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ヴィムの旅するハンチング  作者: 空丘ジル


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4/12

あの場所へ

 ぼくたちは今、あの家を見上げている。住所は、ベイカー街221B番地。

この家を見つけた時、ぼくたちはお互いをしばらく見つめあい、うなずきあった。ドアをノッカーでこつんこつんとノックすると、上品な女性が出てきた。これは、あの夫人だろうか。そして、作戦通りにぼくが話している風を装って、ヴィムにしゃべってもらう。彼に取り次いでほしいと言っているのだろう。夫人は二階へ身軽にトントントンと上っていき、何やら伝えていた。そして、ぼくたちを彼の部屋へと案内してくれた。

彼は、安楽椅子に深く腰掛け、僕らを迎え入れた。そして柔らかな微笑みとともに言った。

「やあ、いらっしゃい。初めましてだね。シャーロック・ホームズです」


* * *


 ここで、ほんの少し時間を戻そう。ホームズさんを訪ねる前、作戦会議の続きだ。

「君が思い描いたのは、あの名探偵、ホームズでしょう?」

ヴィムが言った。ぼくは驚いて、訊いた。

「どうしてそう思うの?」

「君の部屋のあの本棚。ずらっと並んでいるミステリ全集を考えると、君の行きたい場所は想像がつきます。それにここはビクトリア王朝のロンドン。もう間違いないでしょう」

ぼくはなんだか恥ずかしくなって、すこしうつむいた。

「ホームズが活躍した時代のロンドンに来てみたかったんだ。でも、ちゃんと分かっているよ、ホームズは小説の中の架空の人物だって。だからここに来ても会えないって」

「いえ、しかし、この旅で君が心に思い描いたのは、シャーロック・ホームズなのでしょう。だったら、彼がここに存在していても、不思議ではないと思いますがね」

「えっ、一体どういうこと?」

「あのハンチングは時間及び空間を移動するという機能を持ちます。しかし、わたしの理論が正しければ、同時に次元も移動できるはずなのです」

ぼくは戸惑った。

「それってまさか」

「ええ、架空の世界にも行けると思うのです。それに彼は、ただ単に架空の人物というわけではありません。長年世界中の人に親しまれ、愛されてきたあの作品、あの人物。かなり強い念のちからがこもっていると思われます。どうです、訪ねていくだけの価値があると思いませんか」

あのホームズに会えるかもしれない!

もちろんうれしかった。それと同時になんだか怖かった。あのホームズがとても嫌なひとだったらどうしよう。コカイン中毒の症状が出ていて、恐ろしい姿だったら。煮え切らないぼくを見て、ヴィムが言った。

「とりあえず行ってみましょう。あの当時、ベーカー街221B番地という住所は存在しなかったのです。もし、その番地が見つかれば、わたしたちは架空の世界に来たことになります」


* * *


 ホームズさんはぼくたちを招き入れ、どうぞお座りくださいと椅子を指し示した。ぼくは、ここでの挨拶は、お辞儀なのか握手なのか迷った。そして、『シャーロック・ホームズの事件簿』のなかでジェームズ・ダメリー卿が礼儀正しく頭を下げるシーンがあることを思い出し、なるべく礼儀正しく見えるようにぺこりとお辞儀をした。

