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オリエット伯爵の跡取り息子  作者: あだち
第五章 眠る秘密
35/109

手綱の先

 水中に引き込まれる直前、セシルは投げられた手綱につながる轡を掴むことができた。


(やった!! これを(ケルピー)に付けることができれば……!)


 そのとき、人型から馬に戻ろうとするケルピーごと湖の深みに落ちていこうとした己の体が、逆に(おか)の側からぐん、と引かれたので、セシルは驚いた。


(うそ!!)


 水棲馬に逆らう力が哀れな獲物を引き留められたのは本当に一瞬で、次の瞬間には予定通り、セシルの体は掴んだ馬具と一緒に水の中に引きずり込まれた。


(うそだろ、そんな)


 轡につながる手綱の先を、痛みで顔をしかめたローズがしっかりと握った状態だったのは、セシルにも、おそらくケルピーにも予想外だった。

 勿論、彼女も共に水の中へ続く結果となった。


(なんで一緒に落ちてきちゃったの馬鹿―――――っっっ!)


 声を出せないセシルの心の絶叫が聞こえるはずもないのに、ローズがむっと唇を尖らせたように見えた。



 ***

 


 どぼんと沈みこんだ水の中で、彼らが互いに視線を交わしていられる時間はそう長くなかった。

 セシルは自分の上体に掛けられた馬の前足を引きはがそうと力を込めた。人型の腕に比べれば動き方が制限される馬型の足はその拘束を僅かに緩め、セシルに希望を持たせた。


「……っ!」


 しかし、馬の拘束が緩むと、足に代わってその凶悪な顎が襲ってきた。暴れるセシルの首を狙った固い前歯は少しずれてその右肩に噛みついた。今までに味わったことのない激痛に、セシルの頭が真っ白になった。

 もし、鍵を懐に入れたままのローズがセシルを抱き寄せなければ、セシルの肩はそのまま噛みちぎられていただろう。黒い馬は先程同様忌々しそうに首を振って二人から僅かに離れた。

 大丈夫? 暗くゆらめくセシルの視界で、アメジストのきらめきがそう問いかけるようにのぞき込んできた。

 セシルは肩を押さえながら、お礼のつもりでその紫色の宝玉を見つめ返すと、二撃目が来る前に二人で水面に上がった。特にセシルは息が限界だった。


「ゲホッ……セシル、逃げないと……」

「がっ、ゲホッ……あなただけ行って!」


 目を見開くローズの手から手綱だけを引き寄せ、セシルは迫りくる水棲馬に向き直った。

 ハーンが直接指示を出さない以上ケルピーの根城への案内までしかしてくれないオオカミたちだが、彼らを借り受ける前提として、セシルはハーンに『ケルピーを捕らえる意志がある』と言って来ている。なんとしてもあの黒い馬にこの馬勒をつけないと、コインを渡しているとはいえ、取引破りになってしまう。


(って、言ったは言ったけどさぁぁ!!)


 水中においておよそ一対一でケルピーに勝てる人間はそういない。攻略方法が『馬勒をつける』ということだが、人肉を噛み切るつもりでいる妖精獣の口に轡を()ませることが土台無理なのだ。


 大きく息を吸ってもう一度潜ったセシルの目に、金の目に殺意をみなぎらせたケルピーの姿が映る。鍵を持っているとはいえ、ローズから少しでも遠ざけたくて、セシルは両手で轡と手綱をしっかりと掴んだまま、その場から急いで横にそれた。ケルピーも鼻先を逸らしてセシルの方を追ってきた。

 硬い地面の上とは異なるはずなのに、水棲馬は水中を蹴って速度を上げようとした。前足が大きくセシルに向かって繰り出される。腕がどうなろうと、セシルはケルピーが噛みつこうと大きく口を開いた瞬間を狙うしかない。黒い馬体はもうすぐそこだった。

 ところが。


(……は!?)


 またしてもローズが阻んだ。彼女はセシルの短い言葉を無視して水から上がらず、あろうことかケルピーの背後からその黒い尻尾にしがみついたのだ。さらに恐ろしいことに、セシルが鍵を忍ばせたはずの上着を着ていなかった。

 ケルピーはまるでいななくかのように上体を反らし、そして己の背後の邪魔者に噛みつかんと身をよじった。


(だ、駄目ーーーーーーーーーーっっ!!)


