駆ける妖精、交わる視線
「……もうじき半刻経つ。これであの鹿も逃げない、のよね?」
誰の応えも無い門の前で、ローズはそう独り言ちた。右手に持っていた懐中時計を慣れない仕立ての上着の内ポケットにしまう。左手にはもう変装の用をなさなくなった帽子が握りしめられている。
「随分時間を無駄にしちゃった。まったく、あの男が銃と妖精の関係を知っていれば、ほかの手段を考えられたのに……」
セシルに閉め出されてからと言うもの、門の向こう、城の中からあの二人が戻ってくるのと、時計の長針が半周するのとどちらが先かと気が気ではなかった。自然と跳ね橋を渡る足は速くなる。ローズは一刻も早くこの城と森を離れ、見知った安全な場所に戻りたかった。
どうしてこんなことになったんだったか。そうだ、あの人がやってきたからだ。あの人に私のことが、私たちのことがばれてしまったからだ。
(……それもやっぱり、私のせいだけど)
イチイの木に鍵の先を押しつけ、すっと下に向かって線を引く。小鹿が出てくるのを待つのももどかしく思った、その時だった。
「お嬢さん、お急ぎの様子ですね」
森の入り口から掛けられた声に、細い肩が強張った。振り返ったその先に、見たことのない美しい青年の姿があった。
男は背が高く、アレックスと同等かそれ以上だと思われた。輪郭を縁取るのは癖の強い黒髪で、金色の目が際立って引き付けられる。
突然現れた見知らぬ男に警戒しなくてはいけないと、ローズの理性は警鐘を鳴らす。なのにどうしてか男の美貌から己の目を逸らすことができず、ローズはこんな事態でありながら、生まれて初めて“見惚れる”という経験を味わった。
それでも、呆けていたのは一瞬で、まばたきの次にはローズの頭は目の前に人間がいることの不可解さで占められた。じっとその金色の目を、今度は意志をもって、探るように見つめる。
(……っ!? なにも聞こえない……)
一言も発しないローズの胸中を密かに占めた動揺が青年に伝わるはずはなかった。かわりに優しく目を細めて、ごく穏やかな声で話し続ける。
「よければ私が森の外までお送りしましょう。その鹿に徒歩でついて行くよりも、ずっと早く森を抜けられますから」
逃げるべきか否か迷っていたローズは、その言葉に目を見開いた。道のない森の中を通ってここに来るのにも、それなりに時間と苦労を要した。洞から首だけ出した小鹿が抗議するように鼻先を振っていたが、同じ帰途をたどるより別の方法があるなら、聞くだけ聞いてみたいというのがローズの正直な思いだった。
何より、この時のローズは、普通の人間とは異なる点を持つ目の前の男を『信用したい』と思っていた。
しかし、相手を信じ、詳細を知りたいと思う傍らで、都合の良い話に疑念も感じていた。
揺れる気持ちを落ち着かせたくて、ごくりと喉をならす。
「……言っていることの意味がわからないわ。それよりあなた、なんで……その……」
しかし、口ごもったローズに考える間を与えないかのように、青年は困ったように形のいい眉を寄せて「ただ」と言葉を被せる。穏やかな笑みは曇り、悲しげな視線はローズの手に握られる黒い鍵に注がれていた。
「そのためにはあなたが今持っている鍵を捨ててもらわないと。私には、その土臭い鍵はとても不快だから」
「……それはできないわ。この鍵は、元の場所に戻さないと……管理している者たちに、恨まれてしまうから」
もとよりこんなところに立っている時点で普通の人間ではないだろうが、青年が黒い鍵に言及したことでローズの中の警戒心がにわかに強くなった。
しかし、助力の申し出に迷う気持ちも嘘ではなかった。
