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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第五章 眠る秘密
36/109

痛みの記憶

 夏に向かう強い光も、厚く重なる濃緑の葉で遮られる森の中だった。


 ***

 

 背後で笑う気配があった。息だけで、ふふ、と。


 何がおかしいのかと、さすがに眉を顰めてセシルは歩みを止めずに背後を顧みた。アレックスが死にかけた以上、笑い事では決してすまされない。


「どうしてあなたたちを狙ったか、ですって。――確かにあなたには私の代わりに泥をかぶってもらおうと思ったけど、でもご安心なさい。私が今日殺したかったのはあの子だけ。理由なら……、あら? さっき教えてあげたはずなんだけど」


 忘れてしまったかしら。片頬を上げてそう言う女に、悪びれる様子はまるでない。


「……アレックスは、死ぬべくして死ぬ、と言っていた。あれのことですか」


 あの子、がアレックスを指していることは確認するまでもなかった。嘲笑がセシルに向けられたものなのか、この場にいない異母弟に向けられたものなのかはわからなかったが、そのいびつな微笑みは、目撃したセシルに言い知れない不安を与えるものだった。

 語る女の瞳の昏さは、真に森の闇だけが理由であろうか。


「あの子の生い立ちは、知っている?」


 浅く頷いた。俯いていたローズがおもむろにセシルと視線を合わせた。


「じゃあ分かっているわよね。母親から捨てられて、悪魔憑きと遠巻きにされ、自分が何者なのかも知らずに、誰にも受け入れられないまま生きていくしかなかったあの子を助けてあげたのは、ほかの誰でもないこの私だと。……兄であるあなたや父親は、存在すら知らないまま、さぞかし、温かな家庭を築いていたのでしょうね」


 セシルの顔がこわばった。後ろめたさで目を逸らしたくなるのを堪えるのは思いのほか苦痛だった。


「私はあの子を従者という名目で守り、知りたいことは可能な限り、なんでも教えてあげた。神の思惑の外側に生きる魔法使いの子孫のこと、妖精を見る一族の名前、美しい顔に似合う所作も、お茶の淹れ方まで」

「……悪口の言い方も教えましたよね? あなたと彼は、言葉の選び方というか、僕への攻撃の仕方が、すごく似てます……」


 こんなところで彼のお茶の作法のルーツが分かってしまった。なるほど、出会って間もない時点のセシルに明かさなかったわけだ。

 セシルの嫌味は公爵夫人のお気に召さなかったのか、紫の視線はするっと横に流された。

 安い男物の服を着て、ずぶ濡れのぼろぼろで足に怪我を負ってなお貴婦人たる姿勢を崩さないものだから、二人はさながら女主人と従者だった。


「結婚してからも、公爵の持つリンデンのお屋敷にいられるよう、手を尽くしてあげたのよ。……不自由なんてなかった筈なのに、そういう恩のある私の言うことも聞かないで、なんで今さら薄情な父親の元へ行くなんて言うのかしら。

 ――誰も不幸にしない最良の居場所を出て、誰に望まれているわけでもないところに、自分の欲望のまま、場違いな椅子をねじ込むのを応援してあげる道理なんてあるの。そんな身の程知らずな真似が、そんな、……許されるわけがないでしょ」


 淡々とした、しかし不気味な情念を感じる女の言い分に、セシルは唖然とした。思わず足を止めてしまったほどである。

 彼女の言うことは何一つ理解ができなかった。確かにアレックスはローズに恩がある立場だろう、しかしこれは恩に着せる、という範囲を超えた執着がある。その異常性に、完全にセシルの常識は置いてきぼりにされた。

 アレックスが伯爵家に名乗り出たことをなぜ彼女がここまで嫌悪するのかも、彼の身の振り方そのものをなぜ自分自身のことのように良し悪しを断定するのかも、意味が分からなかった。確かにセシルからすれば、アレックスの名乗り出はいらない不安と騒動を巻き起こした元凶と言えなくもないが、それはセシルの事情だ。



 囲った男を手放すのが惜しいなどと言う浅はかさとは違う、身勝手という言葉よりもっと強い気持ちが後ろに見え隠れする。彼女は、過ちを犯した我が子に罰を与える母のように、これこそが正しい道と本気で考えているかのように、アレックスを許さないと言ったのだ。