 セシルはほとんど反射で目の前の太い首に飛びついた。


 ***


 目前に迫る死の恐怖に目を閉じていたローズは、上着を岸に放ったあとの身軽な自分の右腕が、突然上に向かって強く引っ張られる感覚に目を見開いた。

 視界は白く細かい泡の壁に遮られて、自分を引き挙げる何者かの腕以外は見えなかった。それでも、ざぱっ、と水面に自分の顔が出れば、肺を満たす新しい空気と緑の匂いに安堵と喜びが押し寄せた。


(生きてる!)


「セ、」


 目の周りに張り付く金髪をかき分けて横にいるであろう赤毛の青年の名を呼ぼうと首を巡らせた。

 しかし、ローズが目を向けた先の水面に顔を出していたのは金の目に黒髪の、美しくも恐ろしいあの青年だった。

 アメジストの瞳に恐怖と絶望が浮かぶ。


「セシル……」


 この場にいない者の名を呆然と呟くローズに、黒馬が化けた姿の美青年が出会った時と同じように笑う。


「呼ばれていますよ、ご主人様」


 青年が己の首に巻き付いた革紐を手繰り寄せると、水中からゆらゆらと赤い頭が浮かび上がる。


「まったく、お嬢さんを引き上げろと指示してきたから従ったのに、結局私の手綱にぶら下がって、自力じゃ上がってこれないんじゃないですか」


 しゃあしゃあと喋るケルピーの横で、疲れ切った顔のセシルがようやく水面に出てきた。

 若草の目は力なくもなんとか開かれており、その視線がローズへと動いた。視線が合ったローズの大きな目が歓喜にさらに見開かれる。


「セシル!!」

「…………ごぶ、ご、……ゴボッ」


 放っておいたら再び沈みそうなセシルにローズが慌てて手を伸ばす。

 ケルピーがやれやれと言う顔で革紐をさらに引き上げる。紐の先はそれを掴むセシルの左手につながっていた。そのままケルピーは己の肩を貸し、ようやっとセシルの肩から上が水から引き上げられた。


「……ご無事ですか、公爵夫人」

「…………無事だと思う? ご子息殿」


 それぞれ肩と足に深手を負いながら、怪我の元凶たるケルピーに引きずられて、今度こそ二人は岸に上がったのだった。


 ***


 オオカミたちは湖畔に上がってきた黒髪の青年にグルルと唸り、青年も金の目に不快感を浮かべて見返したが、ヨロヨロのセシルがそっと革紐――馬の姿であれば手綱に変化する紐を引いてアピールしたことで、状況を把握したオオカミたちは溜飲を下げたようだった。正規の主人たるハーンを侮辱した憎いケルピーが人間に従った顛末を伝えるべく、彼らは来たとき同様の俊足で去っていった。横でローズがホッとしたように息を吐いたのが伝わってきた。

 オオカミたちが去ると、そこにはセシルに無理矢理連れてこられたイチイの妖精がぽつんと残された。


「小鹿……なんでここに」


 オオカミの去る方向を見つめていたローズがしゃがみこんで上着を手繰り寄せながら呟いた。ローズが水面から湖畔に向けて投げたらしいチャコールのびしょびしょのコートの中には鍵がある。右に左に鼻先を揺らしていた小鹿は、ローズの手元に鍵が戻ったことで従う人間を見極めたらしく、トトト、と軽やかな足取りで寄っていき、その顔を濡れた金髪に寄せた。


「っ、とにかく、城に戻りましょう、ローズ様」


 肩から流れる血と痛みに言葉をつまらせながらセシルは言った。


「向こうには、まだアレックスと……あとアレックスがいますから」


 キーラもいる、と続けようとしてやめた。ローズにはなんのことかわからないだろうと思ったからだった。おかげでやたらに弟のことばかり気にかけるような言い方になってしまったが、あながち間違いでもないので訂正はしなかった。まだ竜のことは解決していないのだから、彼らを城に置いていくわけにはいかない。