紫の瞳を伏せ、握りしめた鍵を見つめるローズの胸中には、今これを手放していいものかと迷う気持ちが渦巻いていた。妖精を避ける効果があることは知っているが、なぜ妖精を避けなくてはいけないのかは、分からない。――ローズは、森の妖精の恐ろしさを知らなかった。誰からも聞いていなかった。
理由のわからない禁止事項は、それを破ることで得られる利益の前では、拘束力が脆い。
何よりローズには、相手の男に対して最初に抱いた、ある『期待』から、男を信じたいという気持ちの偏りが生じていたのだ。
(もしかしたら、この人も私と同じ方法で鍵のことを知ったのかもしれない)
青年の言うことに耳を貸してはいけないと忠告するものは、この場にいなかった。
「確かに、あなたの話は、すごく、すごく魅力的、だけれど」
だったら、と青年が笑みを取り戻したところで、ローズは恐れながらもしっかりと、相手の金の目を見据えた。
「正直に答えて。あなたは、私の、私たちの仲間なの?」
有り体に言えば、ローズは肯定を期待して問うた。
「…………は?」
しかし、青年は再び表情を陰らせて戸惑ったように首を傾げた。
その様子に予想を裏切られたことを知ったローズは静かに混乱と焦燥のどん底に突き落とされた。
「ち、違う!? え、じゃあなぜ……? いえ、それより、今の言葉は即刻忘れなさい!!」
握りしめた帽子で口許を隠しながら、青ざめ、焦るローズは僅かに後退った。逃げようとするその様子に青年の顔ははじめて固くなったが、不用意な発言をしたという後悔に苛まれていたローズはその様子を見逃した。
そのとき、背後の橋の向こうで、城門が大きな音をたてて開いた。
ローズは息をのんだ。振り返らなくてもわかることは、これはタイムリミットを告げる音だということだった。
急いで足元の小鹿を見た。外まで急いで案内しろと言っても、マイペースな妖精獣に聞き入れてもらえないことは、この城に来るときに思い知っていた。
指先が冷たくなる。焦りで思考が固まる。
その中で、ローズの目の前に大きな手が差し出された。
「お嬢さん、私の手を取りなさい! 捕まってしまうよ、早く!」
ローズは差し出された手と、小鹿を順に見た。何事も慎重に行動を選ばなければという行動理念は、捕縛を恐れる気持ちで塗りつぶされたこの時には働かなかった。
「ローズ!!」
『駄目だ』と、赤毛の男の声にならない叫びが聞こえた。うるさい、と心のなかで言い返す。
皮肉にも、セシルの制止こそがローズの背を押す結果となった。左手の帽子を手放して、青年の方へ手を伸ばす。
「鍵を捨てて、私の言う通りに!!」
青年の手にローズのそれが重なる一瞬前、耳に届いた青年の言葉に、ローズはとっさに従った。
青年はローズの問いかけに頷かなかった。しかし、ローズはこの美しい青年に、他人である背後の追っ手よりは仲間に近いものであってほしいと願った。願望そのまま、賭けに出た。
「乗っちゃ駄目だローズ!」
手を握られたことを実感したそのすぐ後には、強い力で引き寄せられ、その勢いのままにローズの足は宙に浮いた。男の金の目が笑っていた。黒い髪の隙間から垣間見えた耳が尖っている。
だが視界はすべて、黒い毛並みに遮られた。
次の瞬間には浮いたローズの体は黒い馬の背に乗せられていた。ローズは青年が目の前で獣に姿を変え、その背に己を乗せるやいなや、跳ね橋から一目散に走り離れたのを自覚して、自分が判断を誤ったことに気が付いた。
馬上から振り返った先に、門から出てきた赤毛の青年の姿が見えた。しかしそれも周囲の景色同様一瞬で見えなくなった。
賭けに負けたと後悔しても、もう遅かった。
(“何も聞こえなかった”のは、同族だからじゃなくて、こいつが人間じゃないからだったんだわ!!)
