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8歳から始める魔法学  作者: 上野夕陽
第七章

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第9話


 昨夜は、真理区の端にある古い宿舎に泊まった。

 イライジャに配属先を告げられた後、クインタスたちと別れ、案内された部屋は狭くて埃っぽかった。

 イライジャの肩書である主席研究員とは、この都市の五人の賢者の一人だという。この街の権力者の孫なのだから、もっと特別待遇をしてくれもいいはずだ。


 今朝は、発光苔の光が少しだけ明るくなったことで、朝が来たのだと知る。地上の太陽とは違う疑似的な朝だが、太陽と同期しているのだろうか?


 配属書を手に、僕は宿舎を出た。


 魔力形態学研究室。

 イライジャが指定した場所は、同じ真理区の中だが、歩いてそれなりにかかるらしい。

 地図を渡されたわけではないが、配属書に記された研究室番号を頼りに、僕は一人で歩き始めた。


 歩きながら、僕は周囲を観察していた。

 この地下都市は、想像以上に発展している。

 僕の中では、ネハナ人とは、もっと文明の進化とはほど遠い、幻想的な人種というイメージだったから驚きだ。


 通りには本や筆記具を売る露店が並び、どこからかインクの匂いが漂ってくる。

 路地裏からは議論する声が聞こえてきた。研究者同士が何かを言い合っているらしい。

 壁面に張り付くように建てられた住居は、発光苔の光に照らされ、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


