到着と災難
「おっとっと……!」
ぼくは激しくよろめきながら、どうにか地面を踏みしめた。
めまいに似た感覚が収まると、足の裏から確かな大地の感触が伝わってくる。どうやら無事に、時空の跳躍は成功したらしい。
ぼくは内心でガッツポーズをしながらも、ヴィムの手前、平静を装ってすました顔を作った。 頭にはあの古いハンチング帽、背中にはずっしりと重い非常用リュック、そして両腕にはヴィムの小さな体をしっかりと抱きかかえている。
ぼくはゆっくりと周囲を見渡した。 現実には一度も見たことがないはずの、重厚なレンガ造りの街並み。ひどく濃い霧が立ち込めているけれど、なぜか不思議と懐かしいような心地がする。
やったぞ、間違いない。ここは――。
「……どうやらロンドンのようですね。時代はそう、一世紀ほど前――ヴィクトリア朝といったところでしょうか」
胸の中のヴィムが、周囲を観察しながらぼそりと呟いた。
ぼくは目を見開いて子犬の顔を覗き込んだ。
「えっ、一目で分かるの!?」
「街並みや石畳の様子、行き交う人々の服装、それにあの辻馬車を見ればね。大体の見当はつきますよ」
ぼくは内心、心臓がハッと跳ね上がるのを感じた。ヴィムに黙ってこっそり狙った通りの時代へ来られた喜びと、目的地を秒で見破られた焦りが混ざり合う。
ぼくは「エヘヘ……」と少しマヌケな笑い声を上げてごまかした。
それからぼくたちは、霧に煙る異国の街をじっくりと眺めながら歩き出した。本や映画の中でしか知らなかった憧れの光景が目の前に広がっていて、嬉しさのあまり、ぼくの足取りは少しスキップを踏むように弾んでいたかもしれない。
――その時だった。 背後から、恐ろしいほどの強い力でドンとぶつかられた。
「うわっ!?」
ぼくの身体は派手に前方へと吹き飛ばされ、石畳の上を転がった。むき出しの膝を打ちつけ、鋭い痛みが走る。
隣を歩いていたヴィムが、短い足を必死に動かして「モモタ君!」とぼくに駆け寄ってきた。
衝撃で頭から転がり落ちたハンチング帽を拾おうと、ぼくが必死に手を伸ばした、
その瞬間。 ぶつかってきた影――人影が、ぼくの背中からリュックを力任せに剥ぎ取ろうとした。 けれど、出発の間際にチェストストラップ(胸のベルト)をきつく締めていたおかげで、リュックはぼくの背中にがっしりとしがみついて離れなかった。
ちっと舌打ちをするような音が聞こえた。人影はリュックを諦めると、代わりに地面に落ちていたハンチング帽をひったくるように掴み取り、そのまま濃霧の向こうへと走り去ってしまった。
まさに一瞬の出来事だった。あまりに深い霧のせいで、犯人の背格好すらよく分からなかった。
ぼくは呆然としながらも、命より大切なタイムマシンを奪われた焦りから、すぐに立ち上がって追いかけようとした。
「ま、待ってください、モモタ君!」
ヴィムの鋭い制止の声に、ぼくはハッと足を止めた。
ヴィムはちいさな鼻先で、通りの右側を素早く指し示す。
「いったん、あちらの建物の陰へ隠れましょう」
ぼくはジンジンと激しく痛む膝小僧の痛みをこらえながら、赤褐色のレンガが並ぶ薄暗い路地裏へと滑り込んだ。 壁に背を預けると、ヴィムが心配そうにぼくを見上げてきた。
「膝は痛みますか? 歩けそうですか?」
「大丈夫、かすり傷だよ」
ぼくは強がって首を横に振った。
ヴィムはひとつ小さくうなずいた。
「後できちんと手当てをしましょう。……ハンチングを盗られたのは、言葉もないほど痛手ですが、今は仕方がありません。あの霧の中を闇雲に追いかけても、見失うのがオチです。最悪の場合、相手に返り討ちにされて痛めつけられる危険性だってありましたからね」
悔しくて堪らなかったけれど、ヴィムの冷静な指摘はあまりにももっともで、ぼくは大人しくうなずくしかなかった。
ふう、とヴィムは息を整え、深刻な声をさらに低くした。
「実は、使いながら説明しようと思って後回しにしていたのですが……あのハンチングのことです。あれには、単なる時空移動のほかにも、色々な機能が備わっているのですよ。
