第29話
浴場から戻ると、研究室が騒がしかった。
「お祭り! お祭り行きたい!」
アジュの声だ。
扉を開けると、アジュがアリスの袖を引っ張っている。その横には、カエの姿もあった。
「あら、ロイ。ちょうどいいところに」
アリスが僕を見つけて微笑む。
「今夜、工務区で『根還りの日』の祭りがあるの。アジュとカエが行きたいんですって」
「……祭り?」
僕は眉をひそめた。
つい数日前、アジュは帰り道で襲われたばかりだ。あんな目に遭わせておいて、また外に連れ出すのか?
「ロイ、お願い!」
アジュが僕の袖を掴む。大きな目が、期待に輝いている。
「カエも行きたいって。ね?」
カエが小さく頷いた。
彼女の表情はまだ乏しいが、その目には確かに興味が宿っている。さまよい病の治療後、少しずつ感情が戻ってきている証拠だ。
「……」
だが、僕は首を縦に振れなかった。
「危険だ。この前のこともある」
「えー!」
「アジュ、君にわがままを言われると、僕は結構困る」
アジュの顔が曇る。
それを見て、胸が痛んだ。だが、安全を優先すべきだ。
「まあまあ、ロイ」
アリスが割り込んだ。
「根還りの日は工務区全体がお祭り騒ぎよ。人通りも多いし、あの手のゴロツキは目立つ場所じゃ動けないわ」
「それでも――」
「私もついていくわ。それに、カリヤさんもいるでしょ?」
アリスが視線を向けた先には、窓際に立つクインタスの姿があった。
彼は何も言わず、こちらを見ている。
「……店主」
「俺がいれば問題ない」
クインタスが短く言った。
「お前一人じゃ心配だが、俺がいる。アリスもいる。何かあれば、俺が対処する」
「……」
僕は考え込む。たしかに、クインタスがいれば安全面は問題ない。彼の強さは、この前嫌というほど見せつけられた。
「ろいー……」
アジュが、上目遣いで僕を見上げている。
その顔を見ていると、断る言葉が出てこなくなる。
この前、アジュを毎日一人で帰らせていたことを後悔したばかりだけど、守りすぎて閉じ込めるのも、違うのかもしれない。
「……わかった」
「やったー!」
「ただし、条件がある」
僕はアジュとカエの前にしゃがみ込んだ。
「僕ら大人の手を、絶対に離さないこと。いいな?」
「うん!」
アジュが言った。カエも頷く。
「ロイ」
クインタスが僕を呼んだ。
「うん?」
「お前も子供だろう」
「何を言っている。僕はもう14歳だ」
「カエは15歳だぞ」
僕は呆気に取られ、カエの顔を見た。
いや、そうか。初めて精神病院で彼女を見たとき、同い年くらいだと思ったんだ。治療で接しているうちに、その感覚は薄くなってしまったらしい。
「……じゃあ、子供はアジュだけということにしよう」
僕が子ども扱いされないためにはこうするしかなかった。
アリスがくすくすと笑った。
「カエが大人ならわたしも大人!」
「いいや、君は子供だ。だから、僕の手を離すんじゃないぞ」
僕はアジュの手を取った。
「……うん」
「さて、出発しようか」
僕はクインタスに視線を向けた。
「ふっ。そうだな」
クインタスが目を細めて言った。
* * *
工務区には、トージの工房に用事があるときに何度か訪れたことがあるが、夜の工務区は、昼間とは別の顔を見せていた。
巨大な歯車の間を縫うように、灯火茸を入れた籠が吊るされている。
篝火が路地の角で爆ぜ、街路樹の根元にも灯火茸の暖色の光が踊っている。普段は油と金属の匂いが漂う通りに、香辛料や焦げた肉の匂いが立ち込め、食欲をそそられる。
「すごい……」
アジュが目を輝かせた。
「感動的……」
カエも、珍しく声を上げた。
二人は僕とクインタスの手をしっかり握ったまま、きょろきょろと辺りを見回している。
地下都市の夜。
地上の太陽と同期する発光苔は、夜間は活動を弱める。街は薄暗く、根に生える灯火茸の淡い光だけが頼りだ。