疾走する黒馬の上で馬具もなく、ローズは振り落とされないよう必死にたてがみにしがみついた。もはや青年、もといこの馬を頼るのは愚かそのものだと分かっていたが、木々の形も目で捉えられない速さで馬上から地面にたたき落されること、すなわち死への恐怖がローズの手足に力を込めた。
既にローズの視界で形を成さない暗い森の中を暫く走ると、視線の先に光が見えた。まさか、本当に最速で外に出たのかと思ったが、そんな都合のいいことがあるかと嫌な予感に身を固くした。走る馬は一切の減速なしに光に向かっていく。
待つというほどの時間もたたずにローズは光の正体を知った。水面だ。湖の水に昼の光が反射していたのだ。
まさかと思った瞬間、馬はローズを背負ったまま冷たい水の中に飛び込んでいった。怪我をしてもいいから馬上から下りようとする意志が生まれる隙間もなく、盛大な水飛沫のただ中に飲み込まれていった。
「……っ!!」
光の中に出たのは一瞬で、水の中は闇が広がっていた。ぶくぶくと沈んでゆく体を浮かせようと、ローズは水を掻くように手足を動かす。しかし逆にぐんと強く水底に向かって片足が引かれた。見れば、恐るべき黒馬はローズの履くトラウザーズの端を噛んでいる。見惚れたはずの金色の目が、暗い水の中で不気味に輝いていた。
ローズは苦しくなる息に追い詰められながら、そのおぞましい金色に向かって自由になる左足を思い切り蹴りだした。水の抵抗で蹴る先がずれた足の裏はその鼻先に当たったが、その馬面を蹴り飛ばした反動でトラウザーズを噛まれていた右足を力の限り自分の方に引き戻した。水の中でも布が裂けたのが分かったが、足が引きちぎられるのに比べたら服くらいなんでもなかった。
足の自由を取り戻したローズは無我夢中で水面の光に向かって水を掻くと、幸い、呼吸が限界というところで水面に顔が出た。ゼェ、と大きく空気を吸うが、呼吸を落ち着かせる暇などなかった。
助かる、そう思って必死に岸へ向かって泳ぐが、その手のひらが生い茂る野草に届く前に、ローズの体を激痛が襲った。馬の顎は、今度こそ彼女の右のすねに噛みついたのだ。常に右足を狙うのが獲物を狩るときのこだわりなのか、丁度服の破れた部分である。
まだ息の荒かった口に水が入ってくる。湖の周りに助けはなく、暗い森の中から出てくるオオカミの姿があるだけだった。
もう、駄目だ。
ここまでだ。視界が水中に引き戻されると同時にローズは自分の中にあった希望も沈んだのを感じた。何も楽にならないと知っていても、遠ざかる光を自ら遮るように目を閉じた。
(どうせこんな死に方するなら……どうかここで死んだ事実が誰にもわかりませんように)
でないと、父が悲しむだろう。母に、迷惑をかけてしまうだろう。
(お母様、ごめんなさい)
でも、これで、かえって安心できるよね。
力を抜いたローズの体に何かが触れた。黒馬の仲間がやってきたのかと反射的に目を開けた。
『絶対に、渡さない』
暗い筈の水の中で、岸へと伸ばした手が望んだ、あの若草の緑色が輝いている気がした。
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橋の向こうで、ローズが人間に化けたケルピーに攫われるのを、セシルは見ていることしかできなかった。
小鹿も所在なさげにイチイのふもとで首を左右に巡らせている。呼び出した人間がいなくなってしまったからだろうが、セシルはそれにかまってはいられなかった。
(どどどどうしよう! 妖精が美人を好むのは知っていたけど、よりによってケルピーだなんて!!)
竜の目覚めを除く最悪の事態に直面したセシルの体は急速に冷えていったが、ここで時間を無駄にしてはそれこそ一巻の終わりだった。アレックスにも教えた通り、あの妖精は背に乗せたローズを自分の縄張りである湖に引き込み、内臓だけを残して文字通り食べてしまうだろう。妖精による連れ去りの中でも、無事に戻ってくる望みを持てない凄惨な事案だ。
取り返さないといけない。
妖精に人間側の要求をのませる最もオーソドックスな手段は取引だ。しかし、もともと人間側への要求が無い妖精を取引の土俵に乗せるには、大抵人間側が不利な条件をのまざるを得ないし、それを踏まえてうまく出し抜いたのが傘をさす老妖精の時だが、今回もうまく行くとは限らない。そもそも今日のセシルには先立つものが何もない。小さな鞄すらどこかに忘れてきたようだった。
そうなると敵対的な手段をとるしかないが、そこでセシルは用心のための銃が腰にないことに気がついた。それも鍵同様、竜の間に残してきた上着の中だ。
セシルは門の内側にとって返した。しかしその足は東の塔へは向かわず、厩舎へ向かった。
(……取引できない、追い払えない、殺せない、でも!)
埃に塗れた馬勒を手に、セシルは鍵を閉めもしなかった門へ戻った。
(あいつを屈服させる方法は知ってる!)