 しかし、ローズは小鹿に凭れながら俯くだけで、同意を返さない。流血する脛を片手で押さえながら、上着を探り、その重みで鍵が自分の手元にあるとわかったようだった。

 嫌な予感がし始めたセシルの見つめる先で、ローズは小鹿の頭を撫でて、「村へ案内して」と言った。


「そんな、公爵夫人!」

「悪いけど、私には戻る理由がないの。戻るならその馬……男? と、二人でどうぞ」


 ケルピーが人型のまま眉を潜めた。


「ご主人、私も城に近づくのは嫌です。鹿頭に殺される」

「お前は橋を渡らないで僕が戻ってくるのを待ってろ」

「それも嫌です……。鹿頭を、人間に協力するなんてバカな奴だと笑った手前、こんな情けない姿は見せられない」

「…………あ、そ」


 大きく開いた口の中に後ろから(くつわ)を引っ掛けられ頭絡(とうらく)を締められてからと言うもの、人(妖精)が変わったかのように従順になったケルピーだが、もとが人食い魔獣である。自力で馬具を外せないとは言え、油断はできないと思うセシルは革紐をもう一度手に取った。


「……っつ、う」


 しおらしく駄々をこねるケルピーを睨むセシルの背後でローズが呻いた。振り替えれば、華奢な小鹿に寄りかかりながら、右足を引きずって歩こうとしていた。小鹿の細い体も業務範囲外の重みにふるふると震えている。


「ろ、ローズ様、そんな怪我で一人で帰れるわけないでしょ! 小鹿の骨も折れちゃいます!」

「……」

「せめて治療しないと!」


 肩の痛みを堪えてローズに駆け寄り、その腕をつかんだ。


「っ、触らないで!」

「いだっ!!」


 振り払われた右腕から伝わった振動が肩に激痛をもたらした。思わず情けない声を出すセシルに、ローズの顔が強張った。

 暫し、無言の間があった。ローズは固く口を結び、セシルは痛みで声も発せず、セシルに引っ張られていたケルピーは二人に興味なさげに小鹿と見つめあっていた。


 どれくらいそうしていたか、ローズがセシルと目を合わせないまま、ゆっくりと一歩を踏み出した。が、眉間の皺を深くしてそのまま固まった。迫る命の危機に必死だったさっきまでと違い、冷静になればなるほど痛みが顕著に感じられるようになっているのは二人とも同じだった。

 唇を噛み締めるローズを見てセシルが口を開けたそのとき、ケルピーが「あの」と控えめに声を発した。


「ご主人。差し出がましいようですが、あなたも、このお嬢さんも、応急処置のあとはなるべく早めにちゃんとした手当てをした方がいいと思います。そりゃ、毒はないですが、結構深くいきましたので。あの辛気くさい城で出来る治療なんてたかが知れているのでは」

「……ほんと、噛んだ本人が言うと説得力が違うね」


 セシルが返した皮肉にケルピーが「でしょ?」と悪びれずに重ねる。

 セシルは水滴に混ざってにじみはじめた額の汗を左手で拭い、ため息を吐いた。この場にいない弟に向けて、今だけは、恋に生きる金髪のピクシーの加護があることを切に祈りながら。


「ローズ様、まずは止血をしましょう。そのあとはこのケルピーに乗ってください。……あなたにまた逃げられないよう、森の外に出るまでの手綱は僕が引きますが」



 ***


 妖精が蔓延る暗い森のなか、フンフンと足元の土の臭いをかぎながら歩く小鹿を先頭に、肩の止血のために裾がビリビリになったシャツ姿のセシルが続き、その後ろを黒い毛並みの馬に乗るローズがいた。馬の手綱はセシルの手にある。

 ローズの足はローズ自身のシャツの袖をちぎって止血されていた。セシルが自分のシャツを切ろうと申し出たのだが、「まさか上半身に何も着ないで私の前に立つおつもり?」と言われ、シャツより先に破かれた気遣いと共にすごすごと引き下がったのだった。


「……」

「……」


 無言のままの二人の間で、黒い馬がその鼻面で主人の赤い頭を小突く。

『男だろ、何か喋れ』そういわれた気がして、セシルは目を泳がせながら、唇を舐めた。


「……ローズ様、どうして僕たちを狙ったんですか」


 すかさず、馬がセシルの赤毛を食む。親愛の証ではなかった。


(うるさい、こっちは口説いてる場合じゃないんだよ、馬鹿)


 小鹿を見たまま、叱るように背後の馬の手綱を引いた。


 



 


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