 つい数分前にセシルのことを命がけで助けた女とあまりにかけ離れたその姿に、本当に同一人物なのか疑わしい気もちすら沸いてくる、そんな豹変ぶりだった。


 だが、ここまで言われてなお、我に返って言い返そうとする言葉はセシルの喉に貼り付いてしまい、抗議は厳しい目で睨みつけるにとどめざるを得なかった。反論を押しとどめたのは、忘れ去られていたアレックスを見出し、手を差し伸べたのが自分や父ではないことが、紛れもない事実だったからだ。


(この謎の自信というか、執着はともかく、殺意の理由は、アレックスが自分との生活より伯爵家の名誉や富に目が眩んだことが許せないから、てこと? ……そりゃ確かに、あいつに行動を起こさせた要因のひとつに、日陰者だったことへのコンプレックスもあったろうけど)

 

 セシルは、今となってはアレックスの行動の最大の原動力が10年前の邂逅にあるとわかっていた。聞くのと見るのでは生まれる感情の根の深さが違う。

 ローズはアレックスが修道院でセシルを見ていたことを知らないと、この森を二人で歩いていた時に言っていた。――セシルが木の根の下で這いつくばっていたときに。

 庇護者であるローズにすら悟らせなかった過去は、影で、土の下で、音もなく深く広く根を伸ばしていたと想像するのは難くない。おそらく、アレックスから名乗り上げることを打ち明けられた時のローズには、アレックスの思いの根本が見えておらず、それこそ突然裏切られたように感じたのだろう。そうセシルは推測した。


 とはいえ、セシルもローズを無知だと笑うことはできない。アレックスが恩人を振り切らせた原因となった出会いも、セシルにとってはすれ違いでしかなく、幼い日の旅の記憶に、黒い髪の少年の姿はない。そもそも修道院の記憶ですら、実物をみてなお朧気なのだ。

 

「……ほんとに、そんな独占欲で、彼を殺そうとしたんですか」

「独占欲?」


 ローズはそこで吃驚したように再びセシルの方を見た。ややあって、また俯きながら、それまでよりいくらか戸惑いを滲ませながら言葉を紡いだ。


「……別に、彼を独り占めしたいわけじゃないけど。ただ、身の程をわきまえないのはいただけないわね」

 少しの間の後に言い切った時のローズの目に、光は届いていない。

 暗い水の中でも生き延びようと、セシルを助けようと必死だった女の持つ宝石は、鬱蒼とした木々の下ではそのきらめきは跡形も感じられなくなっていた。


 歪んでいる。しかし、そこにローズからアレックスへの憎悪があるかと言われると、セシルには違和感が残るのだった。

 ローズからアレックスへの恋愛感情はあり得ないと言っていた。あの言葉に嘘や強がりがないのなら、彼女からアレックスに向けた、この強い感情はなんなのだろう。思い通りにならないなら殺すことも厭わず、それをさも当然だと言いきる、この傲慢でありながら泥のように重くまとわりつく感情は。


「何か、隠していますか」


 セシルは固い声で問いかけた。

 応えはなかった。しかし、宵闇のような瞳が、ようやく若草の瞳と交わることをよしとした。


「当ててみたら良いわ、魔法使いさん」

「っ、ローズ! ……様、あなたをのせた馬の主人は僕ですよ! ……もう噛みつかないと思えるなら、僕もずいぶん見くびられてるな」

「見くびるなんて。あなたは紳士ですもの。アレックスも私も殺せやしない。それどころか、怪我もさせられない」

 

 セシルは眉を寄せ、紫の瞳を強く見返すと、馬の耳元に口を寄せた。


「食べちゃダメだ。……一口齧るだけだよ」

「な、ちょっと待ちなさい待ちなさい! だ、大体あなた、貴婦人の秘密をそうそう暴こうとするものではなくてよ! 本当にこの無礼さは血筋ね」

 

 この血筋とはアレックスのことを言っているのだろうか。セシルはそう思いながら、馬のたてがみを撫でた。どちらにしろ、ドワーフの鍵に守られたローズを妖精の悪意が傷つけることは不可能なので、だしに使われたケルピーは不服そうに首を振った。