 ホームズさんはぼくたちを凝視しながら言った。ぼくには彼の言っていることは理解できないので、ヴィムがあとで教えてくれたのによるとこうだ。

「やあ、ようこそ。君のような少年が訪ねてきてくれるのは珍しい。いや、親しくしている少年たち以外ではね」

「初めまして、ホームズさん。突然の来訪をお許しください」

と、これはもちろんヴィムだ。

「ちっとも構わないよ。ところで君はずいぶんと変わった格好をしているね。異国からのお客様のようだね。おや、ひざに怪我を」

ぼくはTシャツと短パンにスニーカーという格好だったのだ。

「はい、こちらには今日着きました。飼い犬以外の連れもなく、心細く街を歩いていると、困ったことにひったくりにあいまして」

「それは大変。何を盗られたのだい?」

「はい、ハンチング、つまり鳥打ち帽ですね。たいして上等というわけではありませんが、祖父から譲り受けた大切なものなのです」

「それを取り返したいということだね」

「はい、ぜひ」

「分かった。依頼を受けることはできるが、報酬はいただけるのかい?」

「残念ながら、今は、たいして持ち合わせがないのです。あとでお送りしてもよろしいでしょうか」

「いや、それは結構。それよりもわたしの仕事を手伝ってくれないだろうか」

「えっ」

「今、まだ詳細は明らかになっていないが、大変な事件が起こっているようでね。その事件に、君に助力を願えないだろうか」

「ぼくのような子供でもよいのでしょうか」

「ええ、君がよいのです。わたしは少年たちも使っていますしね。彼らは実際、非常に役に立つのです。わたしは思うのですよ。ときに、子供というものは、非常に優れた、大人など逆立ちしてもかなわない面を持っていると。その発想力、柔軟さ。きっと君はわたしの役に立ってくれると思いますよ。なんだかそういう気がしてならないのです」

ホームズさんはそこでしばらく間をおいて、ぼくたちをじっと見つめて言った。

「ところで、一つきいておきたいことがあるのだが・・・どうして犬がしゃべっているのかい?」

ヴィムは明らかにぎくっとからだを緊張させた。そして、ぼくを見て、

「やれやれ、ばれているようですよ。こんな子供だましな方法では、彼を欺くなんて所詮無理というわけですね」

と苦笑いに見えるような顔して言った。そして、「降ろしてくれませんか」とぼくに言い、ホームズさんにゆっくり歩み寄り、ていねいに頭を下げ、言った。

「改めて、初めまして。わたしはサー・ヴィム・トビアス・ポッシュ。科学者です」

ホームズさんは、目を丸くして言った。

「思いもかけないことがあるものだね。世界の様々なものを見てきたと思ったけれど、これほど驚かされたことはない」

そして、安楽椅子から立ち上がると、ひざまずいて、ヴィムの目線に合わせて、

「ちょっと、なでてもいいだろうか」

と尋ねた。

ヴィムは、どうぞ、と澄まして言った。

しかし、ホームズさんが、あまりにいろんなところをなでさするので、

「へへへ、もう、ははは、や、やめて、っふふふ、いただけませんか」

と言った。


 ほどなくして、ワトスン博士が往診後、訪ねて来て、ぼくのひざを手当てしてくれた。彼は、最近アン女王街というところに住まいを移し、開業医を再開したという。とても穏やかで優しい人だ。ホームズさんも心からの信頼を寄せているようだ。

また、八時ごろには、ベーカー街遊撃隊のリーダー、ウィギンスがやってきた。何かお手伝いすることはありませんか、と定期的に訪ねてくるという。彼は、なんだか顔色が悪い。

「うちのクリスが、いなくなってしまったのです。みんなで探し回っているのですが、見つからなくて」

クリスと言うのは遊撃隊の少年の一人で、三日ほど前から姿が見えないという。まだ六歳なので、ひとりでどこが別の場所に住処を移すという可能性は低いと思われた。

「うん、そのことなのだがね、最近ロンドンじゅうで、子供が行方不明になるという事件が起きているのだよ。そして、どの家庭にも身代金の要求などは来ていない。わたしはこれを連続子供誘拐事件ではないかと睨んでいるのだ。考えたくないことだが、クリスもまた、誘拐された可能性がある」

ウィギンスはさっと顔を上げた。

「ホームズさん、ぼくらは何でもやります。クリスをどうか助けてください」

ホームズさんは、ウィギンスの肩を励ますように優しくゆすり、ぼくの肩にも手を置いた。

「もちろんさ。きっと救い出す。しかし、この誘拐事件には、今のところ、まるで手がかりがないのだ。ぼくはね、この彼の助力も頼んだのだよ。どういうわけだか、この彼がこの事件のカギを握っているという気がしてならないのだ。