 ふと、核樹の方を見上げた。

 この都市は、中心へ向かうほど標高が高くなる。そして核樹の根元には、ひときわ荘厳な建物群が見える。

 あそこが『神の手』と呼ばれる地域だと、昨日アリスから聞いた。神殿があり、古くからの名家が軒を連ねる聖域。

 僕たち研究者がいるこの真理区は、神の手地域を取り囲む外周部の一角らしい。


 そんな中、奇妙なものを見た。


 道端に、一人の老人が立っていた。

 ぶつぶつと何かを呟きながら、同じ場所で足踏みをしている。

 その視線は虚ろで、まるで別の世界を見ているかのようだ。


 僕は足を止めた。

 声をかけるべきだろうか。困っているように見える。


 だが、周囲を見回すと、誰もその老人に近づこうとしていない。

 むしろ、避けている。

 まるで、汚いものから距離を取るように。


 僕が立ち止まっているのを見て、通りすがりの女性が小声で言った。


「……関わらない方がいいよ」


 それだけ言って、足早に去っていく。

 老人は、相変わらずぶつぶつと呟きながら足踏みを続けている。

 僕は、胸騒ぎを覚えながら、その場を後にした。


 少し歩くと、今度は別の光景が目に入った。

 広場のベンチに座った女性が、微動だにせず虚空を見つめている。

 目は開いているのに、瞳に光がない。まるで魂が抜けたような。


 また、だ。

 周囲の人々は、やはり彼女を避けて通っている。

 何人かは、嫌悪の色を滲ませた視線を向け、小声で何かを囁き合っていた。


 彼らが何を言っているのか聞き取れないが、その態度から伝わってくるものがある。

 恐怖。忌避。そして、軽蔑。


 奇妙に思いながら、僕は歩を進めた。


 やがて、大きな建物の前に着いた。

 看板らしきものには「共同食堂」と書かれている。利用できる施設については、事前に説明は受けている。

 まだ指定の時刻まで時間があるから、ここで朝食をとることにする。


 食堂の中は、木造の温かみのある空間だった。

 長いテーブルがいくつも並び、様々な年齢の人々が食事をしている。

 僕が入ると、何人かがこちらを見た。好奇と、わずかな警戒が混じった視線。

 僕もここにいる多くと同じ研究員の制服を着用しているのだが、外見や纏う雰囲気から、よそ者だと一目でわかるのだろうか。


 空いている席に着くと、無言で食事が運ばれてきた。

 根菜のスープ、黒パン、それに何かの葉を炒めたもの。

 質素だが、温かそうだ。


 食べ始めようとした時、隣のテーブルから声がした。


「それでは、お借りしましょう」


 見ると、白髪の老人が両手を組んで目を閉じている。

 その周りの人々も、同じように手を組み、一斉に目を閉じた。


「お借りします」


 揃った声が、食堂に響いた。

 僕は箸を持ったまま固まってしまった。

 何が起きているのかわからない。


 周囲から、冷ややかな視線が向けられているのを感じた。

 慌てて箸を置き、見様見真似で両手を組む。だが、タイミングを完全に逃している。


 やがて、老人が「なおりなさい」と言うと、止まっていた時間が動き出したように、人々は食事を再開した。


 僕は黙って食事をした。

 何かを尋ねようにも、誰に声をかければいいのかわからない。

 ここでは僕は完全によそ者だった。


 そそくさと食事を終え、僕は食堂を出て再び歩き始めた。

 都市の端に近づくにつれ、建物は小さく、古びたものが増えていく。


 やがて、配属書に記された場所に着いた。

 そこにあったのは、古びた木造の建物だった。

 壁には苔がこびりつき、扉は傾いている。

 お世辞にも立派とは言えない。というか、廃墟に近い。


 ……ここが、僕の研究室?


 深呼吸をして、僕は扉を開けた。


 中は、外見よりはましだった。

 壁際には本棚と実験器具、中央には大きなテーブル。

 埃っぽいが、使われている形跡はある。


 そして、部屋の奥に、人影があった。


 幼い少女だ。

 赤茶色の髪を肩ほどで揃え、僕と同じ、研究員の制服を着ている。

 テーブルに向かって何かを書いていたが、僕が入ってくると、ゆっくりと顔を上げた。


 その瞳は、深い臙脂だった。

 そして、その目には、子供らしからぬ冷たさがあった。


 少女は、僕を一瞥しただけで、すぐに視線を手元に戻した。

 まるで、そこに誰もいないかのように。


「……まいったな」


 先輩研究員がこんな幼い子供だとは聞いていない。食堂で見た謎の儀礼もそうだけど、こういうことは先に説明しておいてほしい。

 イライジャに心の中で恨み言を言う。


 ペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響いている。


「僕はロイだ。今日からここに配属された……」


 少女は、ペンを止めなかった。

 僕の言葉が聞こえていないかのように、何かを書き続けている。


 無視されている。

 それとも、本当に聞こえていないのか。


「……あの、聞こえてるか?」


 少女は、ようやく顔を上げた。

 その目には、興味も敵意もない。ただ、虚無があった。


「……あの席」


 小さな声で、窓際の机を指差す。

 それだけ言って、また視線を手元に戻した。


 僕は、指差された机に向かった。

 そこには、埃を被った資料が山積みになっている。


「ここは……誰かの席じゃないのか?」


 返事はない。

 少女は、僕の存在を再び無視している。


 仕方なく、僕は椅子を引いて座った。

 埃っぽい。相当長い間、誰も使っていなかったのだろう。


「前の人」


 不意に、少女の声がした。

 振り返ると、少女はこちらを見ていた。


「あそこにぶら下がってた」


 少女が天井を指さす。

 背筋が冷たくなった。

 少女は、また視線を手元に戻した。


「君は……ここの研究員なのか? 他の人は?」


 返事はない。


「名前は?」


 沈黙。

 少女は、僕の質問に答える気がないらしい。


 諦めて、僕は机の上の資料を見始めた。

 前任者のものだろう。整理されていないというより、放置されている。


「アジュ」


 不意に、小さな声がした。


「……え?」


 アジュ。状況からして少女の名前だろう。


「アジュか。よろしく」


 投げかけた挨拶は返ってこない。

 僕はアジュとのコミュニケーションを諦め、目の前の書類の山に目を向けた。

 机の引き出しを開けると、一冊のノートが入っていた。

 表紙には、『研究日誌』と書かれている。


 開いてみると、最後のページに、震える筆跡で一文が記されていた。


 ――もう、限界だ。誰も信じてくれない。


 僕は、ノートを閉じた。


 ここに来る前にオーベルト公がクインタスに言っていた言葉が思い出される。

 ――あそこも決して理想郷ではない。


 先ほど、道端で見た奇妙な光景。

 ……なんだか、嫌な感じだ。


「さて」


 僕は、深呼吸をした。

 どんな社会でも問題はある。わざわざよそ者の僕が立ち入る必要はない。

 カエを救う方法を見つける。

 それが、僕に課せられた仕事だ。


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