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8歳から始める魔法学  作者: 上野夕陽
第七章

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第11話


 さまよい病とカエの症状の関連を調べるため、僕は衛生区に足を運ぶようになった。この都市にある四つの行政区の内のひとつだ。

 真理区とは違い、こちらは薬草のプランターや煮沸されるビーカー、消毒用のアルコールの匂いが漂っている。


 中央診療院に併設された資料室で、魔力循環の異常、脳への影響、そしてさまよい病についての文献を片っ端から読み漁った。


 だが、文献を読んでも、核心に迫る情報はなかなか見つからない。

 さまよい病の症例報告はあっても、原因についてはどれも曖昧だ。信心不足、穢れなどといった宗教的な解釈ばかりで、科学的なアプローチはほとんど見当たらない。


「――だから! 送魔線を流れる魔力の濃度が不安定だと言っているんだ! 見過ごして良いわけがない! あんたらの責任だろうが!」


 衛生区から帰る途中、騒ぎに遭遇した。

 人垣の向こうに、作業着を着た中年の男がいた。

 顔には深い皺が刻まれている。両手を広げ、何かを訴えていた。


「黙りなさい。貴方たちの仕事は、我ら神官が核樹様から賜った恩寵を、滞りなく末端に届けることです。文句を言うことではない」


 純白の豪奢な装束をまとった数人の男女が、油と埃にまみれた作業着姿の男と対峙している。襟元には核樹を象った金糸の刺繍。神の手地域に住まう神官たちの証だ。


 アリスから聞いた話では、この都市は行政区と神殿の二重権力で運営されているらしい。僕たち研究者は行政区の側、神官たちは神殿の側。両者の間には、微妙な対立があるとも聞いている。


 彼らが動くたびに聞こえる鈴の音が、彼らの権威を象徴しているようだった。

 その中でも一際存在感を放つ、少年と青年の間くらいの黒髪の神官。細身で繊細そうな見た目からは氷柱つららのような印象を受ける。


「核樹様のことは、我々神官が管理している。貴方のような者が口を挟む問題ではない」


「だが、データを見てくれ! 送魔線のノイズが明らかに増加している! これは核樹様の悲鳴だ!」


 男は、手に持った紙束を振りかざした。

 何かの計測記録のようだ。


「悲鳴だと?」


 対峙する黒髪の神官の目が、危険な光を帯びた。気圧された作業着の男が一歩退く。


「核樹様の御身を、そのような不敬な言葉で語るな」


「お、俺は事実を言っているだけだ! 神殿は都合の悪いことには目を瞑るのか!」


 作業着の男が神官の右の手首を掴んだ。神官は心底嫌そうに顔を歪め、何ごとかを唱えた。すると、衝撃波のような風が起こり、作業着の男は背中から地面に強く打ち付けられた。


「ぐ……ごほっごほっ」


 他の神官たちが、咳き込む送魔線技師を冷ややかに見下す。そんな中、技師を吹き飛ばした黒髪の神官は、装束の掴まれた袖の部分を気にするばかりで、技師には目もくれなかった。


 黒髪の神官が顔を上げたとき、ちょうど正面にいた僕と目が合う。彼の目が眇められ、すぐに逸らされた。そして、何事もなかったかのように、鈴の音を通りに響かせながら、厳かに立ち去っていった。


 人だかりはすぐに解散し、通路には突き飛ばされた男だけが残された。僕はゆっくりと彼に近づき、手を差し伸べる。


「大丈夫ですか」


 男は荒い息をつきながら僕の手を睨み、やがて、ため息混じりにその手を掴んで立ち上がった。よほど強く打ったのか、背中をさすりながら作業着についた埃を払っている。

 男はそこで、初めて僕を見た。


「……研究員か」


 嗄れた声だった。僕の顔をじろりと見定める視線には、警戒と疲労が滲んでいる。

 さきほどの神官たちに向けた剥き出しの敵意とは明らかに違う。だが、歓迎しているようでもない。


「ええ」


「……そうかい。ご立派なことで」


男はそれだけ言うと、地面に転がっていた工具袋を拾い上げた。


 なんだか含みのある言い方だ。

 研究員も神官と同じく、この都市のエリート層である。神官にあれほどの怒りをぶつけていたのだから、研究員である僕にも、好意的でないのは理解できた。

 だけど、彼の声色には敵意というより、深い諦観が混じっているように聞こえた。まるで、期待するだけ無駄だとでも言うように。


「……送魔線が異常値を示しているというのは?」


「あんたには関係ないことだ」


 男は僕の言葉を遮り、背を向けた。


「ご立派な研究員様は、俺たち肉体労働者のことなんか気にせず、高尚な研究室にでもこもっていればいい」


 その無骨な背中が雑踏に消えていくのを、僕はただ見送るだけだった。






 * * *






 ある日の午後。

 衛生区の資料室を出て、廊下を歩いていたときだった。

 角を曲がった瞬間、誰かとぶつかった。


「っ――」


 相手がよろめく。反射的に腕を掴んで支える。

 細い腕だった。純白の袖。鈴の音。


「大丈夫か――」


「触るなッ!」


 鋭い叫びと共に、腕を激しく払われた。

 同時に、パリン、と何かが割れる音。

 僕の足元に、小さなガラス瓶の破片が散らばっていた。ぶつかった拍子に落としたらしい。


 見覚えのある顔だった。

 氷のように冷たい眼差し。以前、送魔線技師を吹き飛ばした、あの黒髪の神官。

 しかし今、その顔には焦りが浮かんでいる。僕ではなく、足元の破片を凝視している。


 神官は素早くしゃがみ込み、破片を拾い集め始めた。

 その動きには、明らかに何かを隠そうとする気配があった。


 割れた瓶の中身だろうか。石畳に染みが広がっている。

 この慌てようはなんだ?


 脳裏に、さまよい病の噂がよぎった。

 「よそ者が穢れを持ち込んだ」という風説。だが、もし逆だとしたら?

 神官たちが何かを隠蔽している。さまよい病の原因を握りつぶしている。あの技師はそう訴えていた。


 ――まさか、この神官が。


「……それは何だ」


 口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど冷たかった。


「さまよい病と、何か関係があるのか?」


 神官の手が止まった。

 ゆっくりと顔を上げた彼の目は、凍りついていた。


「……何を、言っている」


「おかしいだろう。神官がこんな場所で、何をコソコソ隠している?」


 言葉が止まらなかった。

 送魔線技師を吹き飛ばしたときの傲慢な顔。よそ者の穢れとでも言うように、彼を支えようとした僕の手を拒絶した仕草。この都市で感じてきた理不尽な敵意全てを目の前の神官にお返しするつもりで問い詰める。


 神官は立ち上がった。

 その目には、先ほどの激昂とは違う、もっと深い冷たさが宿っていた。


「……二度と、私の前に現れるな」


 声は静かだった。だが、その一言には、明確な殺意が込められていた。

 神官は僕を一瞥することもなく、廊下の奥へと消えていった。


 僕は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 石畳に残った染みを見下ろす。


 ――あいつは、何を隠している?


 ふと、足元に目が留まった。

 割れた破片の中に、瓶の底の部分が残っていた。内側にはまだ微かに液体が残っている。


 周囲を確認してから、僕はそれを拾い上げ、ポケットに入れた。


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