第二章 静寂を破る「紙の剣」 Ⅰ
1.沈黙の防波堤 ―― 死神の撤退戦
カレル平原が血と裏切りで埋め尽くされたあの日、アソセス軍はもはや軍隊としての体を成していなかった。
名将ソードリックの死、そして副将ラヌムスの裏切り。
その地獄の淵から、唯一這い出してきた影があった。
クスト・レア率いる三千の黒騎兵。
「仇を討つのではない……死にゆく同胞一人でも多く、この闇から引きずり出すぞ!」
クストは、執拗な追撃をかわしながら退却戦を開始した。
目指すは王都への最終防衛線、エルン峡谷。
それは生き延びるための逃走ではなく、同胞たちが逃げるための「僅かな時間」を捧げるための死地への行軍であった。
数日後、追撃の先陣を切るラノアは、峡谷の入口で、戦慄を通り越して驚愕していた。
「……化け物め。三千だぞ? たった三千で、我が軍を三日も止め続けているというのか!」
狭隘な峡谷の入り口には、戦死した敵兵と同胞と軍馬を積み上げて築かれた、物言わぬ 「死体の防波堤」 があった。
クスト・レアは、返り血で黒い鎧をさらに暗く染め、ただ一人で屹立していた。
その姿を捉えた瞬間、ラノアの胸に熱い痛みが走る。
かつて共に理想を語り、同じ焚き火を囲んだあの穏やかな男の面影は、もはやそこにはなかった。
「全軍、楔の陣」
クストの短く静かな号令。
次の瞬間、彼は黒い旋風となった。
ラノアが放つ「正義」を宿した白銀の一撃を、物理的な必然性をもって滑らせ、受け流す。
すれ違いざま、二人の視線が交差した。
「……クスト! なぜだ!」
ラノアの叫びに対し、クストの瞳は静まり返っていた。
かつて交わした友情も、すべてを喉の奥に封じ込めたような、絶望的なまでの沈黙。
クストはラノアを追い越しざま、背後の混成部隊へ一閃。
悲鳴を上げる暇もなく、ガレスの先遣隊が血飛沫へと変わる。
(……貴公は、心まで死神になったというのか)
ラノアは、唇を噛み締めた。
クストの瞳にあるのは殺気ですらない。ただ「時間を稼ぐ」という冷徹な機能だけだ。
2. 虚像の檻 代理の指揮官
カレル平原を埋め尽くした四万五千の骸の腐臭が、最北端に陣を敷くアトラクト軍の天幕にまで届いていた。
連合軍の最後尾として「背後の守り」を任された一万の軍勢。
それは同時に軍師ベベクロによる「監視」の檻の中にいることも意味していた。
深夜、彼女は軍装の上に目立たない旅装の外套を羽織り、信頼する副将ランダ・ハルクを呼び出していた。
「……ランダ、これより三日間、私はここを離れます」
「姫様、正気ですか。目前にはベベクロの監視眼があり、南方ではクスト将軍が死闘を演じている。今、全権特使である貴女がいなくなれば……」
アリスは震えそうになる心を押し殺す。
歴戦の勇士であるランダの目を見据えて、静かに微笑んだ。
「だからこそ、貴方に預けるのです。ランダ、貴方はこれより『私の代理』として、この天幕を守りなさい。」
「いいですか、ガレスからの使者が来ても、病を理由に決して中へ入ないで。そこのジークの弟子リリアンに、私の影武者を務めさせます。」
アリスは、傍らに控える少女、リリアンへと視線を送った。
リリアンは緊張に面持ちを引き締めながらも、力強く頷く。
彼女の若さと銀色の髪は、天幕の奥に潜ませておけば十分な「虚像」となるはずだった。
「それとガレイシア王に『極秘会談中』という虚偽の報告を流させ、オマール兵に天幕を物理的に封鎖させなさい。 ベベクロには、私が山岳王に篭絡されているとでも思わせておけば、三日は手出しできません。貴方はただ、アトラクト軍一万が『沈黙を保ったままここに停滞している』という虚像を、ベベクロに見せつけなさい」
ランダはなお問う。
「……そこまでして、何を恐れておられるのです」
「私が恐れているのはアソセスの滅亡ではない。この戦争がミーテラスの女王陛下の『静寂』を完全に壊し、彼女が自ら大陸を掃除しにくることだ」
アリスは机の上の地図を指でなぞる。その指先は、すでに迷いなく南を指していた。
「クスト将軍が峡谷で稼げる時間は、長くても三日。私はその間に王都へ入り、この戦を終わらせる『紙の剣』を手に入れてきます。……ランダ、貴方の忍耐が、アソセスの、そしてアトラクトの命運を握っています」
ランダ・ハルクはしばし絶句したあと、その巨大な拳を胸に当て、折れぬ盾のように深く膝を突いた。
ランダと、身代わりとして残るリリアンの覚悟を背に、アリスとジークシールドは闇へと溶けた。
ここから彼女の壮大な「嘘」が始まります。