「……質問を変えますね。あなたはどうやって鍵を手に入れたんですか」


 思うように話をしてくれないローズに苦々しい思いを抱えはじめたセシルだったが、ローズの方は大人しく馬に揺られていたわりに、湖でのことがよほどトラウマになっているのか、黒い馬の揺れる首を怯えるようにじっと見つめていた。ややあって動揺を圧し殺したような声で言葉を返した。


「……あなたは既に答えたことを繰り返し聞くのがお好きね。言ったはずよ、協力者がいるって」

「あなたが男の姿で一緒にディフレッドを訪ねたという村役場の男ですか? ログスターと言いましたよね、うちの使用人はなにも答えなかったはずなのに、彼はどうやって?」

「子どもみたいに、なんでも答えを聞くのね。アレックスには確かになんでも教えた、けれど」

「……っ!!」


 前を向いて、不満気に鼻を鳴らす馬を宥めていたセシルは驚愕に固まった。細く冷たい指が、襟を緩めてむき出しになっていた己の首を這っていた。


「あなたたちの秘密をどうやって教えてもらったかは、答えないわ、絶対に。たとえ足を噛みちぎられてもね」

「……いったぁ!!」


 首を撫でた手はセシルの傷の深い右肩へとスライドしていった。意図的だったのだろう、彼女は赤黒く汚れた布の上からその肩にしっかりと手を置いてから、馬の首に寄りかかっていた上体を起こした。


「先を進まないと、迷子になりそうなのだけど? オリエット伯爵候補殿」


 視線を上げれば、セシルが立ち止まってなお歩みを止めなかった小鹿の尻が小さく見えた。セシルは声にならない呻きで痛みをやり過ごしながら、大きな木の根を跨いで先を急いだ。


 そうやって、けして歩きやすくはない湿った土の上を踏みしめながら、セシルは悔しさを感じずにいられなかった。妖精に浚われた彼女を助けたことは、オリエット伯爵家の一員として当然のことであるが、セシル自身の下心が皆無だったわけではない。

 アレックスにしたことを悔いてほしかったし、セシルに向けて感謝されたかった。

 セシルは破けた自分のシャツの裾を一瞬見たあと、栓無いことを考えるのはやめた。それより、この機会に彼女から聞けることを聞いておかないといけないと思い直した。

 

(……ローズは今、『教えてもらった』っていったな)


 しかし、ディフレッドが秘密を教えたはずはない。本人が妖精の前でセシルにそう言ったのだ。

 では協力者である村役場のログスターが、自力で秘密を暴いたというのか。

 しかし、何のヒントもなしに、正解にたどり着くのは不可能だ。でなければ隠す意味がない。そもそも、こんな田舎の役人が国王筆頭で隠し続けている魔法使いの血脈に関することを知っているということからしておかしい。


(あり得る例外は、ローズの協力者が魔法使いの子孫である場合)


 魔法を知らない人間よりはずっと可能性が高い。元々王族として、普通の貴族が知らない魔法使いの事情を知っているのだから。そして、魔法使いの子孫であっても貴族であれば、宮廷で影響力を持つオリエット伯爵と対立する人間もいるに違いない。

 しかしセシルはやはり不自然さがぬぐえない。ほかの魔法使い一族にしても、知識は多少あれど妖精をほとんど視認できないことはほかの人間と変わらないのだ。

 そして、裏で父の政敵と利害を一致させて結び付いていたとするにも、顔すら誰にも知られていなかった第5王女がどこでそんな繋がりを得たというのか。


(でなければ、もっと僕たちの近くに協力者がいる場合)


 だが、これも可能性は薄いように思えた。ロッドフォード家で働く使用人は皆先祖代々から主家を同じくしている上に、決して秘密を口外させないために、妖精立ち会いのもと秘密遵守の誓いを立ててから働き始める。誰かがロッドフォード家以外の人間に妖精の話をすれば、誓いを立てた相手である主人・オリエット伯爵にすぐにわかるはずである。