やることはすぐに決まったが、あの俊足の妖精に追いつけなければ意味がない。
橋を渡ってこようとしなかったケルピーに、守衛をつとめるハーンは弓矢を番えなかった。非常事態の興奮がなせる業か、疲労の蓄積を感じさせない速さで戻ってきたセシルは、妖精の厚い胸元を覆う毛皮につかみかかった。
「ハーン!! 今のケルピーを追うから力を貸して!!」
「……ロッドフォードの人間だな。悪いが、それはできない。もとより私はお前の曽祖父だかそのさらに曽祖父だかと契約して、この城に悪しき妖精が入らないよう見張ることを契約して、ぐぇっ……」
セシルは掴んだ毛並みに力を込めた。普段ならセシルは妖精に力任せに訴えかけることは決してしない。しかし、今は攫われた金髪の人妻のことしか考えられなかった。
「……お、落ち着け。私も護る城の周りを粗野な馬に走られ、獲物を出待ちされるのは不愉快だ」
「だ、だよね!?」
ハーンは小柄なセシルに体毛を引っ張られて煩わしそうにそう話した。
思わぬ返事にセシルは瞳を輝かせたが、次のハーンの言葉にまた固まることになった。
「だが、私は契約上ここを動けない。これは変わらない」
「そんなっ……!」
ぶちぶちっと何本かの体毛を引き抜いてセシルはあえいだ。ほかの妖精に協力を要請するといっても、見るからにかわいくてか弱いイチイの妖精には期待ができなかった。
狩人妖精が憮然とした顔で胸元を撫でたが、妖精への礼を忘れていたセシルは謝る言葉も出てこない状態で地面にへたり込んだ。
そのとき、セシルは自分の腰回りの小さな違和感に気が付いた。それまで気が付かなかったのに、タイミングを見計らったかのように主張してきた違和感の正体へ向かって手を伸ばした。
違和感の正体は、絶望していたセシルの頭にわずかな希望の種を撒いた。
「……ハーン。毛並みを乱してすまなかった。礼儀を失していたよ」
うって変わって落ち着いた様子のセシルの言葉に、見回りへ戻ろうとしていた妖精についた鹿の角が揺れた。
「それは構わない。この城で子供が育てられていた時代は、幼子の悪戯など日常茶飯事だった。子供と動物は相性がいいからな」
セシルは『ハーン』について学んだ知識を掘り起こした。森の番人と言われる、狩人の姿の妖精について。
「あなたの、その懐の深さを見込んで、提案があるんだ」
ハーンは太い眉を寄せた。取引はできない身だと伝えたばかりのはずだが、と言わんばかりの顔だった。
「ハーン、あなただってケルピーに馬鹿にされたままで、それであなたの誇りは傷つかないの」
「馬鹿になどされていないが?」
「本当に? だってあのケルピーは全部知っていて、あの場所で獲物が引っかかるの待っていたんだよ。あいつはあなたが、橋を渡ってきた妖精だけに矢を向ける契約をしていると知っていたようだね。
もしかして、あのケルピーは前にもこの城に近づいたことがあるんじゃないか? そして、あなたが射殺すよりも速く逃げ帰った」
ハーンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「だからなんだね? いかにも、私はあの忌々しい黒馬を追うことができなかった。君の祖父だか曽祖父だかその叔父だかなんだかとの契約によってね」
その言葉が欲しかったと言わんばかりにセシルは立ち上がってハーンに飛びついた。今度は左手だけだったが、再び胸の毛皮を引っ張られたハーンの顔が屈辱ではなく痛みで歪んだ。
「ハーン、僕はあいつを捕らえる方法を知っているし、その意志がある! あなたもあいつに一泡吹かせたいなら、目的は同じだよね!」
「だから」
「僕にあなたの手下を貸してくれ!」
ハーンの金色の目が見開かれた。森の番人、狩人妖精の手下といえば、それはオオカミと猟犬の群れである。きっとケルピーの棲み処である水場へもすぐに走れるだろう。
「……しかし、わたしから大事なオオカミたちを持っていくというのは、あまり喜ばしくはない。わたしはあのケルピーが嫌いだが、追わねばならない理由がないのでね」
「……そうか、そうだね。必死さの度合いが、僕とあなたじゃ違うものね。ただじゃ貸してはくれないね」
「……」
「じゃあこれがお代だよ」
セシルは握りしめていた右手を妖精によく見えるよう顔の前で開いた。
妖精のギフトは幸運の呼び水。キーラが反省してセシルに心を寄せたからか、上着のポケットに入れていたはずのコインは偶然という幸運でセシルのシャツとトラウザーズの間に挟まっていたのだ。
ここには比較対象となる見事な細工の腕輪も、金の質をあしざまに告げる置手紙も無い。
「金か。なるほど、小さいが、子どもからもらう貸し賃としては悪くない」
助力の口実を用意された妖精は、幼子を見るようにセシルに笑いかけたあと、弓を持たない右手を す、と顔の高さに掲げた。
取引は成立した。
疾走するオオカミの群れが、暗い森の中を駆けて行った。
ある一頭はその口に馬用の轡と手綱を咥えており、またある一頭の上には洞に戻りそびれたイチイの小鹿を抱えてしがみつく赤毛の青年の姿があった。
「…………っっっ!!」
妖精のもたらす幸運はすでに自身の手から離れている。どうか振り落とされませんようにと都合よく神に祈った。
~~~~~~~~~~~~~~~
(絶対に、渡さない!!)