まずは、ご存じの通り『時間と空間の移動』。しかし、よく考えてみてください。その時代や場所にそぐわない異分子がいきなり目の前に現れたら、歴史の混乱を招いてしまうでしょう? ここでも同じことです。わたしたちのような現代の格好をした人間と、喋る犬がいきなり大通りに現れたら、目立って仕方がないはずなのです。
だから、あのハンチングに備わった二つ目の機能は、かぶっている者の姿を『周囲の環境に自然に馴染ませる』カモフラージュ能力なのです。つまり、本来なら周りの人間の目には、君がこの時代の、このロンドンに普通に暮らしている少年の一人として映っていたはずなのです」
ヴィムはちいさな前足を一本立てて、解説を続けた。
「それから三つめは、自動翻訳機能。見知らぬ地での意思疎通をはかるために、現地の会話を瞬時に理解させ、同時に君が喋る日本語を現地の言葉に変えて周囲へ届ける。
……ええ、どれも時空の旅には必要不可欠な機能ばかりなのですよ」
そこまで言うと、ヴィムは言葉を切り、深く、重いため息をついた。そのつぶらな瞳が、ぼくの頭上をじっと見つめる。
「さて。今の君は、そのハンチングをかぶっていません。ということはつまり――現在の君は周囲の目から見れば、この時代には存在しない異様な風体をした、しかも言葉の全く通じない正体不明の少年、ということになりましょう。……意味がお分かりですか?」
「うん……」
ぼくはゴクリと喉を鳴らし、青ざめながらうなずいた。
つまり、言葉も通じない、格好も怪しい不審者として、19世紀のロンドンに取り残されたということだ。
まさに絶体絶命、完全なる迷子。 どうしよう、とぼくが完全にパニックを起こしておろおろし始めると、ヴィムは打って変わって、落ち着き払った声で言った。
「まあ、こうなってしまった以上は仕方がありません。むしろちょうど都合がいいかもしれませんね。まずは、君がそもそも会いに来たかったという『あの人物』の元を訪ねてみることにしましょう」
ぼくは胸がチクリと痛み、申し訳ない気持ちでいっぱいに引きつった声を絞り出した。
「……ごめんなさい。ぼくが頭の中で思い浮かべたひとは、実在する人物じゃないんだ。だから、ここには居ないと思う」
「ほう?」
ヴィムは少し首をかしげ、何かを察したように少し考えてから言った。
「実在しない、ですか。それではとりあえず、君の頭の中にある『その住所』を訪ねてみることにしましょう。ですがその前に、この街を安全に歩くためのちょっとした作戦会議をしておかなければなりません」
「作戦会議?」
「ええ。まず、こちらの言語は英語ですが、君たちの時代のものとは少し訛りや使い回しが異なる、当時の英国英語です。これはいいですね?」
ぼくはコクリとうなずいた。ミステリ小説で読んだ知識が頭をよぎる。
「言葉の通じない君の代わりに、わたしが交渉の席に立つとしましょう。しかし、ロンドンの街中で犬が流暢な英語を喋り出したら、それこそ大騒動です。だから――君が喋っている風を装いながら、実際にはわたしが喋るのです」
「なるほど……!」
ぼくは何度もぶんぶんと首を振ってうなずいた。
「よろしい。ではちょっと、その背中のリュックからタオルを取り出してください。……はい、それです。それでぐるりと首の周りを巻いて、口元がすっぽり隠れるように結んで。ああ、それで結構」
ぼくはリュックから引っ張り出した、紺と白のボーダー柄の厚手のタオルで、自分の顔の下半分を覆い隠した。これなら、ぼくの口元が動いていなくても外からは見えない。
「では、わたしを抱き上げてみてください。そう、わたしの顔を常に君の耳元や顎のあたりに向けておくのです。これなら、君がタオルの中でボソボソと呟いている声を、周囲が勝手に聞き取ってくれているように錯覚させられます」
完璧なシミュレーションだった。
さすがはドクター・ヴィム。
ぼくはヴィムをしっかりと胸に抱き上げ、タオル越しに一つ深く息を吸い込んだ。
こうしてぼくたちは霧の路地裏を抜け、ぼくの憧れであり、世界で最も有名な「あの住所」を目指して歩き始めたんだ。