 しかしながら、この事件のために、今やれることは何一つないと言ってよいのだ。だから、とりあえず、この彼の依頼を先にやっつけてしまおう」

そして、ホームズさんは、ウィギンスにハンチングのことを説明した。

「このような犯罪は、よほど金に困っているやつの仕業だ。だから、すぐにでも金に換えようとする。君たちは手分けして、質屋を回ってくれ。貧乏人でも気兼ねなく入れそうな三流の質屋だけでいい。

もしハンチングがすでに持ち込まれているのなら、すぐにこちらで買い取るので、誰にも売らないようにと言ってくれ。もし、まだのようなら、ハンチングが持ち込まれたら、預かっておいて、代金を後日受け取りに来るようにと言ってもらってくれ」

ウィギンスは殊勝にホームズさんの話をうなずきながら聞いた。そして、ヴィムの顔を見て、何か言いたそうな顔をしたが、何も言わずに帰っていった。

夕食はハドスン夫人が作ってくれたマトンカレーだった。ぼくには少し辛すぎたけれど、それでも美味しかった。ヴィムは茹でたチキンをもらっていた。

ぼくは以前ワトスン博士が使っていた部屋を貸してもらい、ゆっくり眠ることができた。ホームズさんとヴィムは夜遅くまで語り合っていた。ヴィムは今までのことを話し、ホームズさんは自分の考案した科学捜査方法を語った。科学者のヴィムと科学に造詣の深いホームズさんだ。気が合うのかもしれない。


 ゴボッゴボッ

ぼくは次の日の朝、その物音で目が覚めた。ヴィムが何かを吐いていたのだ。ぜえぜえと、とても呼吸が早い。ぼくは驚いてヴィムの背中をそっと撫でた。

「そ、外に連れて行ってくれませんか」

ヴィムは荒い息の下でそう言った。ぼくが急いで外にヴィムを連れていくと、その物音で目を覚ましたのだろう、ホームズさんも出てきてくれた。ぼくがヴィムの体調が悪いことを話すと、

「ああ、あのチキンかもしれない。困ったことに、ハドスン夫人はたまに古い食材を使うのだよ」

とホームズさんが小声で申し訳なさそうに言った。ヴィムは外の空気を吸っても、ぐったりしたままだ。

ホームズさんとぼくはヴィムを獣医に連れて行った。ヴィムはしばらく入院することになった。ヴィムがいなくなったので、ホームズさんとぼくは身振り手振りを入れて会話した。ぼくは少しずつホームズさんの言うことが理解できるようになってきた。

そのあと、遊撃隊の少年たちを訪ねた。彼らによると、どの質屋にもあのハンチングは持ち込まれていないようだった。そして、どの店主も、ホームズさんなら喜んで協力すると言ったと言う。

「さあ、これで準備はできた。あとは、ハンチングが持ち込まれたという報告を待とう」

ホームズさんは言った。

ぼくたちは、ホームズさんの下宿に帰った。そこで、すでに待っていたのは、スコットランドヤードのレストレード警部だった。警部は小さな声でホームズさんに何かを伝えた。

ホームズさんは途端に厳しい顔になって、

「わたしは今から警察へ行かなければならない。君は私の部屋で待っていてくれるかい」

と言って、レストレード警部とともに馬車で出かけて行った。

その夜、ぼくもハドスン夫人も寝静まってから、ホームズさんは帰って来た。


 三日目の朝、ぼくが起きると、ホームズさんはすでに起きていて、何かを熱心にルーペを使って観察していた。

「おはよう、早速で悪いのだが、今からわたしの仕事を手伝ってくれるかな?」

「はいっ!」

ぼくは張り切って返事した。ヴィムのことが心配でたまらなかったけれど、今は何もできることがない。だから、何か他のことに集中して気を紛らわしたかったのだ。

「これなんだがね」

ホームズさんがぼくに差し出したのは、一枚の写真だった。


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