 セシルの目に影が落ちる。もしもの検討にすぎなくても、裏切り者の可能性は胸に重くのしかかった。


 やはり可能性は前者の方が高いのではないか。願望にも近い結論で、セシルは手綱を引きながら改めて声をかけた。

 

「あの、ローズ様はなぜギルベット修道院を訪ねられたのですか」

「……」

「……ローズ様?」


 質問の意図に深い意味はなかった。ただ、外部と繋がるには外出の折りが一番自然であるように思われただけだ。

 セシルはとうとう無視されるようになってしまったと、少し焦りながら振り返った。


「…………卿はいったい何をお知りになりたいのかしら。私だって、たまに外に出るくらい許されて良いのではなくて? お陰でアレックスを拾いあげることができたんだから」


 ようやく低い声で答えたローズの凍りつくような冷たさに、かの夜のバラ園を思い出した。常のセシルであれば、その冷たさに恐れ戦き、静かに視線を前に戻して先を歩いていたはずである。


 だが、今日そのときのセシルはもうずいぶんと色々なことが限界であった。肩は痛いし、破けた服は乾ききっていない、膝はがくがくで、小妖精は流血沙汰になるまで話を聞かない。背後の城では竜が起きているし、弟の考えることはわからないし、命がけで助けたはずの目の前の姫君は自分とまともに話をする気もないらしい。


 疲れていた。身も心も。


「そうですね」


 思い出されたのは、あのバラの生け垣が囲む宵闇の中の光景だった。

 彼女は扇を常に顔の前に立てていた。セシルの心臓に棘を打ち込むとき以外は。


「そうやって、あなたはもうずーっと、これから先も棘ばっかり投げるバラの花でいつづければいい。扇越しでようやく人と話ができるという扱いの難しさじゃ、なるほど人前にもなかなか出てこれませんよね」


 自分でも吃驚するくらい、冷ややかな声が出た。考える前に言葉が出るのはいつものことだったが、こんなに淀みなく攻撃的な言葉が滑り出てくることは、今までのセシルにはそうそうないことだった。

 言い分は、相手を言い負かそうとする、子どもの喧嘩そのものだった。しかし、それを諫められる大人はここにいない。物言わぬ小鹿と黒馬はただの動物そのものですと言わんばかりにそっぽを向いていた。


「……あなたとアレックスを似てるだなんて、僕の勘違いもいいところだ。彼は、自分のしたことを、僕に謝りましたよ」


 黙って聞いていたローズは何も言い返さなかった。だからセシルも、それ以上言うことはなく、また二匹の妖精と同じ方向を向いて大股で歩き始めた。


(……彼が謝ったのは、貴女を人質にしたことを、だけど)


 セシルの勘違いも、未だ続いていた。

 

  ***

 

 どれほど無言で進んだだろうか。ケルピーがその鼻先でセシルの後頭部を小突くのにも飽き始めた頃だった。


「……あ」


 先を歩く小鹿がセシルの声に反応したように振り返った。つぶらな瞳の向こうには、木々の隙間から垣間見える光があり、村への到着を物語っていた。疲労のせいか、眩しさのせいか、視界が揺らめいた心地がした。


「……えっと」


 セシルはローズになんて声をかけようか迷い、口ごもった。率直に言って、さきほどの己の発言故に気まずかった。心なしか、暑さで汗も流れている。痛む肩には布が重なっているせいか、さらに熱を感じる、セシルはそう思った。


「ねぇ、セシル」


 そして、まさか向こうから声をかけてくるとは露ほども予想していなかったので、セシルの小さな心臓はきゅっと縮こまった。たとえ、草葉の擦れるような微かな声でもセシルの耳は確かに拾い上げた。


「なぜ、助けたの」


 歩みを止めて振り返ったとき、ローズの頬が今までより僅かに明るく見えた。森を抜け始め、光が届くようになったからだろうと、セシルにはわかっていた。


 セシルは、今度は考えながら言葉を選んだ。頭は多少ぼんやりとしていて、あまり慎重には考えられなかったが。


「貴婦人を助けるのは貴族の義務。……ましてや、人浚いが妖精ならロッドフォードにはなおのこと、です」


 ――――言えれば良かったのかもしれない。あなたが今もまだ、少しだけ、ほんの少しだけ、自分には輝いて見えるからだと。


(でも、あなたは魔女だ)