目前に迫る湖の中、上がる水飛沫の隙間からわずかにローズの顔が見えたとき、セシルはオオカミから飛び降りて迷わず水中にとびこんだ。
深い湖の中にもぐってしまえば、陽光はすぐに届かなくなった。セシルはたゆたう長いものに必死に手を伸ばした。それがローズの腕か髪だと信じて。
指先が届いたと思えば、色彩の遮られる冷たい水の中でも、現れた紫の宝石が、沈む前の最後の輝きを放つように浮かび上がって見えた。
ローズを抱き寄せようとしてすぐ、彼女の足に噛みつく水棲馬の姿を認めた。食いちぎらせてなるものかとその鼻先に向かっていったが、セシルは自分が馬具を持たずに水中に飛び込んでしまったことに気が付いた。まだオオカミが咥えたままである。
しかし、黒いケルピーは水中という自分の領域において、なぜかセシルを避けるような動きを取った。
(……!! そうか、鍵!!)
アレックスから借りた妖精避けの鍵を、セシルはまだ持っている。妖精にとっては自宅のような湖の中でも、鍵に込められた魔法が威力を発揮したのだ。
しかし、セシルを忌避することはあってもローズを放すつもりはないようで、セシルは焦った。このままでは足を持っていかれるよりも早く、ローズが水死してしまう、と。
弱々しく瞼を閉じてしまったローズの上着の内側に、セシルは手を差し込んだ。常ならば想像すらできない大胆な行動だったが、鍵を確実にローズの上着のポケットに入れるのに集中して、手の甲に胸のふくらみが当たろうが何だろうが構っていられなかった。
途端、ケルピーは弾かれた磁石のようにローズの足から顎を離した。
セシルはいまだとばかりに力いっぱい水を蹴った。ローズを抱えて水面を目指す。
「っぶはぁ!!」
森の木々から開けた湖の上には、変わらない初夏の光が降り注いでいた。
「ろ、ローズ様、起きて、ローズ様!!」
セシルはなんとか岸まで辿り着くと、湖畔で待っていたオオカミたちの見つめる先にローズを横たえた。足から流れる血が痛々しいが、幸い噛みちぎられてはいない。
しかし彼女は目を開けなかった。水を飲んでしまったのか、まさかここまで来て、自分は間に合わなかったのだろうか。
「ローズ!!」
周囲のオオカミが唸り声をあげる。悲壮な想像を打ち消すように呼び掛けた。金色のまつげが微かに震えたのを、空気の振動だとは思いたくなかった。
よかった、そう思うのと同時に、セシルは強い力で足を引かれた。
(しまった、ケルピーがまだ……!!)
咄嗟に、噛みつかれた靴を脱いだ。荒い運動の連続で紐が緩んでいたのが幸いし、湖に引き込まれかけた体を一瞬だけ自力で岸に縫い留めることができた。
視線をローズに向けた。岸に寝ころんだままの彼女の紫の目が、細く開いてこちらを見ていた。
「……せ……」
意識を取り戻した彼女が何を言おうとしたのかは分からなかった。セシルは再び強い力で水に引きずり込まれてしまったからだ。
せめて、「馬具をとってくれ」と言えたら、勝機が残っていたかもしれないのに!!
人型になったケルピーに手で口を押えられたセシルは、その緑の目で懸命にかつての思い人を見た。
上体を起こそうとする妖精の女王。これが最後に見る光景になるかもしれないと思いながら。
「セシル!!」
だから、彼女が寸分たがわず自分の望んだ物を投げてよこしたとき、ちゃんとそれを掴めたのは、本当に奇跡だったとしか思えなかった。