だからこそ、祭りの明かりが映える。篝火や灯火茸の籠が、普段は見られない鮮やかな色彩で通りを照らしていた。
「さすが工務区だな。飾り付けの気合いが違う」
僕はその機能性とデザイン性を共存させる技に感心した。トージのような職人気質の者たちが多いのだろう。
「年に一度の根還りの日だからね。亡くなった人たちが核樹へ還ることを祝い、感謝する日なの」
アリスが補足した。
「死者を悼む日か」
「ええ。でも、悲しむだけじゃないわ。還った魂は核樹の一部になって、やがて新しい命として生まれ変わる。だから、お祭りなの」
僕たちは人混みの中を歩いた。
露店が並び、職人たちが自慢の細工を売っている。子供たちが走り回り、大人たちは琥珀酒と呼ばれる、この都市で取れる根菜から抽出した酒を片手に笑い合っている。
――平和だな。
この街にも、こんな顔があったのか。
普段は排他的で閉鎖的な印象ばかりだったが、祭りの夜は違う。よそ者の僕たちにも、露店の店主が気さくに声をかけてくる。
「おっ、お嬢ちゃん! いいもん食べてくかい?」
露店の店主が、僕らの方を見て声をかけてきた。
アジュがぎゅっと僕の手を握る。知らない人に話しかけられて、まだ少し緊張するらしい。
でも、逃げはしなかった。
以前の彼女なら、僕の後ろに隠れていただろう。
「……うん」
アジュが小さく頷く。
「根還りの日だからな、お裾分けだ。持ってきな」
店主が、黒パンのスライスに炭火で焦げ目をつけた肉を挟んだものを差し出した。
アジュがちらりと僕を見上げる。もらっていいのか確認しているらしい。
僕が頷くと、アジュはおずおずと手を伸ばして受け取った。
「……ありがと」
小さな声だったが、ちゃんとお礼が言えたのは大きな進歩だと思う。
アジュはそれを大きな口で頬張る。その顔を見ていると、連れてきてよかったと思えた。
「わっ、あれ見て!」
アジュが指を差した。通りの先、人だかりができていた。その中心には、派手な衣装を着た男が両手を広げている。その手のひらの上に、光の球が浮かんでいた。
「おおおっ!」
子供たちが歓声を上げる。
光の球は、男の意のままに踊った。分裂し、回転し、色を変え、空中に軌跡を描く。
闇の中で、その光だけが鮮やかに輝いている。
研究者の性か、どういう仕組みなのか気になってしまう。工務区の職人が作ったのだろうか。また今度、トージに聞いてみよう。
「すごい……」
アジュが、食い入るように見つめていた。
男が手を振ると、光の球が一斉に空へ舞い上がった。
そして――パン、パン、パンと弾けて、色とりどりの火花となって散る。
「わー! きれいっ!」
子供たちの歓声が響く。
カエも、珍しく口を開けて見上げていた。
やがて、ショーが終わった。
子供たちが楽しそうな声を上げながら散っていく。
僕たちも、そろそろ帰る頃合いだ。
「アジュ、行くよ」
手を引くと、彼女は名残惜しそうに空を見上げた。
「……夜なのに、まぶしかったね」
少し間を置いて、彼女は付け足した。
「お昼みたいだった」
僕は、思わず立ち止まった。
昼みたい、か。
頭の中で、何かがつながった気がした。
統一魔力を広めるのに、恐怖や不安を煽るやり方はしないと決めた。その代わりをずっと考えていた。アジュの言葉で、その輪郭が見えた。
光だ。喜びと希望が鍵なんだ。人々が統一魔力を求めるようにするには、絶望ではなく、希望を見せてやればいい。統一魔力があれば、こんなに素晴らしいことができる。そう示せばいい。
「ロイ?」
アジュが不思議そうに見上げている。
「どうしたの?」
「……いや」
僕は、アジュの頭に手を置いた。
「アジュのおかげでいいことを思いついた」
「え? なになに?」
「あとで教えるよ」
アジュが頬を膨らませる。
「ずるい! 今教えて!」
「帰ったらな」
僕は歩き出した。
足取りが、軽くなっていた。