 傅くべき女王は幻想そのものだった。


(妖精のなかでもたちが悪い、男を惑わして死に至らしめる、それが人間の倫理に反するとわからない、魔女だ)


 だが、魔女であるということもまた、公の場で断罪できる罪ではない。彼女はセシルの幻想の中の罪人ではなく、現実の、人間が営む社会のなかで罪を犯したのだ。

 いっそ本当に悪どい妖精であったなら、セシルたち一族だけが対峙できる存在として、独占することもできたのに、と、意味のない空想が久しぶりに頭を掠めた。


 愛してなお、恨んでなお、目の前の煌めきは、セシルには少し遠かった。


「そう」


 小鳥のさえずりも遠い沈黙の中で、ローズの静かな声が空気を小さくふるわせた。


 赤みを取り戻し始めた唇からはそれ以上何も出てきそうになく、セシルは体を前に向かせた。このあと、彼女を家のものに見張らせてから、自分は急いで城に戻らねばならない。そう思うと、重い頭は眩暈を起こしそうだった。


「助けてくれてありがとう、私を案じてくれて、ありがとう」


 聞き間違いかと思った。

 しかし、背後の貴婦人の言うことなすことには、五感すべてが研ぎ澄まされるセシルである。突然もたらされた静かな礼に、その場で振り返ろうとした。


 しかし、若草の瞳がもう一度、アメジストの輝く様をその目で確認することは叶わなかった。


 ガツッ、と、側頭部に鈍い衝撃が走る。


 視界の端に薄汚れたチャコールの上着を握りしめる手が映った。きっとあの布は、黒い鍵を包んで重りがわりとしているに違いなかった。

 

「見殺しにしておけば、後顧の憂いもなかったのにね。……つくづく、あなたは私を上手に喜ばせてくれるのね」


 馬がブルルッといななくのが聞こえて、咄嗟に手綱を絡めたままの左手を強く引き寄せた。


 小鹿を呼び寄せる声がする。このまま彼女に案内人をつれていかれて、果たして自分はどうなるのか、彼女を取り逃して、じぶんは、アレックスはどうなるのか。

 彼女は、何をしたいのだろうか。


「……やっぱりこのまま、私を連れて逃げてしまえばよかったのに」

 

 視界が狭まっていく。瞼が落ちようとしているのを感じた。

 暑い。熱い。殴られたのは頭なのに、息が苦しかった。

 こんなにも自分は脆かったろうか。確かにあまり運動はしない上に、今日は疲労困憊の半日だったが。そして怪我もして、出血の手当てもろくにしていないが。

 アレックスもあのとき、こんな苦しみを味わったのか。否、あの怪我の出血はもっとひどかった。


(……ローズの、怪我は……)


 意識はそこで途切れた。

 

 ***



 夏に向かう強い光も、厚く重なる濃緑の葉で遮られる森の中だった。

 

「当ててみたら良いわ、魔法使いさん。――私なんて、語られなくても当てられるのよ」


 こぼれ落ちた秘密も、何人の耳にも届かない。



 ***


 息苦しさに目覚めたとき、セシルは柔らかなベッドの上にいた。


「セシル、暇。いい加減起きて」


 腹の上には、枕よりなお柔らかそうな白い頬をむくれさせた幼い金髪の妖精が馬乗りに座っていた。

 どこかで聞いた言葉だが、あまりにも突拍子がないので、きっと夢だろうと思って、セシルはまた目を閉じた。


「死ぬのか? 少し待て、俺の身の潔白のためにも誰かに一緒に看取ってもらおう」


 部屋を出ようとする扉の軋みと共に聞こえた異母弟の言葉に、背中にバネが入っているかのごとく跳ね起きたのだが。


「わあ、お兄さんお目覚めから元気! ……どうせ起きないなら小腹満たしに少し齧ってやろうと思っていただけに残念だよ、小僧」


 ベッドのわきで蛇のようにニタァ、と笑った小麦色の髪の妖精の姿を目にするなり、やはり夢だとまた倒れ伏した。


ここまでお読みくださってありがとうございます。

この先もお付き合いいただければ幸いです。

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