
やがて『六人なら泊まることはできるが、それでも借りられる部屋が三つしかない』という事実が判明すると、それがセシルをさらにいたたまれなくさせた。
というのも、最初セシルは『小さい宿だし、仕方ないよね。御者二人は近くの別のとこ行ってもらって、あとはみんな従者と二人部屋にしよ』とさも当たり前のように言った。一人部屋でなくとも気にしないつもりだった。
しかし、それに今度はエリックが反応したのだ。口を開け、わずかに躊躇してから何も言わずに口を閉じた一連の動きの意味を察したのは、人の心に敏感な従妹だった。
『セシル、あなたはアレックスと同室になさい。でなきゃエリックの気が休まらないでしょ。……あなた、自然と壁に話しかけちゃうんだから』
小さな、尖った石を的確に急所に打ち込まれたようなダメージを抱えながら、セシルは思いもよらない展開に『じゃあ俺とエリックで同室でいいだろ!』と駄々をこねたアレックスの腕を引きずって二階の角部屋に引っ込んだのだった。
不躾にじろじろ見てくる宿の主人の視線が痛かった。チップを渡すからこっちを見るなと言ってやろうかと思った。
回想を終えたセシルは暗い顔でトランクの鍵を開けた。もう寝ようと思ったのだ。どうせ起きていてもこの暗さではできることもないし、同室者と会話しなくてすむ一番の方法だからだ。
「確かに、従者にあそこまで嫌われてる主人てのは予想外だったかな」
「やかましい!」
セシルはトランクから寝間着を引きずり出しながら荒々しく返した。エリックが荷ほどきをしようとしたのだが、アレックスがラスターを部屋に入れないものだから、無駄な対抗心で追い出してしまったのだ。寝支度に入るくらい自分でできると思ったからだが、結果セシルの周りの床だけ散らかった服と小物とでにぎやかになってしまった。
突然現れた惨状に着替える気を削がれたセシルの前で、アレックスが無遠慮に兄の革の鞄を持ち上げ、中を物色した。唐突な出来事にセシルが目を白黒させていると、トランクとは別にして肌身離さず持っているそれから、妖精避けのオーナメントを取り出すと、特に何を断ることもせず、部屋の扉の取っ手にそれをつるした。
途端、アレックスの着替えをセシル同様にひっくり返そうとしていたキーラが「うぇっ、ひどい!」と叫んで部屋から飛び出していく。
「えっ、ちょっと何してんの!」
「夜通しぱたぱた歩かれると眠れないんだよ」
アレックスは唖然とした兄の様子に構わず、自分の荷物から同じ形のオーナメントを取り出し、今度は自分が部屋から出ていこうとした。
「ちょっと、それ持ってどこいく気!?」
「ラスターたちのとこ。あの人はともかく、エリックは嫌だろ、枕元でチビに走り回られんの」
そっけなく閉められた戸で揺れるオーナメントは小さく軽い。しかし、セシルはそれで予想外に重く殴られたような心地を覚え、そして反省した。これこそセシルが気を回すべきところなのだ、と。
項垂れて固い寝台に上半身を預けたセシルだったが、ふともう一人、キーラの悪戯の標的になりそうな人間に思い当たり、身を起こした。スカーレットの部屋は向かいだった。
***
「なぁにセシル、おやすみの挨拶だなんて律儀ね?」
不躾な訪問に眉を顰めて対応した侍女を押しのけて出てきた従妹に、セシルも一度笑みを零した。しかし、その服装を視認するなり侍女の不機嫌な顔の意味を悟り、自分の考えの至らなさと相手の珍しい軽率さに頭を抱えそうになった。
それというのも、「お嬢様はもうお休みになるところですので、お控えください」と言った侍女の言葉は正しくて、髪をほどいたスカーレットは白い寝間着に薄い桃色のガウンのみで現れたのだ。異性に見せるにはあまりに隙だらけである。
従兄弟とはいえ、さすがのセシルもこれはいけないと言葉少なに退散しようとしたのだが、その腕をがっつり掴んだのは少女の方であった。
「えっ」
「クレア、先に寝ていて。私の荷物に触っちゃだめよ、死にたくないならね」
「お、お嬢様!」
咎める侍女の声を遮断するように、スカーレットは自分の部屋の扉を素早くしめた。それだけでは飽きたらず、狼狽える従兄の腕を掴んだ手はそのままに、向かいの、セシルたちの部屋に上がり込んだのだ。
「それで、なんの話?」
「……当初の目的とは違うんだけど、言いたいことは今色々できたよ」
小さなランプひとつ灯されただけの薄暗い密室で、妖精もいない。男はシャツとスラックスのみで、女は寝間着のみという、しどけない現場の完成である。
ここにアレックスが帰ってきたら何を言われるかなんて、想像するだにいたたまれなかった。




